〈観察者Mと生物M〉夜の水槽に潜る

 その少女と出会ったのは、夏の終わりのひんやりとした夜だった。

 その頃少年は、生前父が世話になった教授の伝手で、大学附属の水族館で働いていた。そこは海にとりつかれた少年にとって、静かで少し古くさくて、巣のような安心感をもたらしてくれる場所だった。

 父の遺品の中に、水中カメラがある。といっても、貧乏カメラマンだった父は、高額なプロ仕様の水中カメラなどに手が出せるはずもなく、陸用の一眼レフ(それも中古をどこかで安く手に入れている)を、自作で水中撮影用に防水加工を施していたようだ。その手作り感の残る、しかしとても丁寧な仕事は、父の相棒への愛着を感じられた。黒い箱に残る小さな引っ掻き傷や凹みひとつひとつに、父の匂いが染み込んでいた。

 水族館の館長が理解のある人で、カメラ小僧の少年に、閉館後、自由に館内を撮影させてくれた。明かりの落とされた水槽郡の間をカメラを抱えて歩いていくと、まるで海の底を散歩している気分になった。

 その日は水槽の定期点検のため休館で、その作業も終わったので、いつもより少し早い消灯となった。

 だから撮影の時間はたっぷりとあって、回遊魚みたいに水族館をぐるぐると徘徊する。そして手当たり次第に気になったものにレンズを向けた。

 エイやサメの悠々とした姿、銀色の小魚の群、海草の林に隠れるカラフルなエビなんかをレンズ越しに追いかけていると、ふと、フィルターの中に、ヒラヒラとしたレースのようなものが横切った。

 少年は足を止めた。

 巨大な水槽の前だった。分厚い一枚硝子に隔たれて、海がそこに切り取られていた。近郊の海洋の生態系を再現した、貧乏な田舎水族館の唯一自慢の設備だった。多種多様な水生生物が限りなく本物に近い姿で飼育されているが、今は夜なので、魚達の動きも緩慢である。

 少年のカメラの中に、眩しい光が映りこむ。それはダンスをする貴婦人のドレスが優雅にひるがえる様に似て、虹色に淡く発光していた。

 少年は驚きに目を見開いて、カメラを下げた。目をこすってよくよく見ると、水槽のガラスの壁に映り込んでいたのは、少女の姿だった。

「誰だ?」

 透明な硝子に反射した光は、少年が驚いて思わず発光させてしまったフラッシュだった。

「……ねえさん?」

 少年はカメラを構えた姿勢で固まった。

 その少女の顔に、あまりにも覚えがあった。ありすぎて、理解できなかった。

 その少女の姿は、記憶にある姉の姿そのものだった。何年も前に姿を消したここにいるはずがない姉。

 しかし、姉が帰ってきたのではないことは、少し考えればわかることだった。何故なら、それは最後に自分が見た姉の姿そのものだったからだ。今の少年と同じ年だった頃の、ずっと過去の姉。

 しかし少年は動揺しすぎて、理性的な思考などぶっ飛んでいた。

「なんで、ここにいるんだ」

 口をついて出た言葉は、混乱がありありと浮かんでいた。とてつもなく驚いている少年の顔が面白かったのか、少女は軽やかな笑い声を上げた。

 その笑顔でさえ、記憶の中の姉とまったく同じだった。右側にだけできるえくぼも、少し斜めにつり上がる唇も、揺れる前髪を耳にかけるその仕草も。

「君が館長さんの言ってたカメラ少年ね」

 声も、やはり姉だった。全てが懐かしい。もう、すっかり忘れてしまったと思っていた。しかし、記憶というものは不思議で、もう覚えていないと思っていても、ふとした瞬間に完璧なかたちで思い出してしまう。海底の沈没船のように、朽ちようとも泥に埋もれようとも、そこにじっと踞っている。

 ただ、言葉や微笑みの中に含まれた、蜜のような甘ったるい気配が、微かな違和感を少年に与えた。曲がりなりにも実の弟である。違和感は決定的な確信となって、少年を少しだけ冷静にさせた。彼女が姉であるはずはない。

 しかし、頭ではわかっていてもあまりにも似ている。少年は警戒をしつつも少女にジリジリと歩み寄った。そんな人に懐かない野良猫のような少年に、少女の微笑みが深くなった。

「ーー」

 少女の口から飛び出した自分の名前に、少年の目が見開かれる。まるで懐かしいあの頃に、姉に呼ばれたようだった。

 少女の白い腕が、少年の頬に伸ばされる。その顔が近づいてきても、少年は痺れたように動けなかった。

 少女の手は少年の頬を緩やかに撫で、首筋をたどり、それからカメラに下ろされる。

「このカメラ、大事にしているのね」

 少女は目を細めた。まるでカメラごと少年を撫でるような仕草だった。

「お父さんの形見だものね」

「なんで、その事を知って……」

 少年は、震える言葉を絞り出すのが精一杯だった。

 家族しか知らないはずのことを口にする姉に酷似した彼女は、完全に少年の理解を越えていた。

「そう警戒しないでちょうだい」

 あまりにもきつく睨んでいたせいか、少女は苦笑してカメラから手を離した。

「ほら、この子も驚いているわ」

……この子?

