〈少年Sと少女S〉邂逅

「○月△日、本州を直撃した大型の台風ですが、非常に強い勢力を保ったまま、本日未明には本県を通過し……」

 狭いテレビの画面からは、全国ニュースで地元の情報が流れてくる。新人のアナウンサーが大荒れの海岸でびしょ濡れになりながら、マイクを握りしめ立派に仕事をこなしていた。

「……ご覧、い、いただけますでしょうか! 海は、大荒れの模様です! 特に海岸付近にお住まいの方は、高波に警戒してください! 海には決して近づかないようにー……」

 少年はテレビのリモコンをつかんだ。年代物のテレビは、ノイズがひどくて聞けたものではない。それにわざわざテレビ経由で情報を伝えられなくても、ガラスに叩きつける雨の音で、強い嵐であることは誰でもわかる。

 このテレビに限らずだが、このアパートの家具はどれも父親の若い時のものだ。ぎっしりと古本のつまった本棚に、ラジオとちゃぶ台と、壁の鳩時計。それから、畳に無造作に転がる一眼レフのカメラ。

 亡くなった父は写真家だった。ここは、父が生前アトリエとして住み着いた場所だ。

 売れない写真家の、アトリエなどという洒落た響きからは程遠いおんぼろ部屋。唯一芸術家らしいのは、積み上げられた写真の束がそこかしこに山になっていることくらいだろう。

 風景写真家であった父は、いつものように海にふらりと出かけて行って、そのまま帰ってこなかった。

 少年は、母と義父の反対を押しきって、父のこの元アトリエに住み着いていた。

 そもそもここに居続けたのは姉だった。父が母と姉と自分を残して亡くなってから、しばらくはここで父の面影にすがって暮らしてはいたが、母の再婚で新しい家に移ることになっものの、姉はそれを拒んだ。姉は母と義父の反対をものともせず、まだ中学生になったばかりだというのに、おんぼろアパートでの一人暮らしを始めてしまった。

 それは少年がまだ赤ん坊と呼べる年代の頃。父の記憶は少年にはまるでなく、正直実父の方よりも、義父の方を父親と認識している。しかし、十歳以上も年が離れ、すでにそれほど子どもではなかった姉は、海から帰ってこなかった父を待っていたかったのかもしれない。

 少年は義父と母と別の家で暮らしつつも、姉を訪ねてしょっちゅうこのアパートに入り浸っていた。そして父の遺品である写真を、姉と共によく眺めていた。

 生きている頃は全く売れず、海の事故で帰って来なくなって、ようやく世間の目が向くようになった父の写真。青ばかりのそれは、父の顔形よりもより鮮明に、父の色として少年に刻まれていた。

 なにしろ父は風景写真家であったために、海や空の写真は山のようにあるくせに、本人の姿を写したものはほとんどなかったのだから。

 時折姉弟で海に遊びに行っては、父のカメラで撮影したり、砂浜の漂着物を拾って過ごした。シーグラスや貝殻など、気に入ったものをすだれのように連ねて手製の飾りを作ったら、姉が気に入って窓枠に吊るしていた。

 姉はよく言っていた。お父さんは、海と空の両方を追いかけていたの。だから、私は空を、あなたは海を、それぞれ引き継ぎましょうと。

 幼い自分はその言葉の意味がよくわからなかった。

 ただ、父に似て自由奔放な姉は、よく海を眺めては不思議な笑みを浮かべていた。

 そんな姉が、ある時父を追いかけるように姿を消した。姉はまだ高校生だった。

 少年がいつものように姉を訪ねてアパートを訪れたら、父の遺品であるカメラがちゃぶ台の上にきちんと置かれていて、部屋は片付けられて姉の荷物はさっぱり失くなっていた。姉の失踪は家出として扱われた。

 母も義父も姉を探してはいたが、少年はたぶん姉はもう帰ってこないだろうと悟っていた。父と同じように、遠い海の向こうに行ったのだろうと。

 残ったのは、カメラと少年とこの部屋だけだった。

 姉が消えてからしばらくして、ついにアパートを処分するという話があがったとき、珍しく少年は両親と喧嘩をした。

 父や姉の帰りを待つことを諦めた母を、責めるつもりはない。しかし、このアパートを処分することだけは、どうしても嫌だった。もう誰もいなくなったとしても、この部屋だけは消えてほしくなかった。

 だから姉のように、母と義父と別れてここに一人で住むことにした。

 姉と入れ替わるようにしてこの埃臭いアパートに住み着くようになってから、少年は、亡き父の陽炎のようなものを探して、あるいは姉との思い出をなぞるように、埃を被った古いフィルムの山や、ささくれだった畳や、開く度にガタガタと音を立てる食器棚を、ことさらよく眺めていた。

