〈博士Aと役人A〉トリトン
紅茶がぬるくなっていた。
博士はため息をついて、飲みかけのティーカップを置いた。どうやらおしゃべりに夢中になりすぎたようだ。中途半端に冷めた紅茶は嫌いだった。
目の前の役人のカップには、まだ並々と紅茶が残っている。しかし話の切れ間にやっと伸ばした役人の手は、カップに触れる直前で止まった。
微かな振動は携帯電話のバイブレーションだ。
役人はさっと画面を一瞥して、すぐに上着の内ポケットに端末を戻した。
「また役所に苦情ですよ」
笑いながらそう答える役人の顔には、面倒事だと書いてある。
「まったく仕事というのは次から次へと、いつまでたっても減らないもので」
そうですね、と博士は忙しなさからは程遠い、優雅な微笑みを浮かべて頷いた。
「冷めてしまいましたね。次は珈琲をお入れしましょう」
「ああ、すみません。お気遣いなく」
博士は席を立ち、紅茶を下げて新しいカップを持ってきた。中には熱々の黒い液体が注がれていた。匂いからして、安物のインスタントだろう。
役人は珈琲を受け取り、いったん口をつけようとして、熱っと顔をしかめてすぐにカップを離した。
猫舌でしてね、と笑ってカップを揺らす。落とされたミルクがぐるぐると渦を巻く白黒の液体に、やはり口をつけないまま、役人はふと口を開いた。
「ああ、そういえば。博士にひとつ、お聞きしたいことがあったのでした」
役人の口調は不自然のほど穏やかで、まるで大したことのない世間話の延長のような口ぶりだった。
「人間ではない他種族が、人間に擬態するのがミミックですよね。と、いうことは、擬態する前は、何かの動物だということ、ですよね?」
「ええ、そうなりますね」
博士は軽く頷く。役人の話は、それこそ教科書に載っているような内容だ。
「と、いうことは。鯨のミミックというのもいるのでしょうか?」
いるでしょうね、と博士は頷く。
「鯨に興味がおありですか?」
「いえ、なんとなくですが」
役人は一口も減らないままの珈琲カップを置き、テーブルの上で腕を組んだ。
博士は直感した。たぶんこれからが、この目の前の胡散臭い役人がここに来た本題だと。
「博士の研究対象の中に、鯨のミミックがいたかと思いましてね」
「ええ、もちろん。おりますわよ」
中年の役人と若い博士とでは、下手をすれば親子ほどに年は離れているのだが、役人の慇懃な態度と博士の落ち着いた雰囲気が、その年の差を感じさせない。
「そう、例えば……、トリトン、と呼ばれる個体」
役人の眼鏡越しの目が揺らいだのを、博士は見逃さなかった。確信を得た博士は、役人の思惑に乗ることにする。
「トリトンは、十数年前に存在が確認されたミミックです。活動時期や行動範囲など詳細はわかりません」
博士は淡々と、必要な言葉を選んでいった。腹の探りあいのような会話が表面上は和やかに続いていく。
「トリトン。海神とは、おそれ多い名前ですね」
役人の相づちに、博士は曖昧な微笑みを返す。
「トリトンは、そもそもわかっていることのほうが少ないミミックにおいての、もっとも大きなブラックボックスです」
博士はテーブルの中央に置かれたままの、黒い一冊の本を見る。手書きで綴られたタイトルは、掠れて文字が消えかかっていた。
「ただひとつ、はっきりとしていることは、この本を残したということ。そして、本の消失とともに、トリトン自身もまた、消え失せている」
博士はその掠れた文字を指でなぞる。
「例の計画の頓挫から約十年。トリトンとブラックブラックの消失が与えた影響は大きい。我々人間にも、あちら側、ミミックにとっても」
そうですね、と役人も頷く。
「しかし、こうして十年越しに本が見つかり、またあの計画は再稼働した。サテライト・タグはその足掛かりになる」
役人の言葉に、博士は慎重な言葉を向ける。
「しかし、トリトンは依然として失われたままです。ブラックブックが見つかったとしても、本当に計画は実行可能だとお考えですか?」
「できるか、ではなく、やれ、というのが我々しがない勤め人の宿命でしてね」
博士の確認に、はなから決定権などないと、役人は肩を竦める。
「まぁ、大変ですわね」
「もちろん博士にもご協力いただくことになります」
博士の他人事のような言葉に、役人は意地悪げな笑みを浮かべる。
「ミミックの完璧な管理システム構築のためには、監視の目はより強化されるべき、というのが上の考えなわけですが」
「それはわかっておりますわ。しかし、問題は多いでしょうね。把握しきれていない個体がまだ存在していますから」
「サテライト・タグを使っても、全数の把握には至りませんか」
博士の述べる懸念事項に、役人は顔をしかめた。役人は新技術に自信を持っていたらしい。
「それは事実上、不可能でしょうね」
しかし博士は役人の期待をあっさりと打ち砕いた。
