ブランカ菓子店
千鳥はゆったりと歩きながら、色硝子で出来た星座を見上げた。
その小さな商店街は、両脇に細々とした商店が並び、タイル張りの道が緩やかに続いている。アーケードの天井は星座をかたどったステンドグラス風の造りになっていて、掠れた光を地面に落としていた。人工の星座に照らされて、色とりどりの簾がさやさやと揺らめく様は空に七色の波が寄せるようで、それは人の手で作られた天の川だった。
夏祭りが近い。
「じゃあ、また明日ね」
「ちーちゃん、バイバーイ」
アーケードの前で、折戸谷とミホが手を振った。千鳥は二人に手を振り返し、商店街の入口である派手な門をくぐった。
天文部のくせに天体観測はせずにひたすらおしゃべりしたり音楽を聴いたりするだけのダラダラした部活動も終わり、深海はお休みだったので海街の夕暮れを三人で帰宅した。この商店街を通り抜けると駅までの近道だと折戸谷が教えてくれた。
商店街のいたるところ、電柱や商店の壁に、七夕祭りのポスターがベタベタと貼られている。
千鳥は夏祭りの前の、熱を帯び始めたざわめきに耳を傾けながら、そろそろと人の波の間を歩いていく。
最近、近所に大きなスーパーマーケットが開店したために、すっかり人が少なくなってしまったと嘆かれていた商店街だが、夏祭りを控えて賑わいの気配を取り戻していた。
この商店街の七夕飾りは一風変わっていて、一般的な笹やくす玉ばかりでなく、例えばアニメのキャラクターや有名人の人形があったり、中には電球が光ったり動くギミックのあるものもある。一応は制作者のこだわりが光る力作揃いなのだが、個性的すぎて統一性もなく、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような雑然さだ。見ている分には飽きないので、ついつい天井を見上げながら歩いてしまう。
そうやって上ばかり見ていたせいで、前方が完全に不注意だったようだ。こつん、となにかが靴に当たり、千鳥は足を止めた。
気づけばすぐ目の前に店の看板がある。
ちょうどアーケードの真ん中あたり。店と店の間に窮屈そうに挟まれた、古びた洋菓子店の前だった。店名だろう、白い地に金色の流れるような優雅な文字の看板。玄関のガラス扉の前に、一匹のでっぷりとした老猫が寝そべっている。
千鳥は看板を避けて歩き出そうとして、しかしその足は前に進まなかった。
寝そべる猫の横、ショウウィンドウの前に、小さな子どもがかじりつくように店内を覗き込んでいた。
子どもの姿を見るなり、千鳥は目を丸くする。そっと近づいて、後ろから子どもの顔を覗き込む。やはり見間違いではなかった。
「……こんにちは」
後ろから声をかけると、子どもはようやく千鳥の存在に気づいたらしい。まんまるの瞳が驚いたように見上げてくる。そのイチゴジャムのような赤い瞳を、千鳥は微笑んで見つめ返した。
水族館で出会った不思議な子ども。あの時抱えていた重そうなカメラを、やはり首から下げている。無口なのも相変わらずなようで、目を見開いたまま、じっと千鳥を見上げていた。
「えっと、私のこと、覚えてますか?」
考えてみれば、水族館で迷子になった時に一度だけ会っただけだ。お兄さんの深海と親しくなった延長で考えてしまったが、この子どもにとっては自分は親密な人間ではないと思い至る。
しかし千鳥の心配をよそに、子どもは、こくん、と首がもげるのではと不安になるほど大きく頷いた。千鳥はほっと息をつく。覚えてくれていたようだ。
「また、会いましたね」
話を続けようとして、千鳥は子どもの名前がうろ覚えであることに気づく。
「えっと……」
必死に思い出そうと唸り出した千鳥に、子どもは首を傾げる。それから何を思ったのか、ウィンドウに貼られていた夏祭りのポスターを、小さな指で、トン、トン、と叩いた。
