おまじない

 そして迎えた流星群観測会、当日。

 嵐のような大雨だった。

……台風は非常に強い勢力を保ったまま、本県を通過する見込みです。今夜から明日の早朝にかけて特に雨足は強くなり……

 注意を呼びかけるアナウンサーの声が、年代物のラジオから流れている。激しい雨風のせいか、分厚いコンクリートの壁が音をよく反響させるからか、ノイズはいつもよりもひどくて、ひび割れたその声は、まるで人間ではないもののようだった。

「雨なんて、だいっきらいだ……」

 少年は力なく机に突っ伏した。

「残念でしたねぇ」

 千鳥は気の毒そうに折戸谷を見た。傾けていた熱量を知っているだけに、机の上に転がっている誰が持ち込んだのか不明なミニチュアをいじいじしている部長の姿は、たいそう哀れに感じた。

「せっかく知り合いから、望遠鏡まで借りてきたのに……」

「うるさいわねぇ」

 ぐずる折戸谷に、ミホはソファに寝そべりながら至極面倒そうな視線を向けた。

「てゆーか、中止の連絡ぐらいしなさいよ。来ちゃったじゃない!」

「いや、ぎりぎりで止むかもしれないじゃん!」

「天気予報見て言いなさいよね。これから台風くるって言ってるのに、やむわけないでしょ」

 一縷の望みというよりは完全にただの願望にすがる部長に、ミホは鼻面にしわを寄せた。

「あんたの日頃の行いが悪いせいじゃないの?」

 そのあともぐさぐさと嫌味を遠慮なく部長に突き刺していく。

 天文台にはいつものメンバーが集まっていた。観測会は夜だが、準備があるので夕方のこの時間から集まっていたのだが、雨は止むどころか強くなる一方だ。 

 千鳥は遠雷に思わず肩を縮めた。

「そ、そういえば、深海は?」

 折戸谷は、ミホの口撃から逃れるように最後の部員の姿を探して視線をさ迷わせた。

「そういや、まだ来てないわね」

 ミホと千鳥も顔を見合わせる。集合時間をもう一時間も過ぎているが、連絡もない。

「この雨だもん、中止ってわかりきってるのにくるわけないでしょ」

 ふん、と鼻をならすミホ。

「一応、連絡してみますか?」

 心配する千鳥に、折戸谷はひらひらと手を振った。

「あいつ自由人だから、ドタキャンなんてしょっちゅうだよ。そもそも天文部なのに泳いでばっかりいるし。ほっとけばフラッと姿を現すよ」

「そんな、野良猫みたいに……」

 折戸谷はよほど中止が悔しかったのか、受け答えもちょっとやさぐれていた。

「もう帰ろうよー。どうせ誰も来ないしさー」

 今回の観測会イベントは、外部からも飛び入り参加を受け付けていたのだが、ミホの言う通り、さすがにこの雨では人は集まらないだろう。千鳥は折戸谷の顔をちらりと見た。

「えっと、私たちも帰りますか……?」

 折戸谷はふらりと傘を手に取った。

「ちょっと外で天気を見てくる……。帰りたければ、帰っていいよ……」

 幽霊のような顔で呟いて、壁に立てかけてあったピンク色の派手な傘を手にとる。外へとつながる扉を開けた拍子に頭をぶつけ、ふらついている後ろ姿は、なんとも分かりやすく落ち込んでいた。

「あ、えっと、追いかけた方が……?」

 帰り支度をはじめるミホと、天文台を出ていってしまう折戸谷の背中を交互に見て困り顔の千鳥。

「ちーちゃんってば、お人好しねー。いちいち大げさなのよ。今回の流星群にこだわらなくても、星なんていつでも見れるじゃない」

 明るいブルーの傘を広げながらため息をつくミホの顔を、千鳥はまじまじと眺めた。

「ミホちゃんは、文句を言っても、中止ってわかりきってても、いつも律儀に来てくれるんですね」

 千鳥の呟きに、ミホは一瞬瞳を大きく開く。

「……あいつ、一応顔見せとかないとしつこいんだもん。後がめんどくさいからよ」

 むすっとした声に、どこか照れ隠しのようなものを感じて、千鳥はくすりと笑みをこぼした。

 ミホは、いかにも遊び人のような風貌のわりに、遅刻など一切しない。逆にしっかりしていそうな深海は、遅刻や連絡なしのドタキャンも珍しくない。

 天文台の壁に飾られている海の写真は、海をのぞく小窓のようだった。これを撮影したクールな彼は、空よりも海の方が似合っている。

「……深海君は、海の様子を見に行ってるのかもしれませんね」

 部長は部長でアレだが、趣味も性格もまったく合いそうにない面子が集まって、わいわいとやっている秘密基地のようなこの場所が、千鳥はひどく不思議だった。

「ちーちゃんも雨が強くなる前に帰んなよ」

「はい。心配してくれてありがとうございます」

 階段を降りていくミホを見送って、千鳥は自前の黒い傘を広げた。

 外へ出ると、雨粒が叩きつけてきた。雨のせいで夏にも関わらず冷たい風に身を震わせる。

 雨はコンクリートをざんざんと叩いて、屋上に打ち捨てられた備品を覆っていたビニールシートにも大きな水溜まりができていた。

 霧のような雨の向こう側に、灰色の海が見えた。

 海も空もコンクリートも灰色の屋上で、派手なピンクは見つけやすい。

 折戸谷は、フェンスの小さな丸い隙間を覗き込むように、嵐の海の向こう側をじっと見つめていた。

「折戸谷君、そろそろ帰りませんか?」

「うん……」

 諦めきれないのか、生返事を返すばかりで動こうとしない少年の隣に並んで立つ。

「えっと……」

 千鳥は困ったように首を傾けた。本当にそろそろ帰らないと危険な嵐だ。どうやって説得しようかとチラチラとタイミングをうかがっていた千鳥に、折戸谷は何かに気づいたように、少しだけ顔を上げた。