 そこには父も姉ももうおらず、取り残された自分のひとりぼっちの影しかいない。いくら鳩時計の鳴く声に耳を澄ましてみても、父や姉の声が聞こえるわけもないのに、気づけば畳にぼんやりと座り込んで、夜もすっかり更けていたことはよくあった。

 そんなふうにじっとうずくまるような日々を、少年はただ過ごしていた。


 それは、そんな気だるい昼寝のような時間の中に、ふいにやってきた季節外れの嵐の日だった。

 学校は春休み中である。だから特にすることもなく、染みだらけの年代物のちゃぶ台に突っ伏して、少年は嵐の音にただ耳を澄ましていた。

 このアパートは、海のごく近くにある。夜中などは、耳を澄ませば波の音がはっきりと聞こえるくらいだ。今は大荒れの海の轟音が、雨の音とは違った重低音を響かせている。雨のなかの波の音を探していると、次第に眠気が忍び寄ってきた。

 少年は目を閉じた。頬に当たる冷たい木の、つるつるとした感触が心地よい。

 こうして昼間にまどろむと、たまに父の夢を見ることがあった。父の記憶がない自分が、父の夢を見られるわけはない。だからその父は自分の脳が作り出した虚構であると、重々承知してはいた。それでも夢のなかで会える父は、いつでも優しく笑っていて、そして微かに海の匂いがした。

 この日も父に会えるかもしれないという淡い期待を抱きながら、沈むように目を閉じていた。

 そうやっていつのまにか本当に深く眠りこんでいたらしく、次に目を開けた時は、外の様子がずいぶんと変わっていた。

「…………?」

 少年はまぶたをゆっくりと押し上げた。

 窓の外は、しんと静まり返っていた。雨の音も風の音もしない。それどころか、時計の針の進む音すらもしない。

 壁にかかった鳩時計を見ると、針は全く進んではいなかった。この時計も年代物なので、ついに壊れたかと思い、ため息をつく。

 曇りガラスの向こう側から、柔らかい光が溢れてくる。虹色の光がガラスの模様に乱反射して、窓に吊るした漂流物の飾りが、キラキラと本物の宝石のように輝いていた。

 少年は固まった背中をほぐすように、ゆっくりと起き上がった。

 時間はどれくらいたったのだろう。携帯電話で確認すればすぐにわかるのだろうが、ポケットから取り出すのも億劫だった。 

 嵐は過ぎたのだろうか。

 窓を少しだけ開けると、濃い濃い海の匂いがした。

 雨はやはり止んでいて、乳白色の雲は虹色の輪郭に彩られ空を覆っている。太陽の姿は見えないが、いやに明るかった。

 少年はその虹色に魅了されるように、気づけばアパートを出て、海へと続く道を歩いてた。


 何かがおかしい。

 静まり返った街をフラフラと歩きながら、少年は形のはっきりしない違和感を感じていた。

 もともと人の少ない田舎とはいえ、さっきから誰ともすれ違わなかった。嵐が過ぎたわりにはどこにも異変はなく、植木鉢のひとつでも転がっていても可笑しくないのに、花壇に咲く花すらいつもと変わらない。道には水溜まりひとつなく、車の音も聞こえない。空を見上げれば、虹に彩られた雲は全く動いてはいなかった。

 半透明の膜に包まれたように思考は曖昧で、おかしいと思いつつも危機感は抱かなかった。ただ無意識に足が前に出て、自分が勝手に歩いていく。

 そうしてどれくらい歩いたのか、時間感覚もなく、もう目の前には青い海の端っこが見えていた。

 その鮮明な青を目にした途端、少年の頭から少しだけ靄が晴れる。

 空気が動いていないのだ。

 ふいにその事に気づいた時には、少年は波打ち際にたどり着いていた。

 不自然なほど穏やかな海だった。嵐が過ぎたといっても、普通なら波はしばらく荒れるはずなのに、まるでずっと凪ぎだったような、静かで優しい海だった。

 少年はまだ夢の続きにいるように、キラキラと輝く海を眺めて立ちすくんだ。


 海は父を奪った。

 海は恐ろしくはあったが、嫌いではなかった。そもそも好き嫌いの範疇など越えて、畏れ敬うのが海だ。

 人は海に与えられて海に奪われて、行ったり来たりしながらずっとそばにいるのだ。昔からそうだったのだと、父の古い友人の灯台守が言っていた。子どもの頃に聞いたその話は、意味はわからなかったのに納得はしていた。

