《間話》人魚の彼
私が彼に出会ったのは、海でもなく、水族館でもなく、森でも都会でもなく、近所のコンビニだった
彼はジュースを買って、私はゼリーを買った
ソーダ味という一点のみが彼との共通事項だった
たまたま商品を取ろうとして冷蔵庫の前で隣り合わせになって、手がぶつかった
彼が人魚だとわかったのは、冷気で曇る硝子板に映った彼の姿が、魚であったからだ
硝子に滑るまるい水滴の、歪んだ虚像に揺らいだ大きな尾ひれ
驚いた私はあっと声を上げてゼリーを落とした
崩れた海色のゼリーに映った彼は、やっぱり魚だった
彼は自分の不始末に気づくと
私に謝って、新しいゼリーを買ってくれた
そしてコンビニの自動ドアの前で
僕の正体を秘密にして欲しいと、真剣な顔で言った
私はとっさに、なら、契約しましょうと言った
私との約束を守ってもらう代わりに
あなたの秘密も守りますと
彼は黒い瞳で私をじっと観察していた
僕に何を望む?
私は答えた
私が取り引きを持ちかけると、彼は不思議そうな顔をして私の話を聞いて、それからゆっくりと頷いた
それから、人魚の彼との密会が始まった
別に彼の正体が秘密であって、私達が会うことは秘密ではなかったから、端から見ればごく普通の恋人どうしのように見えたのだろう
でも、私と彼との関係を表現するなら
それは、共犯者だ
この世でもっとも強い人との結びつきは、恋人関係でも肉親関係でもなく、共犯関係であると、どこかで聞いたことがある
人魚の彼は、とても変わっていて、いつも楽しそうで幸せそうなのに、いつもひとりだった
仲間はいないのと尋ねたら、いないと答えた彼の顔がとても寂しそうに見えた
私は海辺の古いアパートに住んでいた
彼が私の部屋に来るとすぐにわかる
必ずノックを三回、二回、三回とやるからだ
暗号みたいで私は面白がった
彼は煙草を吸う
私は彼のために灰皿を用意した
煙草の匂いが部屋についてしまって、嫌がる人もいるだろうけど、私は海の匂いと彼の匂いが混ざったこの独特の香りが嫌いではなかった
なんとなく、宇宙に匂いがあるとすれば、こんな匂いなんじゃないかと思う
出会いの時の話を持ち出すと、彼はばつが悪そうに頬をかく
僕の魔法は不完全だから、こういうことが、ときたまあるんだ、とボソッと呟いた
私にはその言葉の意味の、正確なところはわからない
けれど、それは彼にとっての核心で、彼を失う理由になるとは、ちっとも思いもしなかった
だから私はその時、まるで吸血鬼みたいね、と笑うだけだった
僕はコウモリではないと、彼がとても真面目な顔で言うのが、可笑しかったのだ
私は彼にライターをプレゼントした
古道具屋で偶然見つけたもので、鈍い銀色に彫り込まれた鯨の意匠が気に入った
彼はとても喜んでくれて、私の誕生日にお返しとして、一冊の本をくれた
なんの本と聞いたら、自分が書いた本だという
中身を見たら白紙だったので、目を丸くした私に
彼は、これから書くんだと楽しそうに笑った
彼は写真家だった
たくさんの写真を撮り、私に見せてくれた
やはり人魚だからだろう
海の写真ばかりだった
本当は空の写真が撮りたいのだけど、うまく撮れないのだと、悲しそうな顔で言っていた
たぶん、海から生まれた自分は、空とは遠く離れすぎているからだろう、と
いつか、私の写真を撮って欲しいとお願いした
彼は、僕がいつか本当の人間になれたなら、と頷いた
私は彼に、私のお気に入りの秘密基地に招待した
それは私の身内が管理していた小さな灯台で、子どもの頃に入り込んでは、よく遊んでいた場所だった
鍵の場所も熟知していて、灯台守は私達の密会を見て見ぬふりをしてくれていた
たぶん、逢い引きだと思っていたのだろうけれど
私達は共犯者なのだ
世界を騙すための、このたくらみの
彼は私の人魚
海の匂いのする彼は、白波のように繊細で、凪のように静かで、深海のように謎めいていた
幸運にも私のもとに流れ着いた宝物
でも、私達の夢は、あっけなく終わってしまった
彼が帰ってこなくなった
彼が私のアパートを訪れることは、もうない
あの秘密基地の灯台も、がらんどうだ
彼の写真はたくさんあるけれど、そこに彼はいない
私までがらんどうになってしまった
彼とのこれは、恋ではない
私達は共犯者なのだ
彼との過ごした時間はそう長くはなかったけれど
濃く厚いその時間は、私の一生分の波乱万丈だった
まるで夜空から流星が落ちて消えるまでの一瞬のような、あまりにも輝かしく、あまりにも愛おしく切ない瞬間だった
私が手に入れた人魚は、あっさりと海に取り返されてしまった
私に残ったのは、この一冊の本
彼のたくらみの全てが記された、この本だけだ
私は共犯者として、この本を守らねばならない
彼の抱いたこの重大なたくらみを
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