「これはごく最近の研究でわかったことですが。ミミックはこれまで、自然界の種の中で、突然変異的に人間に擬態する能力を持つものが生まれていると予測されていました」
「違ったのですか?」
初耳だったらしい役人は、大袈裟に驚いた。
「はい。これまで調べたミミックたちは皆、そもそも生まれた時は、他のごく普通の仲間たちと変わらない姿と能力だったのです。ただ自然界のルールに従い生きる野性動物。当然、人間のように複雑な思考を持つわけでもない」
ミミックとは、特殊な素養を持って生まれた突然変異体でないと、博士は説明する。
「つまり、ミミックは後天的な種族ということ」
「後天的……それは、変身する、ということでしょうか?」
役人にはいまいちイメージがわかないらしい。今彼の頭の中には、狼男のように変身するモンスターが描かれている。
「まるでコミックの世界のようですが、おおむね正解でしょう」
博士ははっきりと肯定する。
「現在確認されたミミックの元の種族は、数百種にものぼります。ですが、これは我々が把握している範囲の話です。おそらく、我々の知らないミミック達が、もっと多く存在しているはず」
というより、と博士は続ける。
「人間以外のあらゆる種が、ミミックとなる可能性がある」
この地球という星には、数えきれないほどの種が存在し、そのすべてを人類が知るわけではない。博士のような優秀な研究者であっても、把握できるのはあいまいな輪郭だけだ。
そもそもミミックは生物の進化の過程からかけはなれたものであったが、そうなるといっそうその特異性があらわになる。そして、次に誰もが疑問に思うことを、役人は口にする。
「では、どうやってミミックになるのですか?」
役人の問いに、博士ははっきりと答えを示す。
「ごく普通の動物を、ミミックにしている『誰か』がいます」
役人は顔をしかめた。
「……それがトリトンであると?」
博士は首を横にふった。
「そこまではわかりません。全く別の存在なのか、なにかしらの関係があるのか、それとも……」
完璧な答えは、まだ出ていない。
「少なくともトリトンが、その渦中にいたということは確かです」
「……トリトンの消失から十年あまり。我々人間とミミックの間の境界線は、いまだにせめぎあいを続けている。それをなんとか、こちら側が有利になるよう調整するのが、我々環境省の仕事なのですが」
境界線、それは海と空を分ける水平線のように、似て非なる何かの壁でもある。すぐ隣にありながら、決して交わることのない一線。
「ミミックとは、その候補という意味でも、人間以外のこの星のすべての生き物だと考えて、差し支えありません。ミミックをすべて把握する、ということは、この星すべての生き物に監視をつけることと同義です」
だから不可能なのです、と博士は締めくくった。役人は博士の言葉に重いため息をつく。
「なるほど。サテライト・タグをもってしても不可能、という意味がよくわかりました」
役人は唸りながら腕を組む。
「しかしそうなると……まるで、人類、対、他種族、みたいな構図ですね」
役人がポツリとこぼした言葉に、博士は頷いた。
「それは正しい認識かもしれません。この地球上に存在するありとあらゆる種の、そのうち人間だけがある意味、異様なのですから」
「と、言うと?」
博士の言葉に、役人は眉をひそめた。
「そうですね。例えば人間は、お墓を作るでしょう?棺桶や骨壺に入って、特定の個人を偲ぶ」
「それは人類が高い社会性や精神性を有している証拠なのでは?」
役人はさらに怪訝な顔をする。博士の話は時おりこうしてふいに揺れて、気まぐれな彼女に役人は困惑を隠せない。
「そうとも言えますが、それは他の自然の動植物の命のサイクルから、外れているとも言えませんか?」
博士は謎かけをするように役人に問う。
「普通の動物は、死ねばその身は他の動物に食べられるか、微生物に分解されて、土に還ります。骸に育まれた土から植物は芽吹き、他の動物達の糧となる。そうやって次の命、次の命と続いていって、この星を生かしている」
「はぁ」
壮大な話に、役人は困ったように首を傾げている。
しかし博士は構わずに、独り言のように続ける。
「生命学者の中に、地球をひとつの生命体としてとらえる考え方があります。ひとつの命が細胞ひとつの役割をして、それぞれが繋がって地球という巨大な生命体を維持する。筋肉、皮膚、毛、眼球、骨、それぞれ役割も形も違うけれども、ひとつの生命を形作るための部位のように、各種族があるのだと。眼球がものを見て、鼻が匂いをかぎ分けるように、部位には役割がある。だから、同じように生物は皆、地球という一個の生命体の中で、生まれる場所も生きる手順も、すべて決めらているのです。そしてそこから外れることは、決してない。あってはならない」
「ひとつの大きな機械に組み込まれた、ひとつの部品のように?」