 少女の言葉に、少年は訝しげに首を捻った。

 そして、またもや言葉を失うことになる。

 ほの暗い水底に溶けるような赤い二つの目玉がいつの間にかそこにいて、硝子越しにじっと少年を見ていた。

 少年は驚きつつも、吸い寄せられるようにふらりと水槽に近づいていた。そっと冷たい硝子に手を置くと、それも歪んだ腕のようなものを伸ばしてくる。

 少年と、同じ動き。どうやら、少年の動きを真似ているようだった。

 幼子が、親の動作を真似るみたいに。

 恐ろしい、とは感じなかった。

 ただ、不思議と懐かしかった。

「   」

 ぽわ、と小さな泡が浮かんだ。小さな口をパクパクして、何かをしゃべろうとしているようにも見える。

「なんだ、これは……」

 少年は呆然と呟いた。

 今日は水槽の定期点検だった。だから、こんなものがいたら、騒ぎになっていたはずだ。いや、点検でなくとも、飼育された生物以外が紛れ込んでいたら、スタッフがすぐに気づく。

 しかし、今の今まで、少女に指摘されるまで、少年はその存在に気づかなかった。

「いつから、そこに……」

「最初からよ。かくれんぼうは得意なの」

 少女はふふっと得意気に笑った。

「擬態は私達の存在そのものだもの」

「擬態?」

 少年は少女の言葉に思い付くものがあった。

「もしかして、ミミック?」

 知ってはいる。けれど、教科書で与えられた情報とは、あまりにもかけはなれていた。

「こいつが、ミミックだっていうのか?」

「そうよ。まぁ、確かに、少し‘’なり損ねて‘’しまった子だけれど、ね」

「なり損ねた?」

「ええ。ミミックの魔法は管理が難しいから。女王様以外が使うと、こうなっちゃうのよね」

 独り言のようなその呟きも、少年の理解は追い付かないままだ。ただかろうじて問いかける。

「あんたも、ミミックか?」

 少女は淡く微笑んだ。

「さあ、どっちかしらね」

 小首を傾げて微笑む顔は優しげだが、答える気はないようだった。だから、少年は質問を変える。

「そいつは、あんたがここに引き入れたのか」

「そうね、そうなるかしら」

「何が目的だ?」

「あら、目的がなくてはいけないかしら」

「はぐらかすなよ」

 矢継早の質問責めに、少女は苦笑した。

「そう怖い顔をしないでちょうだい。私はあなたの敵じゃないから」

 少女はバレリーナのようにくるりと回転した。ふわりとスカートのすそが広がって、クラゲの躍動のようだった。

「私達は、すみかを探しているだけよ。悪さをするつもりはないわ。昼間は隠れているし、この水族館にも迷惑をかけない。それは誓うわ」

「それを信用しろって?」

 そうねえ、と小首を傾げる少女。姉と会話しているのに、姉ではない。信用できないのに、突き放せない。掴めない少女との距離感に、少年はひたすら戸惑っていた。

「あなたにお願いがあるの」

「俺に?」

 少女は唐突に言った。

「ええ、実はね。私、もうここには来れなくなるの。だから、この子のことを頼みたくて」

「俺が、こいつを……?」

 傍らに寄り添うそれは、やはりじっと少年を見ていた。不思議なことに少年の心には、それに対する親愛のようなものまで芽生え始めていた。どう考えてもバケモノであり未知なる生物に、家族のような情を感じていた。

「もちろん、ただでとは言わないわ。かわりにあなたの願いをひとつ、叶えてあげる」

「……俺の望み?」

「そうよ。あるはずよ、ここに」

 少女の指先が、少年のカメラに触れる。

「……」

 少年は姉に擬態するそれを見返した。

 少年の内側の、ぽっかりと空いた穴を狙って落ちてきたそれは、まんまと少年を篭絡していた。

「守ってあげて。この子はまだ生まれたばかり。本物の海も空も知らない」

 少年は一瞬迷う。

 けれど、差し出された白い手を見つめたのは、瞬きの三回ぶんだけだった。

「わかった」

 少年は少女の手を握り返していた。

 ひんやりと冷たく、しっとりと濡れたような手のひら。その暗い穴のような瞳に、どこまでも落ちていく錯覚を覚える。

 姉ではないのに姉と同じ存在から託されたもの。

 それは、少年がかつて失ったものを取り返すための契約だと、言われなくても理解していた。

「契約成立ね」

 少女はやはり、姉と同じ顔で微笑んだ。



……そうやって、少女から少年へ、それが引き継がれてもうどれくらい経ったのだろう。

 少年は夜に沈んだ水槽に向かい、語りかける。

 潜むそれは少年に答えるように泡を吐く。

 言葉はもちろんない。けれど、少年にはその言葉が全てわかっているようだった。

 少年とそれの間を、一匹のピンク色のクラゲが軽やかに躍りながら横切った。

 それは冷えた夏の夜から始まって、もう何度も何度も繰り返されたやりとりだった。

 しかし、ループはもうすぐ終わろうとしている。

「……もうすぐ、ここから出してやれる」

 それが吐く泡が多くなった。喜んでいるようにも、戸惑っているようにも見える、揺らぐ泡。

 少年は微笑んだ。

「トリトン」

 呟くその声は、冷たい夏の夜が飲み込んでいった。

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