ペルセウス流星群
「あ、千鳥さん、ちょっと」
放課後、部活に向かう途中だった千鳥は、ふいに呼び止められて立ち止まった。
「彩野先生、なんでしょうか?」
千鳥は手招きされるまま、職員室の入り口からひょっこり顔を出した眼鏡の女性に近寄る。
「これ、部長さんに渡しておいてくれない?」
渡されたのは、薄い一冊の本だった。
中身は白紙のノート。部活動の記録をつけるための部日誌だ。
彩野教諭は先日のプールのちょっとした事件の後、縁があったのか、つい最近産休に入ってしまった天文部の顧問の代理になった。
「よろしくね」
じゃあ私は授業の準備があるから、とバタバタと忙しそうに顔を引っ込める。
千鳥は軽く会釈して、そのまま天文部の部室、つまり屋上の寂れた天文台に足を向けた。
じきに夏休みだからだろうか。むずむずした空気が、すれ違う生徒たちから漂ってくる。
千鳥は帰宅する生徒の波を逆走して、屋上へ向かう。そこにはいつもと変わらず、地味なコンクリートドームが鎮座していた。
鉄の小さな扉を潜ると、そこは観測室兼部室だ。
中央の望遠鏡は、相変わらず空を見上げてひっそりと佇んでいる。
しかし、ぐるりと首を回らせてみても、オモチャ箱のような部室には誰もいない。ソファに積まれたぬいぐるみがひとつ、床に落ちているくらいだ。
いつもなら必ず天文台に入り浸っている部長の姿が見えないので、千鳥は首を傾げた。
千鳥は踵を返すと、入ってきたばかりの天文台を抜け出して、ドームの裏に回った。
室内にいないとしたら、あそこだろう。
千鳥は首を大きく曲げて眼を細める。
「折戸谷くん」
「やぁ、千鳥さん」
千鳥に気づいた少年は振り返る。
顔に髪が格子を作り、その隙間から眩しい笑顔のゾートロープが踊った。
「こんなところで、何をしてるんですか?」
そこは、天文台のドームの天井上だった。
つかまれそうな手すりもなく、すぐそこは空。
緩やかとはいえ曲がったドームはあまり足場がよいとはいえないだろう。
少年はドームのヘリに腰かけて、海を眺めながら足をゆらゆら揺らしていた。
良い子は絶対に真似をしてはいけません。
心の中で呟いて、千鳥はため息をつく。
「天文部に誘われた時も、ここにいましたね」
「うん、この学校で一番海がよく見えるからね」
これから夕暮れを迎える海は、昼と夜のちょうど境にいた。
「これ、お届けものです」
おっ、と声をあげて、折戸谷は嬉しそうに身を乗り出した。
「それ、待ってたんだ! ありがとう!」
日誌ひとつにやけに喜ぶ部長である。
千鳥と折戸谷は互いには手をのばして、部日誌を受け渡す。
それから何を思ったのか、折戸谷は本を受けとった右手と反対の左手を伸ばした。
首をかしげる千鳥に、にっこりと微笑む。
「千鳥さんもおいでよ」
「えっ、はい」
千鳥は思わず頷いていた。
どうしてか、彼の言葉はいつも断れない。
「狭いから気を付けて」
点検用なのだろう、簡単な梯子はついていた。
頼りない細い鉄パイプを握りしめ、身体をドームの上に持ち上げると、びょう、と風が強く打ち付けて、髪をさらっていった。
四階建ての校舎の屋上のさらに上、この学校でこれ以上高い場所はない。
足場を確認するように、ゆっくりと片足を着ける。
千鳥は目も眩む高さに、差し出された手をしっかりと握りしめた。
おそるおそる顔を上げると、海の匂いがより鮮明になる。
「ほら、特等席でしょ?」
折戸谷の得意気な顔が、逆光の向こう側から笑う。
遮るものも何もなく、視界いっぱいに広がるのは、太陽が沈む赤い海。
目が痛いくらいの鮮烈な色だった。