小さな歯車ひとつが狂ったせいで、機械すべてを止めてしまうことだってある。だから、すべてのパーツがそれぞれしっかりと動くことが肝要なのだ。
博士は頷く。
「ですが、人類だけが墓に入って、そのサイクルから逃れようとしている。小さな箱に閉じこもって、地球の一部に戻ることを、拒否している」
人は陸に、鯨は海に。それは、種としてはじめから決められていること。
博士は微笑む。
「……なんとも独特の考えですな」
役人は肩を竦めた。
「確かに人類は、他の種族に比べて、やや勝ちすぎているかもしれません。おおよそ、生態系ピラミッドの頂点といってもいいでしょうからね。しかしそれで、人類対地球という構図になるとでも?」
「ふふ、ただの偏屈な学者の戯言ですから、気にしないでくださいな」
博士は微笑んで、言葉を曖昧に濁した。
「しかし本当に、ミミック達の目的は一体なんなのでしょうね」
役人は眼鏡を指先で押し上げると、博士の青い瞳を探るようにじっと覗きこんだ。博士は役人の視線に気づいているのかいないのか、独り言のように呟く。
「……彼らミミックは、監視役なのかもしれません。もしも人類が、陸に上がってしまった鯨のように、この星が定めたルールから外れようとしたら……」
「……もとに戻す必要がある、と?」
博士の顔に憂いが帯びる。
「ただ、もとに戻すだけならばまだよいのですが。不要、あるいは害であると判断されたのならば……」
役人は口を閉じた。先程までの愛想のよい笑顔が途切れていた。
博士は役人の背中越しの水槽に向けた。泳いでいる小さな魚達を眺めながら、長年抱き続けている予感のようなものを改めて考える。
研究者である彼女にとって、考えるということは息をするのと同じことだった。だから今も、目の前の役人よりも、冷めた紅茶よりも、思考を優先する。
彼女が追い求める研究の要、ミミックの謎。
何度思考を繰り返しても出なかった答えは、やはりまだ出ない。
博士はテーブルの上の黒い本に目を落とした。
政府の要請と援助があったにせよ、これは彼女の生涯をかけた研究だった。立派な研究施設も莫大な予算も、彼女自身の情熱も人生もすべて、この本の中に詰まっている。
もしこの研究が完成すれば、彼女の欲する答えが手に入るかもしれない。その予感が、冷静な彼女を他のことが目に入らなくなるくらいに夢中にさせる。
だから博士はいつの間にか、役人が博士の持つ黒い本に、暗い視線を注いでいることにも気づかなかった。いや、たとえ気づいていたとしても、やはり彼女にとって重大なのは、己の思考であり、目の前の黒い本である。
博士は黒い本の表紙を愛おしげに撫でた。
「トリトンとは、この本の執筆者。科学者であり、魔法使いのひとりでもある」
「科学者で魔法使い、ですか?」
矛盾のような言葉に、役人は訝しげな顔をする。
「その昔、科学は魔術と区別されていませんでした。錬金術や魔術師がそこいらじゅうに居た。けれど本質的に彼らはいずれ科学と統合しうる世界のカラクリの一端です」
「魔法は科学によって解かれる、ですか」
ええ、と博士は頷く。
「ミミックは世界で唯一、科学が届かない魔法です。しかしトリトンは、彼らの魔法を解くための装置といえるものを作り出した」
ミミックの曖昧な存在にはっきりとした輪郭を与え、科学という箱に閉じ込める。
トリトンは異端児であった。ミミックでありながら、ミミックを脅かすようなものをこの世に残した。
だからこそ、消えてしまったのかもしれない。
「ブラックブックに記されたものは、ただの情報の羅列ではありません。これは世界で唯一の魔法を解くための、魔法の本なのですよ」
「……私には、おとぎ話のように思えてなりませんね」
博士の言葉はまるで科学者らしくない、面白くもない三文小説の文句のようだった。
「確かに、おとぎ話なのかもしれません。しかし、ミミックという存在そのものが、すでにおとぎ話の登場人物のようですから」
黒い本の表紙に踊るような文字がある。古いだけではなく、もともと雑記帳なようなもので、さほど丁寧に扱われてはいなかったのかもしれない。その文字はもう読めないほどに掠れていた。
「……たしか、ケルト神話でしたか」
「ええ。妖精達の住まう常若の国の名前です」
しかし、博士も役人も、読めなくともそこに並んだ文字を知っていた。
「この国の住人は、永遠に年を取らず、幸せの中に暮らすそうですよ」
「まさに、楽園というわけですか」
役人はどこか皮肉げに、博士はうっとりと甘く、その名前を囁く。
「ええ。これは水槽で飼われた魚を愛でるように、彼らを閉じ込める楽園の計画書なのですわ」
『ティル・ナ・ノーグ計画』
それは、永遠の楽園の名を冠した計画であり。
妖精達を楽園に閉じ込める、美しい水槽であり。
そして、その黒い本のタイトルであった。
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