天女の灯台

 早朝。

 まだ太陽は雲の下、風に冷たさが残る。一日が始まる直前の静けさ。長い髪をポニーテールにまとめた少女は、スニーカーの紐をきゅっと縛った。

 入道雲の向こうからやってきた燕が頭の上を通りすぎるのと同時に、少女は走り出した。

 リズムよく踏み出した足はアスファルトを蹴り、視線は揺るぎなくまっすぐ前。颯爽と走る姿は趣味のマラソンというには、まるでスポーツ選手のように洗練されたもの。跳ねるポニーテールが尻尾のようにも見えて、そうして無心に走っている姿は、何かしなやかな獣のようだった。

 隣を走るローカル路線は、早めの通勤や通学の人々を乗せて、少女とゆっくりと並走している。

 線路の向こう側には、青く輝く海があった。

 猫の手のような形の湾の先端まで通ったこの路線は、周辺で働く社会人、それに湾の先端のちょうど猫の肉球辺りを占領する、巨大な学校施設群に通う学生や研究者達のために運営されている。

 同じ年頃の少年少女達が、通学のために眠気眼でトロトロ電車に乗り込む傍らで、彼女はこうして毎朝走り込んでいた。

 その風変わりな少女が向かう先は、湾の先端にちょこんと建つ白い塔だった。

 寝坊ぎみに顔を出した太陽に、少女の汗が光る。

 松林がちょうどよい木陰を作ってくれているが、荒い石畳の道は走りやすいとはいえないだろうに、少女はペースを落とすことなく走っていった。

 潮の匂いは濃く、静かな浜辺に波の音だけが響く。

 だんだんと近づく白い塔が、松の葉の向こうにちらりと見えた。

 このひっそりと佇む古い灯台の事を、知っている者は地元民でも少なかった。海にとっては有意義でも、丘からは海鳥が羽を休める以外用があるものはない。

 陸を駆ける少女が燕を追い越した。

 灯台が目前に迫る。

 たん、と壁のコンクリートに手を付いて、少女は大きく息を吐いた。

 額に垂れた汗を手の甲で拭い、灯台を見上げる。

 白亜の鉄筋コンクリートの塔は美しい八角形で、青い空に鋭利に刺さっている。光を反射して眩しく輝く灯台に、少女は目を細めた。

 背負った鞄からタオルと補水液の入ったペットボトルを取り出すと、喉をそらしてごくりと飲む。しばらく壁に背中を預けて息を整えていた少女は、ふいに顔を上げた。

「……?」

 首を捻って目を瞬かせる。

 どこからか、小さな声が聞こえてきたのだ。

 耳を澄ませると、それはどうやら歌だった。

 楽しげなメロディ。歌詞はよく聞き取れないし、聞き覚えのない歌なのに、どこか懐かしいと感じる不思議な歌だった。

 歌は白い壁の向こう側から聞こえてくる。

 少女は白い壁に沿って時計回りに足を進めた。するとさほど大きくもない建物の向こうに、すぐに声の主を見つけた。

 柔らかい下草を海の風がそよそよと撫でる気持ちの良い場所に、少年がひとり座っている。知らないメロディを口ずさむのは、少女のよく知る彼だった。

「……折戸谷くん?」

 思わず、呟いていた。

「やぁ、おはよう」

 振り返った少年が、一瞬だけ驚いた顔をして、それからすぐに白い歯を見せてにこりと笑う。

「思いもよらないところで会うね」

 折戸谷は可笑しそうに笑った。

 千鳥はよほど驚いたのか、朝の海のように爽やかな笑みを見下ろしたまま固まった。

 折戸谷はそんな千鳥の姿を、珍獣を見つけたような顔でまじまじと見つめ返した。

「その格好……もしかして、トレーニング中とか?」

 ランニング用のスポーツウエア、有名スポーツメーカーのランニングシューズ。普段、大人しそうなイメージのある千鳥とは、ギャップが激しい姿だった。

「えっと、ランニングを、少々……」

 千鳥はさっきまで風のように走っていた姿とは別人のように、もじもじとうつむいてしまった。

「もしかして毎日走って登校してたりするの?」

 千鳥は曖昧に頷く。折戸谷は感心したように声を上げた。

「へー、さすがとびこちゃんだねぇ!」

「……とびこ?」

 よくわからない感想を言いながら手を叩く少年に、千鳥はきょとんと首をかしげた。

「そう! 屋上で写真をキャッチした時の見事なジャンプ! まさにトビウオのごとくだったからさ!」

「……それ、もしかして私のあだ名ですか?」

「うん、そう!」

 かわいいでしょ?