「僕ね、ここから見るのが一番好きなんだ。海も空も、両方見えるから」
少年は空を指さし、夕日の中で赤く笑う。
「ほら、この時間の空が、一番たくさんの色がある」
濃紺から始まって、淡い青色、華やかな黄や橙や緑や紫の虹を帯び、雲の重い灰色から真白のコントラスト。そして輝く一番星を泣き黒子にあしらって、艶然と微笑む美女の唇のような細い三日月。
折戸谷は受け取ったばかりの部日誌を、多彩な空に掲げた。
その様子がとても誇らしげで、千鳥は抱えた膝越しに、その顔を眩しそうに見つめた。
「次の観測会、絶対に成功させないと」
今から何を書こうかと、真っ白なページをキラキラした目で見つめている。
「本当に楽しみにしてるんですね」
気の早い部長に苦笑して、ふと視線を落とすと、折戸谷の傍らに古びた一冊の本があるのに気づいた。
それはたった今、届けた部日誌と同じもののように見える。
「……部日誌、もう持っていたんですか?」
今新しいものを届けたばかりなのに、と首をかしげる千鳥に、折戸谷は、ああ、と頷く。
「これは前の代のものだよ。廃部になる前のさ」
見た目は新しい部日誌とほとんど同じだった。
厚手の黒い表紙と白い紙を紐で閉じただけの、簡素な本。しかも、ずいぶんと古い。
「見てもいいですか?」
折戸谷の顔をうかがうと、折戸谷は嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「もちろん」
手に取ると、ざらついた紙が指にひっかかる。
黒い表紙に、美波天文部、と青く滲んだインクで記されていた。
千鳥は古い日誌のページをそっとめくった。
少し黄ばんだ紙に、黒い鉛筆の文字が丁寧に、かつてそこにいた天文部の生徒達の営みを綴っている。
「ずいぶん古いんですね」
日付は十年以上も前のものだった。
「僕がまだこの高校に入る前、たまたま見学に来たとき、この天文台を見つけてさ」
折戸谷は懐かしそうに眼を細める。
「高校はじいちゃんがここに決めたんだ。だから、最初はこの学校に来るの、あんまり乗り気じゃなかったんだよね」
「そうなんですか?」
毎日楽しそうに通ってくる折戸谷を知っているので、千鳥は不思議だった。
「ここは、海が近すぎるからね」
折戸谷の台詞は千鳥には意味がわからないものだったけれど、でも、と続ける少年の顔は晴れやかだ。
「この天文台を見つけて、一気に楽しみになってさ」
閉鎖されていた天文台。
人の気配はなく、長い間放置され忘れられていた。
扉の鍵は壊れていた。
それでこっそりと入ってみたらしい。
折戸谷らしい行動に、千鳥は苦笑する。
中学の制服を着た少年が、錆び付いた鉄の扉をゆっくりと開くと、埃がふわっと舞った。
停止した時間と暗闇の中、ドームの天井から差し込む一条の光をスポットライトのように浴びて、天空を見つめる望遠鏡。
吸い込まれるように望遠鏡の前に立ってそれを見上げた。
壊れているようには見えなかった。
まるで祈りを捧げる神様の像のように、ただ荘厳にそこに佇んでいた。
しばらく立ちすくんでいたが、ふと望遠鏡の下に、本が一冊落ちているのに気づいた。
黒い本はドームと同じように埃をかぶり、誰からも忘れられていた。
「これが、その日誌。廃部になる直前の、僕らの先輩達が遺したものだね」
少年が誰もいないドームの中で、一枚一枚ページをめくると、かつてここで星を見上げた彼らの痕跡が、その静寂の向こうにフラッシュバックする。
「流星が、雨みたいに流れてたんだって」
どこかのページの、流星観測会の記録だった。
のびのびと綴られる文字は楽しげに、夏の夜空を仲間達で一緒に見上げた、その思い出を伝えている。
