嵐の後の漂着物
「天女の松だよ」
静かな声に振り返ると、深海がポケットに手を突っ込んで、斜めに松の木を見上げていた。
少女の笑い声は儚く霧散して、千鳥は目を瞬く。
深海が視線で示したほうに目をやると、古松の横に木札が立てられている。やや傾いた札には、かつてこの地に降り立った天女が浜に住む若者に……というような、ありふれた昔話が筆で綴られていた。
「そうそう。この松、ずっと昔からこの浜にあるんだよね。天女伝説にも出てきてる」
折戸谷も近づいてくると、千鳥の隣に立ち、同じように巨木を見上げた。
「あー、そういえば、こんなのもあったわねー」
ミホはさほど興味がないのか、ベンチから立ち上がりはしたものの、ジュースのペットボトルを退屈そうに口にしている。
「ちょっとしたおまじないがあってさ。小石に願いごとを書いて松の根本に置いておくんだ。次に来た時までに石に書いた文字が消えていなければ、願いが叶うんだって」
意味深な小石の山は、願掛けだったようだ。神社の絵馬と同じようなものだろう。
解説魔の折戸谷は、得意気にうんちくを披露して、そして当然のごとく、思い付く。
「よっし、僕も何かお願いしよう」
「あっ、あたしも!」
さっきまでへばっていたのが嘘のように、颯爽と浜に向かって走り出すと、適当な石を拾い始めた。興味があることへの行動力は高い二人である。
「マジックで書けば消えないじゃん?」
「それがダメなのサー。このチョークみたいな石で書かないとダメなの」
「えー、こんなのすぐに消えちゃうじゃん」
「だからおまじないなんだろー」
折戸谷が手にしたのは、白っぽくて崩れやすい石だった。チョーク石、と彼が呼んでいたその石は、探せば浜のいたるところに落ちている。
「あれ、この石。もう何か書いてある」
石拾いにせいを出していた折戸谷は、拾った石の中に、すでに文字が書かれているものが混ざっていることに気づいた。古松からは離れているが、風で崩れた石山から浜辺まで転がってきてしまったのだろう。
「ほんとだー。えーと、なんだろ、う、ちゅう? うーん。読めない……」
砂に擦られた文字は、すでに判読不可能なほどすり減っている。
「まぁ、松から離れてるし、文字が消えてるから、このお願いは失敗だねぇ」
折戸谷はすぐに興味を失った。ぽいっと石を放り投げると、石探しに戻る。欲望に忠実な彼は、自分のお願いが最優先である。
「でかいのに書いたほうがいい気がする。なんか強そうだし!」
「あっ、この石きれい!」
「おい、あんまり遠くに行くなよ」
やんちゃ坊主達に釘を刺す深海の隣で、千鳥はなんとなく捨てられた石を拾っていた。それから少し迷い、崩れていない石山のすそに、そっと置き直す。
その様子を見ていた深海が、苦笑した。
「千鳥はお人好しだな」
千鳥は首を竦める。
「深海君こそ。いつも折戸谷君に付き合ってあげてるんですね」
「あいつ、人を巻き込むのが特技だからな」
お願いを書くための平べったい石を探して、きゃっきゃっと楽しそうに浜を徘徊している少年を眺めて、深海は深いため息をついた。
「元気の使いどころを間違えてるよ、ほんとに」
「ふふっ、そうですね」
千鳥も深海の隣で苦笑を浮かべる。
「ちーちゃんも何か書きなよー」
ミホは拾った石を千鳥にぐいぐいと押し付けた。ミホのジャージのポケットには、すでに戦利品の石がいくつも詰め込まれている。
「あ、ありがとうございます」
千鳥は困ったように石を見下ろしたていたが、だいぶ悩んだあと、おずおずとチョーク石を握った。
「何を書いたんだ?」
「あっ」
気配なく背後からかけられた声に、千鳥は飛び上がった。驚いた拍子に書きかけの石を落とし、慌てて拾おうとしゃがみこむが、さっと横から伸びた手が先に拾い上げてしまう。
「……飛べるようになりますように?」
深海は石に刻まれたか細い文字を読み上げた。潮風に揺れる前髪に少年の顔は半ば隠れていて、強い陽ざしを背にした彼は、影そのものようだった。そして密やかな笑いの気配だけが伝わってくる。
「鳥にでもなりたいのか?」
「あ、いえ、これはその、何となく……」
千鳥は答えに詰まり、口を酸欠の金魚のようにはくはくさせた。何か答えなくてはと焦る千鳥に対して、石はあっさりと千鳥の手のひらの上に戻された。
「そうか、まぁ、がんばれよ」
千鳥は石と深海の顔を困惑気味に見比べた。
「深海君は、お願いを書かないんですか?」
「俺はいいよ」
深海は首を横に振ると、元気いっぱいにはしゃいでいる仲間達を眺めた。
「あいつら、まだしばらく遊んでるだろうから、俺達は適当に時間を潰そう」
「そう、ですね」
千鳥は頷くと、書きかけの石を手のひらの中に隠すように握り込んだ。
とはいえ特にすることもないので、深海と千鳥は並んでぶらぶらと海岸を歩く。白い砂のキャンパスに、並んだ足跡がひとつひとつとのびていった。
こつんと靴先に当たった感触に、千鳥はふと視線を落とした。白いスニーカーの先に、青い小さな硝子片がある。海の波がそのまま結晶になったような石だ。
