秘密のアトリエ
異国の花びらを運ぶ白波。射し込む光がまるでスポットライトのように照らし出す海底洞窟の沈没船。竜巻のように渦を巻く銀の魚の群れと、それを飲み込む巨大な鯨。海中を雪のように舞う丸くて小さなクラゲの大群は、まるで何かひとつの生き物のよう。
昼の海も夜の海も、穏やかな海も嵐の海も、光が弾ける海面から闇の中の海底まで、海のすべてがここにあるのではないかと思えた。狂おしいまでに海を追いかけたその写真群は、やはり濃い海の匂いがした。
「……これ全部、海の写真?」
千鳥の呟きの通りだった。
「随分と古い写真だね」
折戸谷は壁に並ぶ写真にそっと触れた。
デジタルなコピー写真ではなく、昔ながらのフィルム写真のようだ。古いものだろうが、ずっと閉鎖されていた空間にあったせいか、保存状態は悪くない。
海の色の鮮やかさも、生き物達の生々しさも、すべてその薄っぺらい紙切れの中に閉じ込められている。
それが螺旋階段の壁という壁すべてを覆い尽くしている様は、ただ圧倒された。
しかしここは灯台であり、美術館でも写真館でもない。なぜ灯台の内部がこんな有り様なのか、想像もつかなかった。
「誰が、こんなことを……」
首を傾げることしかできない千鳥の隣で、折戸谷は、うーんと唸った。
「なんかこの写真、どっかで見たことあるような気がするんだよなぁ……」
額を寄せるようにして、じいっと写真を覗き込んでいる。しかしいくら頭を捻っても思い出せないようで、困ったように喉仏を指で掻いた。
「なんかさぁ、ここまで出かかってるんだけど……あー、思い出せそうで思い出せないっ」
しかし、悩みを十秒以上抱えないのが折戸谷という少年の特技だ。
「ま、とりあえず進もっか! 上に行ってみれば、なんかわかるかもしれないし!」
早々に思い出すのを諦め、先に進むことにしたようだ。そもそも彼に、引き返すという発想はない。
千鳥は迷った。さっきまではすぐに引き返そうと折戸谷を説得するつもりだったが、こうなるとさすがにこの先が気になってくる。
ぐるぐると渦を巻く螺旋階段は、天女の風見鶏がある最上階まで続いている。塔の上は暗闇で、目をこらしても何も見えない。
一歩先の予測もつかず、ひんやりとした海の匂いはここが異世界のように感じさせた。千鳥は暗闇を見上げ、不安と好奇心の間に立ち竦んでいた。
「とびこちゃん、早く行こうよ」
少年の声に、千鳥は顔を上げた。
暗闇の真ん中で、宝物を見つけた子どもみたいに好奇心いっぱいの顔をした少年がいた。彼の瞳はまるで流れ星のように、暗闇の中でキラキラと走っていく。
「……はい、行きましょう」
千鳥は頷いた。その流れ星のしっぽを追いかければ、不思議と足が軽くなった。
灯台の内部は、いたってシンプルに壁と螺旋階段のみである。先に進むということは、つまり螺旋階段を登るということで。
ひたすらぐるぐる、目が回りそうだ。さほど高くもない塔なのに、永遠に終わらないループの中に迷い込んだような錯覚をしてしまう。
「法螺貝の中って、こんな感じなのかなー」
そんな中でも、折戸谷は鼻歌交じりに階段を進んでいく。緊張感の欠片もない背中に、千鳥は苦笑する。
「転ばないでくださいね」
「子どもじゃないんだからさー」
と、そんなやり取りをした直後、折戸谷が階段を踏み外しかけた。
「うわっ」
「だ、大丈夫ですか?」
転ける手前でなんとか踏みとどまったようだが、階段に膝を打ち付けた折戸谷は、痛そうに顔をしかめている。
「気を付けてくださいね」
「あはは、ごめんごめん」
照れながら立ち上がろうとして、ふと、手をついた壁に目をやった。
「あれ?」
彼が手をついたそこにだけ、写真がなかった。
他の壁は隙間なく埋め尽くされているというのに、そこだけちょうど写真一枚分の隙間から、白い壁が見えていた。
写真の波の中、奇妙に空いた凪の隙間。
「やば、落ちちゃったかな」
