水溶性少女
アキラとはまったく違う顔立ちなのに、なぜか目が合った時の印象が酷似した少女だった。
さらりとした長い黒髪から落ちた影が、白い顔をよりはっきりと際立たさせていた。薄い唇のほんのりとした紅色が、嵐の中でやけに艶やかだった。
制服のリボンが水色なら、三年生のはずだ。先輩らしい見知らぬ少女の登場に、千鳥は目を瞬かせた。
「流星の観測会をやるって聞いたんだけど」
少女の手には、手書きのチラシ。商店街だけでなく、学校の廊下にも張り出してあった。
「あ、はい。でも、雨で中止で……」
イベントの参加希望のようだ。千鳥は申し訳なさそうに目を伏せる。
「そう。残念ね」
少女はあっさりと頷いた。
しかし、わざわざ来てくれたのに、このまま帰ってもらうのも悪い気がした。部長の熱が伝染したらしい千鳥は、ちょっとだけ勇気を出す。
千鳥は天文台を指さした。
「……あの、よければちょっと寄っていきませんか?」
少女は首を傾げた。
「あら、いいの?」
「はい。天文台の見学だけでもどうですか?」
「じゃあ、せっかくだし、おじゃましようかしら」
頷く少女に、勧誘に成功した千鳥はパッと顔を輝かせる。
「それじゃ、こっちにどうぞ」
少女を伴って、千鳥は天文台の狭い扉を空ける。どうぞ、と呟いてから、ふと、はじめて少年にここへ招かれた時を思い出した。
「……よ、ようこそ。自慢の我が家へ」
照れて、ぎこちない笑みともじもじとした小さな声になってしまったが、少女は気にするふうでもなく、小さな秘密基地を楽しげに眺めた。
「へぇ、中ってこんなふうになってたのね」
嵐の天文台は、窓もきっちり閉めきって光のいっさいが入らない。コンクリートの小さな箱の中、湿って冷えた空気が重く沈む。壁一面に並べられた海の写真のせいか、物言わぬ望遠鏡がずんと鎮座する様は、どこか沈没船を想像させた。
「確かこの望遠鏡、壊れてるって聞いたけど」
千鳥が説明する前に少女がそう呟いた。驚いた千鳥がふりかえると、少女は目を細めてじっと望遠鏡を見上げていた。その横顔は、物珍しいものを見る好奇の視線というよりも、懐かしいアルバムを眺めるような不思議なまなざしだった。
「知ってたんですか?」
「ええ、知り合いから聞いたの」
しかし、少女は壊れている望遠鏡には興味がなかったのか、わずかの間見上げただけで、すぐに壁一面の写真群に視線をずらした。
「天文台なのに、海の写真ばかりなのね」
銀色の流星のような魚の群れの写真や、海の中から水面を通して映る月の写真に視線を向けて、少女はかすかに笑った。
ちなみに真崎翔洋のコレクションを譲られてから、海は壁一面を侵食していた。折戸谷がせっかくだからと飾ったのだが、天文台の雑多感は深まっている。
「私も海は好きよ」
少女は雪のように舞うクラゲの大群の写真の前に立った。よく見れば海月の背中には、大きな星のような模様があった。
「星海月ね」
ポツリと呟く。
「知ってる? クラゲって、身体のほとんどが水分なのよ。だから死ぬと海に溶けて消えちゃうの」
千鳥は目を丸くする。
「そうなんですか?」
バイトする水族館にも、クラゲはたくさんいた。のんびりと泳ぐ彼らはとても平和そうで、癒し系人気者の代表格だ。マスコットのみなみちゃんの能天気な顔が、いつもより若干儚げに笑う姿が頭をよぎる。
「ええ。でもね、それは悲しいことではないの」
低くささやく少女の声は独特のメロディを持っていて、歌でも口ずさんでいるようだった。
「食べ物が腐るのも、鉄が錆びるのも、みんな自然なことなのよ。全て、世界に還る作用。土や風や水に溶けて、そうやってみんな世界の一部に戻っていくの」
まるで船乗りを惑わす怪物の歌のような、あるいは泡となって消えるお姫様の歌のような。心地よい少女の声に、いつの間にか千鳥は聞き入っていた。
「だからね、クラゲが水に溶けるのも、そのサイクルのなかのこと。海に還って新しい何かに生まれ直すための、装置のひとつなの」
少女の話はなにかの寓話なのか哲学なのか、千鳥にはよくわからなかった。しかし、彼女の言葉はぐわんと脳に響く。
「そう、なんでしょうか……」
少女はゆっくりとふりかえった。
「私、スバルっていうの。真崎スバル」
少女の瞳に、千鳥は穴に落ちるような錯覚をする。
「……真崎?」
名前に反応した千鳥に、少女……スバルは、千鳥の耳元に唇を寄せた。
ふわりと漂ってくるのは、海の匂いだった。
人魚の歌のように、少女は甘く歌う。
「大事にしてね。これはあの人が遺したものだから」
その時、雷鳴が響いた。
一瞬の暗転。
嵐が再び暴れだしていた。
停電か、千鳥はびくりと肩を震わせた。
すぐに明かりは復活して、視界はもとに戻る。
しかし、千鳥は瞠目する。
「スバルさん……?」
少女の姿が消えていた。
最初からそこに存在していなかったかのような、あっさりとした消失だった。
かすかに残る、海の匂い。
くらりと目眩に襲われて、千鳥は立ち尽くした。
「はああ……」
少女と入れ替わるように、部長が特大のため息と共に帰ってきた。
「先生にも、これ以上雨が強くなる前に帰れって注意されちゃったよ……」
しょんぼりと肩を落としてびしょびしょになったピンクの傘をたたむ折戸谷は、千鳥のおかしな様子に、不思議そうに首を傾げた。
「あれ、どうしたの?」
そこで千鳥はようやく我に返る。
「あ、あの……」
千鳥は嵐の中の突然の来訪者について、困惑しつつ報告する。
「真崎スバル?」
「はい、三年生のはずなんですけど……」
「そんな先輩、いたっけかな?」
うーん、と腕を組む折戸谷に、千鳥はふと疑問を投げかける。
「そうだ、折戸谷君。星海月って、美波水族館にはいるんですか?」
「……ホシクラゲ?」
折戸谷はさらに深く首を傾げた。
「そんな名前の海月、聞いたことないけどなぁ……」
え、と千鳥は固まった。水族館でガイドをこなす折戸谷に、知らない種類がいるとは思えなかった。
「え、でも、この写真の海月は……」
先ほどまで少女が立っていた写真を指さして、千鳥は目を見開いた。
そこに写真はなかった。
海の中にぽっかりと穴が空いていた。
最初からなかったのか、それともなくなったのか。
水に溶けるというクラゲのように、少女の姿も一枚の写真も、嵐雷の中に消えていた。
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