「? 七夕祭りですか?」
意味がわからず千鳥が首を傾げると、子どもは、ん、とまた強くポスターを叩く。
無表情の中に、何かを伝えようとしているのがなんとなく伝わってきた。
「なにか、このポスターに秘密が……?」
千鳥は目を細めて、指先の文字をじっと見つめる。
そして数秒後、ぱっと閃いた。
「ユウちゃん、でしたね」
子どもの指は、『七夕祭』のちょうど真ん中の文字を指していた。無口なりの意思表示がうまくいって、子どもは満足げに大きく頷いた。
「私は……」
千鳥は自分も名乗ろうとして、ふと、ポスターの横に貼られたお店のケーキの写真に目を止めた。海の仲間クッキーとやらの中に、羽の生えた魚を見つける。
「……私は、これです」
この風変わりなあだ名は、約一名しか呼ばないが。
「トビウオの、とびこ、です」
本名を伝えなかったことに特別な意味はない。けれどなんとなく、この子にはそう伝えたかった。
こくん、と頷いたので、覚えてくれたのだろう。
子ども、ユウはそのまま指をずらして、ケーキの写真を叩く。そこに並ぶのは、きらびやかにデコレーションされ、ロウソクが刺さったホールケーキだ。
「お誕生日のケーキ?」
名前入れは三日前までにご予約ください、の文字を眺めながら、千鳥はユウとケーキを交互に見る。
「ユウちゃんのお誕生日なんですか?」
今度は、ふるふると勢いよく首を横に振った。違うらしい。
「あ、もしかして」
千鳥は誰の誕生日か気づいて、微笑む。
「お兄さんのお誕生日ですか?」
ユウの顔が、ぱっと顔が輝いた気がした。
「どうしてお店に入らないんですか?」
ケーキを受け取りに来たのなら店に入れば良いのに、しかし店の前でまごついている。そのことを尋ねると、ユウはポケットをまさぐり、小さな握りこぶしを千鳥に付き出した。
そっと開いた貝殻のような手のひらに、じゃらじゃらと小銭が乗っかっている。十円玉や百円玉ばかりで、全部合わせても千円はないだろう。
千鳥はホールケーキの値段を見る。
「……もしかして、お金が足りないんですか?」
悲哀に満ちた顔は、正解のようだ。
「え、えっと、私も少しなら手持ちが……」
あまりにも悲しそうな顔に、千鳥は慌てて自分の財布に手を伸ばしたが、財布の残高を計算してがっくりと項垂れた。なんとなく、バイト三昧の部長の苦悩が理解できた気がした。
無力な自分を嘆く千鳥だったが、不安そうな幼子の前に、はっと気持ちを切り替える。
ユウの手のひらを、小銭ごとそっと包み込んだ。
「……とりあえず、お店に入ってみませんか。ホールケーキは無理かもしれませんけど、他のケーキなら買えるかもしれませんし」
ユウの手を引いて店の入口に立つと、寝そべっている猫が億劫そうに見上げてきた。客が来てもどこ吹く風で、そのままどでんと寝そべっている。
千鳥は猫を避けつつ、そっと扉を開けた。
こじんまりとした店内だった。棚にはクッキーの詰め合わせやジャムの瓶が並び、中央のケースには十種類くらいのケーキが慎ましく並んでいた。掃除は行き届いているので清潔だが、おしゃれさとは程遠い。並んだ菓子も、コンビニやデパートに並ぶ流行菓子のきらびやかさはなく、よく言えば定番の懐かしい風情、悪く言えば古くさく少しやぼったい佇まい。それでも小さな店に満ちた甘い匂いは、ソワソワと心をくすぐってくる。
これといって特徴のない店だったが、唯一目につくのは、天井から吊るされた古びたランプだ。淡い赤色のカバーがかけてあって、ガラスを連ねた長い飾りが円形に垂れ、それがまるで……
「……クラゲみたい」
「いらっしゃいませ」
千鳥の呟きに、店員の明るい声が重なる。並んだケーキの向こうに、白いエプロン姿の少女が微笑みを浮かべていた。バイトだろうか、千鳥とそう変わらない年代の、爽やかなショートカットがよく似合う娘だ。