千鳥が拾い上げたそれに目を止めて、深海は呟く。
「ああ、シーグラスか」
海が研磨した宝石は、太陽に透かすと光を内包して淡く輝いた。
「……きれい」
海岸には、様々なものが流れ着く。
空き缶やプラスチックゴミに混じって、色とりどりの貝殻や、ヒトデや小魚の干からびたもの、海草、外国製のガラス瓶など、波のひだの形に並んでいた。
雑多なごちゃ混ぜ感は、どことなく屋上の秘密基地と通じるものがある。
「この辺りの海はすぐ深くなる地形だから、海底に住む深海魚なんかもよく上がる。……嵐の後なんか、特によく流れ着くんだ」
「そうなんですね」
千鳥が何気なく伸ばした手の先に、深海は鋭い視線を投げた。厳しい顔で、千鳥の手首を掴む。
「ちょっと待て」
「え?」
突然腕を掴まれて驚いた千鳥は、拾ったシーグラスと一緒に、書きかけの石を落としてしまった。転がった石ころは、あっという間に砂に沈んでいく。
「それは触るな。毒があるクラゲだ」
千鳥の指先のほんのわずか先に、半分干からびたゼリー状のものが石に絡み付いていた。
毒、という言葉に、千鳥は驚いて手を引っ込める。
深海が棒切れにひっかけて持ち上げた、ぶるんとした透明な塊が毒クラゲらしい。
海の漂流物には、実は危険物も多い。火薬や危険な薬品、高圧ガスや不発弾なんてものもある。毒や病気を持った動物の死骸がうち上がることもある。迂闊に触ると大変なことになるのだ。
「本当に気を付けろよ。中には、人間に害をなすものも……」
深海は掴んだままの千鳥の腕に何気なく視線を向けて、そして、はっと目を見開いた。
「……それは」
彼の刺すような視線は、千鳥の手首あたりに注がれている。千鳥は深海が何を見ているのか理解すると、思わず小さな声を漏らしていた。
「……あ」
細い花弁を広げた花のような形。ほんのりと赤く色づくそれは、控えめな腕飾りのように、少女の細い腕に浮かび上がっていた。
「変わった形のアザだな。昔からあるのか?」
「……ええ、まぁ……」
手首をつかむ深海の指は、ひやりと冷たい。千鳥は隠すようにジャージの袖を伸ばしたが、深海の視線は動かなかった。
千鳥を捕まえている手の圧力が少しずつ強くなる。
「そういえば、また学校のプールで事故があったんだってな」
なぜか深海は、唐突に脈絡のない話を始めた。
「そうみたいですね」
千鳥は困惑したまま、曖昧に頷く。
聞き耳をたてなくとも、学校という場所は噂が勝手に耳に入ってくる。特に平和な田舎では、特別なことがなくても騒がれやすい。尾ひれのついた噂は、すでに本物とは程遠いシロモノになっているのだろう。
「ミミックの仕業だったりしてな」
その囁きは、なにかの確信に満ちていた。少年の顔は逆光の中、濃い影になる。
彼がしているのは、ただの噂話だ。
なのに、なにかとてつもない重大な秘密についての告白のように、空気がはりつめる。
「ミミックって、本当に人間と変わらない姿をしてるんだ。言葉も話すし、人間と同じ食事をするし、見分けがつかない」
深海は千鳥を観察するように、じっと眺めている。
「ただ、ミミックを見分ける方法が、ひとつだけあるらしい」
「……どんな?」
乾いた唇がひりつくので、千鳥は口をへの字に曲げる。深海の薄い唇は、千鳥とは逆の三日月につり上がった。
「体のどこかに、しるしがあるんだそうだぞ。それがあれば、ミミックだ」
千鳥は反射的に手首のアザに触れた。
「おーい! ちーちゃんもおいでよー!」
「でかいヒトデいた!」
はしゃぐ友人達の声が、ピンと張りつめた風船のような雰囲気に穴を空けた。
少年は苦笑して肩をすくめる。そこには謎めいた笑みはもう浮かんではいない。
深海は千鳥の手をそっと離した。少年の手が離れて、千鳥は止めていた息をようやく吐く。
「石、落としちゃったな。すまない」
「いえ、いいんです。……どうせ、叶わないし」
最後の呟きは波の音よりも小さかったので、少年の耳にまでは届かなかったようだ。千鳥は誤魔化すように声の調子をあげる。
「深海君も、海に詳しいんですね」
水族館バイトの時は折戸谷の海洋知識の豊富さに驚かされたが、深海もかなり詳しそうである。
「まぁ、ここの生まれだからな。子どもの頃は、よくこうやって家族で漂流物を拾って歩いたよ」
深海は目を細める。砂に埋もれた様々なもの。美しいものも怖いものも一緒になって、波の形に並んでいる。その波に沿うように、少年はゆっくりと歩いていく。
「そろそろ帰ろうか」
「……そうですね」
浜辺に立った吹き流しが激しくはためいている。
風が強い。
垂直に流れる五色の旗が、海が荒れ始めていることを告げていた。
「もうすぐ嵐だ」
深海は空と海の境界線を睨んだ。海の端と空の端がひとつに結ばれる水平線の、さらにその先を眺めている彼は、そこから運ばれてくる何かを待ち構えているようだった。
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