幽霊部員

 星のように輝く尾を揺らして

 淡く虹色の輪郭に縁取られて

 泡が宝石のように輝いて

 人魚が泳いでくる

 沈んでいく私の手を人魚がつかむ

 目前には少年の顔


 ああ、やっぱり彼は人魚だった




 ぼんやりと滲む視界がじわじわと焦点を結ぶ。

 最初に認識したのは、心配そうな少年の顔だった。

「良かった、目をさま」

「ちーちゃん!」

 ミホの半泣きの顔が、やっとはっきりしてきた視界に、勢いよく割り込んでくる。

 少年は言いかけの台詞と共に押し出され、勢い余ってプールサイドに倒れたのまでは、ちらりと見えた。

「……えっと」

 制服はすっかりとずぶ濡れ。

 髪からもポタポタと水が滴っている。

 くらくらする頭に手をついて、千鳥はようやく自分がプールに落ちたのだと思い出した。

「ちーちゃん、生きてる? 息してる!?」

 ミホはよほど心配したのか、千鳥をぎゅっと抱きしめた。

 その暖かさで、千鳥は自分が冷えきっている事を実感する。

 ミホのつけている香水だろうか、甘い香りが優しく千鳥の心を落ち着かせてくれた。

「私は大丈夫です。ごめんなさい。心配……かけてしまったんですね」

 まだ知り合って短い付き合いだが、この体温を懐かしく思うのは何故だろう。

 千鳥は水の匂いを嗅ぎながら、ほうと息をついた。

 夢を見ていた気がする。

 目を覚ました瞬間に忘れてしまったが、不思議な、そしてどこか懐かしい夢だったように思う。

「大丈夫か?」

 折戸谷とは違う少年の声に、千鳥は顔を上げた。

 星はなくただ月だけが浮かぶ夜、月の色と同じ白い顔が、ぼんやりと浮かび上がる。

 彼は自分と同じようにずぶ濡れだった。

 水着とパーカーをひっかけただけの姿だったので、しなやかに伸びた手足や、ほどよく筋肉のついた上半身があらわになっていた。

 濡れた黒髪が首筋に張り付いて、肌の白さが浮き上がる。

 裸足のくるぶしの辺りに、赤いあざがやけにくっきりと目に映った。

 花のようにも見えるその形に、何か見覚えがあったのだが、思い出すことは出来なかった。

 彼は千鳥と抱きついているミホを見守るように、プールサイドにしゃがみこんでいた。

 瞳の黒が夜の空よりもなお暗く、千鳥を覗き込んでいる。

 千鳥はその少年の顔に見覚えがあった。

「水族館の……」

 目を瞬かせながら、少年に視線を合わせる。

 それはついこの間、折戸谷にひっぱっていかれたバイト先、水族館での小さな出来事。

 迷子と一緒に、骨の鯨の前で出会った少年だった。

「また、会ったな」

 少年の方も千鳥を覚えていたらしく、薄い唇の端を持ち上げて微かに笑う。

「……弟さんは、お元気ですか?」

「ああ、あの時は世話になったな」

「あれ、知り合い?」

 ミホに飛ばされた折戸谷が戻ってきて、見つめ合った千鳥と少年の間に割って入る。

「ちょっとな」

 はぐらかすように肩をすくめる少年。

 折戸谷はいたずらに失敗した子どものように、むう、と唇を尖らせる。

「なんだよ、僕が知らない間に仲良くなったのかよ。せっかく驚かそうと思ったのに」

「いえ、充分驚いていますけど」

 ずぶ濡れでプールサイドにへたり込んでいる千鳥は、半眼になって呟いた。

「ほら」

「あ、ありがとうございます」

 少年が乾いたタオルを貸してくれて、千鳥はとりあえず顔の水をぬぐう。

「なんか色々と予定外だけど。まぁ、これでやっと最後の部員が紹介できるね」

 千鳥が落ち着いた頃を見計らって、折戸谷は少年の肩に手を置いた。

「こいつが天文部の最後の一人、幽霊部員の深海君だ」

 少年は濡れたままの手を千鳥にさし出した。

「幽霊部員の深海だ。よろしく」

「はぁ、幽霊さんですか。よろしくお願いいたします」

 ずれた返事を返しつつ握り返した手は、まるで本当の幽霊のように、ひんやりと冷たかった。

「こいつ、となりのクラスなんだけど、授業サボりまくってるからなかなか捕まんなくてさ。プールが一番遭遇率が高いのさ」

 しかしわざわざこんな夜に、と疑問が顔に出ていたのだろう。先回りして深海少年は答える。

「夜のプールが好きなんだよ。深海みたいでさ」

 肩をすくめ、プールを指差す。

「でも無許可だから、見つかったら不味くてね。誰か入ってきたんで、とっさにプールの中に隠れてた」

 しかし、どうも教師ではないし、息も続かなくなってきたので、上がってきたとのこと。

 運悪く、千鳥はその姿を目撃し、驚いてプールに落ちてしまったのだ。

「まったく人騒がせだよ、もう」

 折戸谷は深海を軽く睨む。

「今日の夜間見回り担当は小牧じいさんだろ。年だし腰が悪くてほとんど当直室で寝てるから、チャンスだと思ったんだけどな」

 かなりの計画犯のようである。

「悪かったとは思ってるよ」

 折戸谷はバンバンと深海の肩を叩いた。

「ちょっと変わり者だけど、悪いやつじゃないから」

「あんたにだけは言われたくないわね」

 ミホはかいがいしく千鳥の髪から水を拭き取りつつ、折戸谷を軽く睨む。

「もー、やっぱりあんたの口車になんて、乗らなきゃよかった」

「いえ、私がどんくさかったからで」

 深海は立ち上がると、何かを気にするように首を巡らせた。

「千鳥が大丈夫そうなら、そろそろ移動しよう。じゃないと……」

 深海が校舎のほうに視線をやった時だった。