 と、仔犬のように子首をかしげて見せる。

 嫌とも言えずにいる千鳥に、折戸谷はニコニコと自分の隣のスペースを叩いた。

 座れ、ということだろう。千鳥はおずおずと、少年からひとり分のスペースを保って腰かける。

「折戸谷君は、どうしてここに……」

 千鳥の問いに、折戸谷は自分の後ろを指さす。

「ちょっとサボリ、もとい休憩中」

 壁に斜めに立て掛けてあるのは、彼の愛用のママチャリだった。かごからは新聞の束がはみ出している。 

 千鳥はもう一度目を丸くした。

「もしかして、新聞配達、とかですか?」

「そ」

 折戸谷は軽く頷く。そういえば、折戸谷はバイトをかけ持ちしていると、おしゃべりなミホに聞いたことがあった。

「バイトは水族館だけじゃないんですね」

 折戸谷は指を折って数え始めた。

「えっと、新聞配達と、商店街の花屋と、お弁当屋と、コンビニと……」

「そんなに?」

「鉄腕アルバイターと呼んでくれていいよ」

 驚く千鳥に、どんと胸を張る折戸谷。

 天文部部長である彼の野望は、壊れている屋上の望遠鏡を直すことだ。そのために空を眺めるよりもバイトにいそしむ彼である。

「折戸谷君は、よくここに来るんですか?」

「たまにね。この灯台、古いけど、けっこう好きなんだ」

 少年と少女は、そろって海を眺めながら、とりとめのない会話を始めた。

「運動してたなら、疲れたでしょ? これ、あげる」

「はぁ、ありがとうございます……」

 折戸谷はごそごそとポケットに手を突っ込むと、なにやら千鳥に差し出してきた。

「商店街のケーキ屋にさ、花屋のバイトでお届けに行くんだけど。たまに売れ残りのケーキとかもらえるんだよね」

 少年の手のひらにあったのは、黒い包み紙にくるまれた小さな四角い箱だ。ほのかに甘い香りがする。

「ここのチョコレート、僕のお気に入りなんだ」

 走って疲れた身体に、糖分は魅力的である。千鳥は金色の文字が美しい包み紙を丁寧に開けると、中身を取り出した。少しだけ溶けていたそれを、かじる。

 いつもと同じ朝の中に、ポトンと落ちてきた偶然。

 チョコレートが口の中で蕩けていく。甘くて苦い。ほのかに塩の味がするのは、隠し味だろうか。

 千鳥は口の中の甘さをもて余すように、視線をさ迷わせた。

「えっと。あの風見鶏、変わった形ですね」

 灯台のてっぺんの風見鶏がゆらゆら揺れた。

 普通、風見鶏と言ったら鳥の形だろうが、この灯台の風見鶏は少し違う形をしていた。丸っぽい胴体と思われる部分から、長いヒレがのびている。

「クラゲの形なんて」

「いや、あれは天女だよ」

 折戸谷が真面目な顔で首を横に振り、千鳥は少し顔を赤くした。

「この海辺に伝わる昔話にちなんで、あのデザインなんだってさ」

 なるほど、確かに言われてみればそう見えなくもない。クラゲの触手だと思った部分は、天女の羽衣だったらしい。和風のモチーフらしく、方角を示す文字も漢字で東西南北になっている。

 この灯台が点灯した日付が壁のプレートに彫られていているのだが、それももうほとんど読めなくなっているほどに古びていた。

「灯器は二面フレネルレンズ回転灯プレートで、日本で初めての鉄筋コンクリート造りの灯台なんだよ。点灯は百年近く前でね」

 折戸谷は相変わらずよくしゃべった。

「じいちゃんから聞いたんだけど。今はもう無人化してるけど、昔は有人で、灯台守っていう人達が、嵐の日も海を照らし続けてたんだって」

 千鳥はおしゃべりな少年の声を、穏やかな海風と一緒に受け止める。

「あそこなら、海の向こう側まで見えそうだよね」

 岬の先っぽに建つこの灯台の目の前に広がるのは、海と空だけだ。今日のように良く晴れた日なら、水平線もくっきりと見える。青い直線の向こうには、千鳥の知らない世界が広がっているのだろう。