折戸谷は、自分の転倒で剥がれてしまったかと慌てて階段や床を探す。写真は壁にピンで簡単に止められているだけのようで、触っただけでも落ちてしまいそうだった。
ただ、千鳥も一緒に探してみても、それらしき写真は見つからなかった。
折戸谷は肩を竦めると、続く螺旋階段の上を見た。
「もともと貼ってなかっただけかもしれないし。時間もないから、とりあえず先へ行こう」
「そうですね……」
また螺旋階段の続きだが、やはり壁の海はずっと続いていて、途切れたのはそこだけのようだった。
千鳥は写真の奇妙な隙間が、残りの階段を上る間もずっと気にかかっていた。
最初から何も貼っていなかった可能性もあるのに、なぜかあったものがなくなったのだという確信がある。それはこの不思議な灯台の、謎を解く鍵穴のような気がした。
しばらく、と言っても、実際は数分の事だが、随分と長い時間、ぐるぐる回っていた気がする。
ようやく頂上の明かりが見えて、折戸谷はもうすぐだよ、と振り返った。頷き返した千鳥は、折戸谷越しの明るい光に目を細めた。
「ほら、着いたよ」
そこは螺旋階段の暗闇から一転して、目に痛いほど明るい場所だった。
狭い部屋の中央に、大きな灯器が鎮座する。ただそれだけのシンプルな空間。部屋の全方位をガラスの窓が囲んでいる造りで、この窓から光を海へと送り出すのだろう。開いている窓から、強い海風が直接吹き込んでいた。あたりにこの灯台よりも高い建物はなく、青い海が広々と見渡せた。
どことなく、屋上の天文台を思い出させる空気があった。静かで古くてひんやりとしていて、部屋の中央にはまるで神様の像のように安置された巨大な装置。千鳥は教会など行ったことはないが、もしかしたら古い聖堂というのは、こんな雰囲気なのかもしれない。
「やっぱり、誰もいないか」
キョロキョロと見回してみても、人の気配はない。
吹き抜ける強い潮風に、千鳥の長い黒髪が遊ばれる。千鳥は窓に近づいて、塔の先頭、例の風見鶏を見上げた。近くで見れば、確かに天女の形をしてた。
「折戸谷君、あれ」
千鳥は目を見張り、折戸谷を呼んだ。灯器をなで回していた折戸谷は、千鳥に呼ばれて顔を向ける。
「なに、どうしたの?」
「風見鶏に、何かひっかかっているみたいなんですが……」
「えっ、本当だ」
折戸谷も窓から身を乗り出して、風見鶏を見上げる。言われてみれば、確かに天女の羽衣の部分に、紙切れのようなものがくっついていた。
「あれってもしかして、写真?」
ヒラヒラと潮風にたなびく小さな紙は、確かに写真だった。よく見えないが、壁一面の写真と同じもののように思えた。
「壁の一ヶ所だけなかったやつかな?」
「でも、あんなところに、どうして……」
「さぁ?」
考えても答えがでない時は、彼は行動に出る。
「よし! じゃ、僕が行ってくるよ!」
「え?」
それはつまり、壁を登って写真をとる、ということだった。
「あ、危ないですよ!」
さすがに顔を青くした千鳥が止めるが、折戸谷はこわがる様子もなく、平然と窓から身を乗り出した。
「大丈夫、任せといて!」
千鳥の制止など聞くはずもないいたずらっ子は、すでに窓の枠に足をかけている。身体の半分以上が、窓の外、つまり空中だ。落ちたら大ケガなどでは済まない高さである。
千鳥がハラハラと見守る中、折戸谷は限界まで腕を伸ばした。
「も、もうちょっと」
ジリジリと近づいているが、しかし、あとほんの少しというところで届かない。
折戸谷は、さらに身を乗り出した。
「これで、どうだっ!」
ほんのわずか指先が、写真を掠めた瞬間だった。
びょう、とひときわ強い風が灯台に吹き付けた。
「あっ!」
写真がひらめいた。
風に乗って、写真が高く舞い上がる。
それは少年の指をすり抜けて、高く空へと登っていった。
「……あーあ」
折戸谷は手を伸ばした姿勢のまま、残念そうな声をあげる。