「そこ、誰かいるの!?」

 懐中電灯の強烈な光が目を刺して、千鳥は顔をしかめた。

「げっ、見つかった!」

 見回りの教師に気づかれたようだ。

 慌てふためく折戸谷は、映画でスパイが見つかったシーンよろしく顔を隠した。

 千鳥達がわたわたしていると、プールサイドに顔を出した女性教師は、眉間にシワを寄せた。

「あなた達、天文部のメンバーね。まったく、星も見ずになにやってるのよ」

「あれ、アヤノちゃんがなんで見回りしてるの?」

 アヤノちゃんこと彩野教諭は、プールサイドの面々を見回して頭を抱えた。比較的若い先生で、生徒達からはお姉さんのような扱いを受ける女性だった。

「深夜に無許可で学校に忍び込んだあげく、プールで泳ぐなんて。ほんと青春してるわよね、あなたたち」

「いやぁ、それほどでも」

 折戸谷が照れたように頭をかく。

 ほめてはいないと思います、と、千鳥は心の中で呟いた。

「ところで、とある筋からの情報だと、今日は小牧じいさんの宿直のはずなんだけど」

 どこから仕入れた情報よ、と彩野教諭のこめかみのシワが増える。

「深夜見回りの強化をしてるのよ。ここ数日、深夜に無断で学校に忍び込む子が増えちゃって」

 それは、学校で囁かれているとあるウワサが原因だらしい。

「あなた達も聞いたことがあるでしょう。旧プールの怪談のこと」

 ついさっき聞いたばかりだ。千鳥は目を丸くした。

 彩野教諭は、愚痴混じりの説明をしてくれた。

 いわく、

「プールで足を引っ張られた」

 いわく、

「人のいないプールで水音がする」

 いわく、

「プールで人が消えた」

 実際にあった出来事としては、よくあるプールの事故のひとつだろう。

 ただそれは、学校という箱の中に閉じ込められ、退屈した少年少女達には、プールの授業中に生徒が溺れたという事実ではなく、何か謎めいた怪奇事件の影のように扱われる。

「プールで事故があってから、この旧プールがウワサになったらしいのよね。単に水泳部から要望があって、大会までの強化合宿に使うために急遽水をいれただけなのに」

「え、そうなの?」

 あからさまにガッカリした顔をする折戸谷に、彩野教諭は呆れた目を向ける。

「おかげで肝試しで夜中に学校に忍び込むのが流行っちゃってね。あなた達で三件目ね」

 肝試しではなく、部員探しだったのだが。

 彩野教諭はため息をついて眼鏡の縁を押し上げた。

「部の復活早々、問題を起こして。申請していた深夜活動許可を取り下げるわよ」

「そっ、それだけはご勘弁を!」

 折戸谷が彩野先生の脅しにひどく慌てた。

「深夜申請?」

 他の部員、千鳥はともかくミホも知らないらしく、首をかしげている。

 部長は叱られているのに、どんと胸を張った。

「美波天文部の夏の恒例行事、学校泊まり込みの流星群観測会のことさ!」

「まだ望遠鏡も直ってないのに?」

 ミホが冷たく指摘する。

「恒例って、そもそもこの部で天体観測をしたことなんて、あったか?」

 深海の言葉に、そういえば入部してから一度も天体観測をしていない事実に気付き、千鳥は別の意味で驚いた。

「違う! 廃部になる前からの伝統なの!」

 部長はそろって首をかしげる部員達に、必死に訴える。

「この時期だと、ペルセウス流星群だな」

 深海が呟く。

 そう、それと、部長はキラキラした目で語りだした。

「三大流星群のひとつでね。カシオペアの近く、ペルセウス座の付近で観測できる流星群でさ。数も多くて観測しやすいんで、初心者向きなんだ。この遮るものが何もないド田舎なら、街の明かりで星が見えないとかそんな都会問題も関係ないし、流星群は肉眼で観察できるから特別な道具も必要ないし、この超貧乏部にはうってつけのイベントなんだよね!」

 自分で貧乏部って言っちゃうんだ、と、千鳥は心の中で呟いた。

「はいはい、楽しみなのはわかったけど、反省しないと許可取り消すからね」

 先生はすぐ調子に乗る部長に釘を刺す。

 それからまあまあの長さのお説教のあと、天文部の活動の延長だとか折戸谷が弁舌を繰り広げ、保護者連絡の脅しをなんとか回避し、やっと解放された時には本当に夜も過ぎていた。

「あーあ、怒られちゃった」

 くたびれた顔でぞろぞろ歩く千鳥達だったが、一人、元気を失わない者がいた。

 部長は部員達に向き直り、堂々と宣言する。

「と、いうわけで。天文部、夏の最大イベントであるペルセウス流星群観測会、復活の時がきた!」

 さっき叱られたばかりだというのに、すでに次のイベントに向けてキラキラ輝いている部長だ。

「えー、やっぱりやるのー」

「あきらめてなかったのか」

 そしてテンション高めの部長に反比例した部員達は、そろって顔をしかめた。

 抗議を無視し、折戸谷は上機嫌に続ける。

「来週からは夏休みだし、これは天文部正式稼働からの初イベントになる。だから部員は全員必ず参加すること!」 

「えー」

「文句言うな! 絶対参加だからな。部長命令だからな。来なかったら泣くからな!」

「はいはい」

「しょうがないな」

 そんなこんなで、幽霊部員探しは騒がしく終了した。そして次の観測会は、きっと今日以上に騒がしくなるだろう予感を感じずにはいられない千鳥だった。

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