千鳥は、この天文台に足を踏み入れた少年と同じように、その文字を指でなぞる。
十年も前、自分と同じような少年少女達が見上げた流星群。いったい、どんな空だったのだろう。
「こいつを見つけたから、僕は天文部を復活させようって思ったんだ」
最後のページに、写真が一枚貼ってあった。
みんなそろってカメラに笑顔を向けている。
かなり古い写真だった。
撮影された日付を見ると、やはり十年以上も昔である。
それでも近親感を覚えるのは、同年代で彼らの着ている制服が自分達と同じこと、それに何より、背景に佇む望遠鏡が、今そこにあるものと全く姿が変わらないからだ。
「これって、ずっと昔の天文部の人たちですよね」
「うん。僕らの先輩たち」
この日誌が書かれた当時の部員達の、集合写真だ。
写真はとても古くて、保存状態も良くなかったのか、あちこちにシミが滲んでしまっている。
写真の右隅、フレームアウトギリギリの場所で、身を寄せるように写った女生徒の二人が仲良く手を繋いでいた。
手を繋いだ少女の片方の顔が、ちょうどその汚れで塗りつぶされるように見えなくなってしまっていた。
しかし、彼女が浮かべていたであろう笑顔は、はっきりとわかった。
「これを見てから、僕も星を見たくなったんだ。今度は、僕たちが。あの望遠鏡でさ」
そう言う少年の顔は、本当に楽しみで仕方がないと輝いている。
千鳥は集合写真を見下ろした。誰もが折戸谷のように、楽しげに笑っていた。
千鳥は目を閉じて、彼の言葉をまぶたの裏に思い描いた。それは、とても眩しい光景だった。
海の風が、千鳥の火照った頬を優しく撫でる。
夏の気配はそわそわと千鳥の胸をざわつかせるが、しかし、それはとても心地の良いものだった。
なんとなく、折戸谷がいつも楽しそうにしている理由がわかった気がした。
「……楽しみですね」
「うん!」
力一杯頷く少年に、千鳥も微笑んだ。
その時、ひときわ強い風が屋上に吹いた。
潮風が遮るものもなく、千鳥と折戸谷に叩きつける。
元々糊が落ちかけていたのだろう、貼られた写真が風に煽られて、剥がれ落ちた。
「あっ」
一瞬の出来事だった。
風に乗って写真が空に舞う。
少年少女の笑顔が夕空にひらめいた。
慌てた千鳥は立ち上がり、腕を伸ばす。
しかし、届かない。
千鳥は無意識に床を蹴っていた。
「……ナイスキャッチ!」
折戸谷の歓声が後ろから聞こえた。
指の先がかろうじて、写真の端を掴んでいた。
写真を胸に抱え込み、千鳥はほっと息をつく。
見事に写真の落下を防いだ千鳥に、折戸谷は手を叩いて称賛を送った。
「すごいよ千鳥さん!」
しかし、拍手しながらも、何故か恐る恐るといった様子で、千鳥の顔を覗きこんでくる。
「……てか、えと、それは大丈夫?」
「えっ、なにがでしょうか?」
何故心配されるのかと、キョトンと首をかしげる千鳥。折戸谷は、ちょいちょい、と床を指差した。
千鳥はゆっくりと視線を落として、自分の靴が、半分コンクリートの縁からはみ出しているのを発見する。そこで千鳥はやっと、自分が屋上の縁に片足で立っていることに気づいた。
「っ!」
千鳥の顔がひきつる。
「お、落ち着いて。ゆっくり立てば大丈夫だから!」
折戸谷も腰を浮かせて、慌てて手を伸ばしている。
千鳥は恐怖を無理矢理飲み込むと、写真を胸に抱え込んで、ずるずると座り込んだ。
「び、びっくりしました……」
千鳥は極大の息をついた。
折戸谷も、千鳥がちゃんと座ったのを確認して、ほっとしていた。
「千鳥さんって、反射神経いいんだねー」
「えっ、いえ、そんなことは……」