「やっぱり、とびこちゃんみたいにはいかないや」
ため息をついて、項垂れる。
結局写真は、どこかに飛んでいってしまった。この分では海にでも落ちてしまうかもしれない。そうなれば、見つけることは不可能だろう。
「残念ですね……」
あの写真には何が切り取られていたのだろう。それはもう、永遠に失った謎だ。
二人はしばらく未練がましく写真の消えた空を見上げていた。カラカラと風見鶏が空しく回る。
そうやって気を取られていたので、ふいに背後に人影が立ったことに、二人は気づかなかった。
「お前さんら、こんなところでなにしてんだね」
突然かけられた嗄れた声に、二人は同時に飛び上がった。
「うわっ?!」
「きゃっ??」
驚いて窓枠から足を踏み外し、あわや落ちそうになる折戸谷を、千鳥が慌てて引き戻す。
ひと騒ぎの後へたり込んだ二人を、見知らぬ老人は怪訝な顔をして見下ろしていた。
老人は上下のくたびれた青い繋ぎに帽子を目深にかぶり、手にはモップとバケツを持っていた。腰のベルトに鉄の輪に通された鍵の束をじゃらじゃらと吊り下げている。
顔に刻まれた深い皺の一本一本に、潮が刻み込まれたような日焼け顔。年齢はかなりのものだろうに、がっしりとした体つきは海の男そのものだ。
老人は二人の顔を一目見るなり、少年少女のやんちゃを悟ったらしい。
「やれやれ、ここは立ち入り禁止なんだがね」
「あっ、もしかして灯台守のひと?」
折戸谷は、老人の正体にすぐに思い当たったらしい。老人は首肯する。
「あわわ、すみません!」
慌てて謝る。灯台守は、文字通り灯台の管理人である。そして、二人はれっきとした不法侵入である。
「か、鍵が開いていて……」
「そりゃ、さっき開けたからね」
言い訳がましく折戸谷が老人をうかがい見る。老人はため息をついて、いたずらが見つかって慌てる子ども達の顔を呆れ眼で見返した。
「まぁ、この灯台がもうすぐ取り壊しになるから、片付けのために開けただけだがね。もう古くて、維持だけでも金がかかるからねぇ」
世知辛いことを言いながら、老人はモップとバケツを床に置く。
「君ら、岬の先にある学校の生徒だろう。昔はこの灯台にも遊びに来る子達がいたっけね」
懐かしむように目を細めてから、緩やかに首を横に振る。
「灯台が閉鎖されてからは、誰も寄り付かなくなっちまったがね」
老人は壁に手を伸ばした。そこにはやはり、写真が貼り込まれている。
「ところで、びっくりしただろう?」
老人の言葉がこの風変わりな写真館のことを言っていると理解した二人は顔を見合わせた。
「あの。この写真はなんですか?」
折戸谷の問いに、老人は写真の一枚を手に取った。
「……昔、ここをアトリエ代わりにした変わり者で貧乏な写真家がいてね。そいつが勝手にやったのさ」
「でも、ここって公共の灯台ですよね?」
そんなことしていいのだろうか。疑問の顔をする二人に、老人は、ひょいと肩を竦めてみせる。
「俺はたまたま鍵をかけ忘れていただけさ」
ニヤリと唇の端を持ち上げて笑うと凄みがある。しかしその言いぐさからすると、どうやらこの老人も共犯であったらしい。
「まぁ、だから、俺もここの事が知れちまうのはちとまずい。だから、互いに見なかったことにしようじゃないか」
その申し出に、いたずらっ子は飛び付いた。
「助かります!」
教師の説教を回避したことで、ほっと息をつく。
苦笑した老人は、がさごそと積み上がった荷物を漁った。本当に片付け中だったのだろう、まとめていたらしい紙袋や段ボールが、壁際に積まれていた。
「片付けですよね。僕も手伝います!」
「あ、あの。私も手伝います」
折戸谷がさっと挙手し、千鳥も慌てて追従した。
「そりゃ、助かるがね」
老人は急きょ増えた手伝い人を、苦笑しつつ迎え入れた。
「この写真も処分するんですか?」
老人と一緒に荷物をまとめていた千鳥の問いに、老人は頷く。
「そうなるね」