千鳥はやや緊張しつつ、ケーキを覗き込んだ。
「七夕祭りの特別メニューもございますよ」
にこやかに商品の説明をしてくれる店員の少女によれば、お勧めは七夕ゼリーだった。星の形のフルーツが海色のゼリーの中に浮かんでいる。
高級店ではないので、お値段はそこそこ。カットのケーキなら、なんとかユウの予算内でも手が届きそうだ。店員の少女に誕生日ケーキを探していることと予算を伝えると、色々とお勧めしてくれた。
「このチョコレートケーキはいかがですか?」
手のひらサイズの小さなケーキで、艶やかなチョコレートのコーティングに金粉が星屑のように散りばめられている。シンプルだが美しいケーキだった。
「お誕生日ケーキですと、こういったオプションも追加できますよ」
店員の少女は、ケーキに添える砂糖の薔薇を見せてくれた。ローソクやメッセージカードなどもあるそうだが、しかし、追加料金がかかるとのこと。
「あ、でも予算が……」
ケーキほどではないものの、それなりの金額に千鳥は首を横に振る。確かにオプションを足せば完璧な誕生日ケーキになるだろうが、ここは予算的には諦める他ない。
「追加の飾りは無理ですけど、そのままでもじゅうぶんきれいなケーキですよ。どう、でしょうか?」
ユウは、しばらくじいっとチョコレートケーキを睨むように見つめ続けた。
それからおもむろに、ゆっくりと頷く。どうやら気に入ったらしい。
「じゃあ、これでお願いします」
「かしこまりました。ただいまご用意いたします」
無事に予算内でケーキが決まり、千鳥はほっと胸を撫で下ろした。
「こちらでよろしいでしょうか」
しかし、箱に入れてもらったケーキを確認した千鳥は、困惑に顔をしかめた。
「あの、オプションは……」
ケーキには砂糖菓子の薔薇とローソクが添えられていた。予算オーバーなので諦めたはずのものだ。
うろたえる千鳥に、店員の少女はいたずらっぽくウインクする。
「サービスです。店長には内緒ですよ」
一瞬驚いて目を丸くした千鳥だったが、店員さんの粋な計らいに、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、ありがとうございます!」
「またのご来店をお待ちしております。よいお誕生日をお過ごしくださいね」
少女の笑顔に送られて、店を出たユウの小さな手には、ケーキの白い箱が大切そうに抱えられていた。
「親切な店員さんでよかったですね」
こくん、と頷く。やはり表情は変わらないが、やりとげた満足感が滲んでいた。
千鳥の手にもケーキの箱がある。つい、つられて七夕ゼリーを購入してしまったのだ。予想以上に立派な誕生日ケーキを手に入れることが出来て、千鳥は浮かれていた。
「落とさないように気をつけてくださいね」
店を出るとやはり、案の定まったく動いた気配のない猫が仏頂面で見上げてくる。
ユウはケーキの箱を庇うように持ち上げて、ゆっくりと乗り越えると、猫は、ふん、と鼻をならして尻尾を揺らした。
最後の難関、猫の障害物も無事に越えたようだ。
「これで、お兄さんのお誕生日をお祝いできますね」
千鳥の言葉に、ユウも頷く。
しかし、うまく行ったのはそこまでだった。
無事にミッションをクリアしたことで、油断していたのだろう。
何もない場所で、突然ユウがつまずいた。
「あっ」
千鳥は思わず声をあげていた。
グシャッという無惨な音に、千鳥とユウは同時に硬直する。
「「……」」
まんまるに見開かれたユウの瞳は、瞬きを完全に忘れていた。
ケーキの箱が、無惨に地面に落ちていた。
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