首を横に振るが、折戸谷はあまり聞いていない。
「いや、ほんとにさっきはすごかったよ! まるで天敵のマグロの補食から逃げたトビウオの跳躍みたいだった! ちなみにトビウオの最大跳躍距離と滑空時間は……」
やや片寄った感想を述べる部長は置いておいて、千鳥は自分が守った写真を見下ろした。
「でも、写真が無事で本当に良かったです。きっともう、これ一枚しかないから」
古い写真だ。デジタルではない現像された写真だったので、ネガすら残っているか不明だ。
この一枚が失われたら、たぶんもう、彼らの笑顔を残したものはなくなるのだろう。
千鳥は写真を日誌に戻そうとして何気なく裏返すと、そこに鉛筆の掠れた文字があることに気づいた。
撮影された日付と、観測の内容、それから最後に、不思議な言葉の羅列。
「スズキくん、アユちゃん、鯛のお頭、オジサン、フグ田……なんだこりゃ」
横から、折戸谷も写真の走り書きを覗き込む。
「一応、どれも魚の名前みたいだけど……」
単語としては、地方呼びも含めて確かに魚の名前のようである。
「今まで気づかなかったな」
「なんで写真の裏に魚の名前が?」
あ、と折戸谷が手を打った。
「もしかして、みんなのあだ名とかじゃないかな」
なるほど、確かに名前の数と写真に写った生徒の数は同じだ。
千鳥は名前の最後に視線を走らせる。
「じゃ、この子は〈クラゲちゃん〉なんですね」
順番的に、顔のわからない女の子の名前だ。
折戸谷は、また風に飛ばされないように、しっかりと写真を日誌に挟む。
ふいに、写真にポツリと染みが浮かんだ。
見上げれば、いつのまにか雨雲が頭上に迫っている。みるみる夕焼けの赤を飲み込んで、黒い雲が空を覆っていく。
夏の空は移ろいやすい。
雨粒が、ひとつ、ひとつと地面に落ち始めた。
「お、雨だ」
そういえば、台風が近づいていると天気予報が告げていた。雲が重さを増していく。嵐の前の、濃い水の気配がする。いつのまにか月の姿も隠れていた。
さすがに戻ろうと立ち上がった千鳥は、空を見上げる折戸谷に顔を向ける。
「濡れちゃいますよ?」
「うん、そうだね」
折戸谷は手のひらを空にかざした。
「雨、好きなんだ」
雨粒が頬を叩く。雨のリズムの中、彼は千鳥の知らない歌を口ずさんだ。
「どうして空から水が落ちてくるんだろうねぇ」
雨にも笑う折戸谷は、いつも楽しそうだ。
バイトをしていても、雨が降っても、海をただ眺めているだけでも。
千鳥は不思議な気持ちになる。
折戸谷の見ているものと、自分の見ているものは果たして同じだろうかと。
最初は小さかった雨粒が、次第に大きさを増して地面に叩きつけ始めた。本降りになるのだろう。
「折戸谷君は、きれいなものをたくさん知っているんですね」
千鳥の呟きは雨音よりも小さくて、本人の耳には届かなかったようだ。
さすがにこれ以上は濡れてしまうので、折戸谷も日誌を抱えて立ち上がる。
「さて、そろそろ戻らないと」
「そうですね」
千鳥はドームから降りようとして、ふいに校舎の脇に寄り添うようにしてひっそりと佇む、古い建物が視界に入った。
雨の中じっと目を凝らすと、その四角い形の建物か何か理解する。
「ここからだと、旧プールが見えるんですね」
「あ、そうなんだ。今まで気づかなかったな」
長方形の箱が、千鳥たちに向かってぽっかりと口を開けていた。
「戻ろうか」
雨足は強まるばかり。
雨が降ると、海の匂いが濃くなる。
雨と共に近づいてくる海の気配から逃げるように、千鳥は旧プールに背を向けた。
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