そうだ、と老人は何かを思い付いたらしく、片付けの手を止めて折戸谷と千鳥を交互に見た。
「君ら、よかったら、これをもらってやってくれないかね」
老人がなにやら重たげな紙袋を差し出してくる。
「これは?」
紙袋の中を覗き込むと、そこには小さな円筒形のプラスチックの入れ物や、長細い厚紙の束があった。それらはデジタルカメラが主流の現代において、ずいぶんと馴染み薄くなってしまったものたちだ。
「フィルムのネガだよ」
ひとつ取り出して、光に透かしてみる。セピアの絵がうっすらと海の向こうに透けて見えた。
「いいんですか?」
「どうせ処分されちまうんだからね、きっとこれも何かの縁さ」
老人は不器用に片目をつぶる。相当にぎこちないが、たぶん、ウインクだろう。
「勝手に入ってきたことは内緒にしておいてあげよう。この写真館の最後のお客さんだからね」
そしてモップを肩に担ぎ上げ、空高く登った太陽を眩しそうに見上げる。
「しかし君ら、学校はいいのかい?」
老人に指摘されて、二人はまた飛び上がった。
「ヤバイ。新聞配達が終わってないっ!」
「わ、わたしも制服に着替えないと。急ぎましょう」
「ここはもういいから、お帰りよ」
最初から最後まで慌ただしい彼らに苦笑を深くして、老人は帽子をちょいと持ち上げた。灰色の瞳は荒れた海のように力強く、優しく細められていた。
「ありがとうございましたっ」
ゆっくりと手を振って見送ってくれる灯台守に手を振り返して、少年と少女は早朝の小さな冒険を終え、いつもの日常に戻っていった。
はらりと、一枚の写真が空から落ちてきた。
それを空中で掴んだのは、少年の右手だった。
少年の背後には古びた白い灯台が佇んでいて、彼の細い背中を見下ろしている。
灯台の長い影に紛れるように佇んだ少年は、ポケットに片手を突っ込み、猫背のだらしない姿勢で拾った写真をぼんやりと眺めていた。黒髪黒目の中肉中背、顔形にも特徴らしきものがまったくないのに、その立ち姿が不思議と目を引き付ける少年だった。
写真は水に濡れたのか、もうほとんど何を写しているのかわからなくなっていた。しかし黒く滲んだ魚のような尾ひれは、まるで人魚のようにも見えた。
写真には、署名らしき走り書きがあった。鉛筆の掠れた文字で、しかもかなりの荒字だったが、それは辛うじて、トリトン、と読めた。
「これで、良かったのかね?」
少年はゆるりと振り返ると、そこに立つ老人を見返した。その瞳は凪の海のように静かだった。
無言で頷いて見せる少年を、老人は懐かしむような不思議な瞳で見つめ返した。
「……君の目的はなんだ?」
少年は答えず、ただ淡い微笑みを浮かべる。
しかし老人には、それで充分な答えだったらしい。
「この秘密のアトリエは、これで閉じることになるけれど、君がそれを引き継ぐのなら、それはそれで運命なんだろうね」
老人は、少年の傍らに佇む小さな人影に視線を落とした。
それは、一人の子どもだった。身の丈に合わない重そうなカメラを首に下げて、少年に寄り添うように立っていた。
子どもは少年のシャツの裾をつん、と引っ張った。
じいっと少年の顔を見つめるそのまんまるの目は、瞬きを忘れたみたいに見開かれている。
少年は、子どもの頭をゆっくりと撫でた。
「もうすぐだよ」
その囁きは、やはり凪の海のように静かだった。
それから少年は老人に背を向けると、小さな手を引き、灯台の奥へと消えていった。
「トリトン、それが君の答えなんだね」
老人の呟きは潮風に紛れて、手すりに止まって羽を休めていた海鳥以外は、聞くものはなかった。
そして、老人は灯台の鍵を閉めると、踵を返す。
灯台から人の気配が消えた後も、クラゲのように見える天女の風見鶏が、方向を見失ったようにカラカラと回転していた。
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