「……ああ、これ? これは美波水族館オリジナルアイテム、みなみちゃんのお姫様アンブレラだよ……」

「す、素敵な傘ですね」

 それが聞きたかったのでないが、とりあえず頷いておく。ド派手なピンクの傘には、見覚えのあるクラゲスマイルがプリントされていた。傘のすそにはお姫様のイメージからか、クラゲの触手のようなヒラヒラしたものがふんだんに付いていた。可愛らしいといえばそうかもしれないが、とにかく使いにくそうだった。いろいろな意味で。

「傘忘れたら貸してあげるからね」

「ありがとうございます。でも、自分の傘があるので大丈夫です」

 部長の親切な申し出を、丁重だが速攻お断りした千鳥は、自分の地味な色の傘をしっかりと握りしめた。

「はぁ……」

 少年の口からこぼれるのはため息ばかり、同じ呟きを繰り返している。

「雨、止まないかなぁ」

「えっと、じゃあ、おまじないでもしますか?」

 千鳥はふいにそう言っていた。

「おまじない?」

 きょとんと目をまるくした折戸谷の黒い瞳を、千鳥は斜めに見つめ返した。

 その時、雨の海のように霞んで記憶のずいぶん遠くに行ってしまった懐かしい姿が、ふいにまぶたの裏に浮かんだ。

 

 ねぇ、おまじないをおしえてあげる。

 少女は指を唇に添えて囁いた。

 子どもにしては艶があり、大人にしては無邪気な彼女の微笑みに、くらりと目が眩む。

 ほら、こうやって。


「……へぇ?」

 変わったおまじないだね、と首を傾げる少年に、千鳥はかつて友人から教えてもらったそれをそのまま伝える。

 折戸谷は不思議そうな顔をしたまま、千鳥に教えられた手順でおまじないをした。

「はー、これで止むかな」

「止むといいですねぇ」

 それからしばらくの間は、ただ雨の音が響く時間が過ぎた。やはり、おまじないはおまじないだ。雨が止む気配はない。

 運動場にあるスピーカーから、古びた曲が流れはじめた。夕刻の決まった時間になると流れる放送だ。懐かしい響きのメロディは、雨の中でか細くかき消えそうだった。

「折戸谷君、さすがにそろそろ……」

 曲の最後の音が途切れる瞬間、ふいに折戸谷が顔を上げた。

「あ」

 すっとさした明るい光に、千鳥は目を見張った。

 雲の切れ目にでも入ったのだろうか、あれほど激しかった雨が、なぜかぴたりと止んでいた。

「止んだ……?」

 フェンスの向こうには、金色の海と空があった。

 赤色からオレンジ色、黄色、薄い水色から濃紺へとうつろうグラデーションの空。その下に広がる海は黒々と、中央にひとすじの光の線を映していた。

 夜を迎える直前の空に、一番星が輝いている。天文部に入ってから、千鳥はあの星が金星であることを隣にいる少年に教えてもらっていた。

「おまじないが効いたんだ! すごい、ありがとう、さすがはとびこちゃん!!」

「い、いえ」

 文字通り飛び上がった折戸谷は、傘を放り投げて千鳥の腕を振り回す。

「すぐに準備しないと!!」

「あ、でも、たぶんこれは一時的な……」

 ただの嵐の切れ間だと思うんですけど、という千鳥のセリフをふりきって、部長は走り出した。

 ちょうど真上の雲は途切れているようだが、海の向こうは相変わらず嵐がとぐろを巻いている。すぐにまた雨は降り出すだろう。

 千鳥は肩をすくめた。ぬか喜びする部長のフォローに向かわんと踵を返した、その時。岬の先に白い何かがちかりと光って、千鳥は立ち止まっていた。

「……ここからも、灯台が見えるんだ……?」

 そして呟きと同時にふいに襲ってきた、冷たい手で首筋を撫でられるような感覚に、身を硬直させる。

 影は光の明るさに合わせて濃く暗くなる。濡れた天文台は夕暮れに照らされて赤く輝き、しかし壁で遮られたところに、深い影を作っていた。ちょうど折戸谷が走っていった方向の反対側、たぶん今この瞬間で、一番闇が濃いところから、人の形の影がするりとのびた。

「……アキラさん?」

 一瞬、顔馴染みのケーキ屋さんの少女かと思った。

 しかし、違う。

 学年の同じ色が入ったリボンの制服を着ているので、たぶん同級生だとは思うのだが、千鳥の知らない顔だった。

「こんばんは」

 少女は屈託ない笑顔を千鳥に向けた。

 似ていないのに、かつての友人とよく似た笑みを浮かべる少女に、千鳥は頭がくらりと揺れた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る