 千鳥は膝を抱えて、そうですね、と小さく頷いた。

「……そういえばさ、この灯台、もう少しで取り壊しになっちゃうんだって」

 ふいに思い出したのだろう。こぼれた彼の言葉は、何気ないけれど、寂しさが滲んでいた。

「……それは、残念ですね」

 千鳥は折戸谷と同じように、灯台を見上げて……そして、ぱちくりと目を瞬かせた。

 クラゲに見間違えた天女の風見鶏の下で、何か影が動いたのだ。

 それは人の形に見えた。無人のはずの灯台に、誰かがいる。

「折戸谷君、あそこに誰かいるみたいですけど」

「え?」

 折戸谷は千鳥の指の先を目で追って、最上階辺りを眺めた。しかし、すぐに首をかしげる。

「そう? 何も見えないけど……」

「あれ?」

 千鳥は目を擦った。

 確かに何か動いたような気がしたのだが、折戸谷の言う通り、ガラスの窓に映るのは海の青だけだ。天女の風見鶏がくるくる回っている以外に、動くものはない。

「……すみません、やっぱり、私の見間違いみたいです」

 折戸谷は風見鶏を見つめて少しの間考え込むと、すっと立ち上がった。

「行ってみよう」

 座ったままの千鳥に手を差し出した。

「え、でも」

 千鳥は自分の間違いだからと慌てる。しかし、折戸谷はいつものいたずらっ子の笑顔で、座り込む千鳥の手を引いて立ち上がらせた。

 プールに忍び込んで教師にしぼられたのは、そう昔のことではないはずだが。折戸谷は立ち入り禁止の場所があれば、入らずにはいられない性分なのかもしれない。

「確か、こっちに入り口があるはずだよ」

「でも、鍵とか……」

 千鳥はおろおろと折戸谷に引っ張られていく。

 小さな灯台だ。ぐるりと白い壁を回れば、入り口はすぐに見つかった。

「やっぱり開いてる」

 折戸谷はニヤリと笑った。

 鉄の扉は鍵がかかっておらず、薄く開いていた。

 やっぱりとはどういうことか、千鳥が問う前に、すでに折戸谷は扉を潜っていた。

「早くおいでよ」

 折戸谷の手招きに、千鳥は観念した。

「……また怒られても、知りませんよ」

 扉を潜ってすぐ、濃い海の匂いに包まれる。

 白い円形の壁に、螺旋階段があるだけの単純な空間。ひんやりとした空気は重く湿っていて、肌にまとわりついてくる。照明もなく、日中にも関わらずかなり暗かった。

 壁の所々に小窓が規則的に並び、細い太陽の光がスポットライトのように差し込んでいた。光がさすところだけ、塵がキラキラと光っている。

 螺旋階段に、潮の音が微かに響く。

 千鳥は無意識に肩を縮めた。

 ただコンクリート一枚越えただけなのに、どこか異世界に迷い込んでしまったかのような気になり、戸惑いを覚える。

 最初に異変に気づいたのは、折戸谷だった。

「なんだこれ?」

 壁に手をつき、折戸谷は驚きの声をあげる。

「どうかしたんですか?」

 暗闇に目が慣れてくると、千鳥も折戸谷が驚いた意味が分かった。

 コンクリートの壁に、何かある。

 長方形の、手のひらほど大きさ。紙切れのようで、画鋲で無造作に留められていた。

 こんなところに貼っているせいか、それとも古いものなのか、ずいぶんと薄汚れて破けかけているものもある。

 それ自体はさほど驚くようなものでもないのだが、異様なのはその数だ。一枚、二枚の話ではない。階段と小窓を避けた以外のすべて、それこそ灯台の壁を埋め尽くすほど。

 千鳥は吸い寄せられるように壁に額を近づけた。

「海だ」

 隙間なく、あるいは折り重なるようにして、長方形に切り取られた海が並んでいた。

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