 少年は吸い寄せられるようにして、波に足を浸した。肌に直接伝わる水の感触に、今さら裸足だったことに気づいた。

 緩やかに寄せる波の輪郭は、雲と同じように虹色の極彩色だった。

 波打ち際は海と陸の境界線で、刻一刻とその形が変化する。海であったり陸であったりする中立地帯。

 あるいは海でも陸でもないそこに立って、少年は水平線を眺める。

 一直線に引かれた空と海を分ける線。

 その向こう側に目を凝らして、少年は息を呑んだ。

 巨大な波が、押し寄せていた。

 まだ遠くにあるからさほど高さを感じないが、瞬きの間に波がぐんぐん高くなるのがわかった。

 津波の恐さは海辺の住人として、幼い頃から叩き込まれている。だから、今すぐに逃げなくてはいけないと脳が叫んだ。

 少年は裸足で砂を蹴った。

 波の勢いはすさまじく早い。今から高台に逃げるのは無理だ。遠くに逃げるよりも、近場の高い建物に逃げる方が賢明と判断して、少年は目についた建物へと足を向けた。

 松の林を走り抜けて、たどり着いたのは岬の端っこに佇む白い灯台だった。風変わりな形の風見鶏が、くるくると回転して少年を見下ろしていた。

 普段は鍵が厳重にかけられているはずの扉が、今日は何故か開け放たれていたのだが、少年は気づかずに小さな扉に飛び込んだ。

 狭い塔の中、螺旋階段をぐるぐると駆け上がる。

 階段を必死に登っていく間、響くはずの警報や、他の住人が逃げる気配がないことも、不思議に思う余裕はなかった。

 息を切らせて頂上にたどり着く。肩で息をしながら、ぐるりと取り囲むガラスの窓に写る自分の顔と、迫る高波を見た。

 少年は目を限界まで見開いた。

 波はすでに少年に追いついていた。

 灯台よりも高い、まるで壁のような海。

 そして音もなくやってきた虹色の波は、灯台ごと少年を飲み込んだ。

 その瞬間、一切の音が途絶える。

 目を閉じることはできなかった。

 虹色が視界を埋めて、フラッシュのように頭の中に光が弾ける。

 しかし、予想した衝撃はやってこなかった。

 体を水が包む優しい浮遊感の後、少年は海の中に佇んでいた。あんなに激しい波に襲われたというのに、少年は流されることもなく、平然とその場に立ったままだった。

 気づけば、灯台は海の底になっていた。

 真珠をちりばめた珊瑚の舞台の上で、ピンク色のクラゲ達が踊っている。虹色の尾を振って泳ぐ流星群のような魚の群れを、海底を埋める綺羅綺羅しい海藻の林を、少年は呆然と眺めた。

 少年は口を開けた。こぼれたのは声ではなく、ぷくぷくとした泡だった。

 波に乗り、ふわり、と、長いヒレのようなものが、少年の目の前に漂ってきた。

 水の中にあって透明なそれの形がわかったのは、やはりその輪郭が虹色に彩られていたからだ。

 最初は一本だったそれは、瞬きひとつの間に幾重にも増えて、少年を柔らかく包んでいく。

 それは海辺に古くから伝わる、おとぎ話の天女の羽衣のようだった。

 視界を羽衣に埋め尽くされた頃、少年の目の前に、ついに羽衣の主が姿を現した。

 自らが発光し、極彩色の燐粉を撒き散らして、少年の数倍もある巨大な何かが、優雅に泳いでくる。

 海の底から虹色の波に乗ってやってきた彼女は、とても貴い何かだと、少年は本能で理解した。

 羽衣のようだと思ったそれは、彼女の触手だった。

 彼女はゆっくりと、立ち竦む少年に近づいてくる。

 近づくほどに、彼女の威容に圧倒される。

 彼女はそれほどに巨大で、底無しにおそろしく、そして美しかった。

 このまま食べられてしまうのかもしれないが、それは嫌なことではないように思えた。

 迫り来るそれに、海で姿を消した父を思い出していた。写真でしか知らない父。ああ、もしかしたら父はこの巨大なものに食べられて、今も彼女の中にいるのではないだろうか。

 無意識に手を伸ばしていた。羽衣を掴もうとしたが手応えはない。海を掴むことができないように、少年の伸ばした手は何ものにも触れなかった。

 彼女は海そのものだ。そう思った瞬間、少年は叫んでいた。

 自分が何を叫んでいるのか、自分でも理解していない。けれど何かを叫ばずにはいられなかった。

 父と姉は自分と母を置いて海の向こうに行ってしまった。少年はどちらにも行けなかった。自分がどこに行けばいいのかもわからなかった。海の向こうには、父や姉が見つめていたように、何かがあるのかもしれない。ただ、少年にはそれが見えない。希望とも呼べない、不確かな予感があるだけだった。

 彼女は途方にくれた少年を悠々と見下ろしている。

 羽衣にからめとられた少年が、ついに飲み込まれる瞬間がやってきた。

 虹色の膜の中に少年の身体が優しく包まれると、何ものもつかまないと思っていた手が、ふいに何かに触れた。

 その瞬間、少女のような軽やかな笑い声を、聞いた気がした。

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