〈観察者Mと生物M〉新しい水槽で
気の早い夏が颯爽と訪れ、清々しい朝の一時限目。
よく晴れたその日は、絶好のプール日和だった。
「ストレッチは念入りにね」
体育教師の声がプールサイドに響く。
タイル張りの床に並んだ水着姿の生徒達は、誰もがウキウキしている様子だった。授業といえども、プールというものは何故か楽しげな存在なのだ。
「さきにいくよー」
「……うん」
のそのそと膝を曲げ伸ばしするふりをしていた少女は、横を通りすぎる友人達に曖昧に返事を返した。
少女は暗い表情を、太陽を反射して眩しすぎるプールと、それに負けない友人達の輝く笑顔に向けた。
みんな自分を置き去りにして、楽しげに水に飛び込んでいる。もう、残っているのは自分だけだ。
少女は一人で佇むプールサイドにて、重く冷えた息をついた。
彼女はプールが好きではない。
泳げないわけではない。水が苦手というわけでもなく、海水浴なども楽しいと思う。
だが、この水が満たされた四角い箱という存在が、どうにも苦手なのである。
幼児の頃、市民プールで溺れて以来のことだ。
近所の子ども達が集まる地域の解放プールで、十数人も入ればいっぱいになってしまうような、小さなプールだった。
まだ幼かった自分は、親の目を離れたふとした瞬間、足を滑らせてしまったのだ。
手を繋いでいた弟を巻き込まなかったことだけは、不幸中の幸いだったと思う。
幼かった彼女は、不意に水に落ちたショックで身体が硬直してしまい、助けを呼ぶこともできなかった。
のっぺりとした壁に囲まれた箱の中、ただ重く水の底に沈んでいくあの静けさ。
プールの底を見ながらうつ伏せに沈んだせいか、囲まれた白い壁がやけに印象に残っている。
そして小さな身体を満たした感情は、身体が動かない恐怖でも、呼吸ができない恐怖でもなかった。
箱に閉じ込められる。
水底に沈んでいく自分を、どうしてかそう思った。
そしてそれがひたすらに怖かった。
当時もすぐに助けられたので大事には至らなかったし、今は幼児だったあの頃とは違い、プールの底に足もつくのだから、絶対に溺れることはないと頭ではわかっている。
しかし少女の心にべっとりと張り付いた冷えた記憶は、普段は忘れられていても、ふとした瞬間、泡のように浮かびあがってまとわりついてくる。
それから、夏の楽しみのひとつであったはずの存在は、恐怖の代名詞に成り下がったのである。
とはいえ、今は体育の授業。
健康で泳げないわけでもなく、かつ真面目な性格であった彼女は、授業を欠席することもできず、嫌な気持ちをずるずると引きずったまま、このプール開きを迎えていた。
少女は覚悟を決めて、ゆっくりとつま先からプールに滑り込む。
ひんやりとした冷気が指から背中を這い上がり、同時に、溺れた時に見た光景がフラッシュバックする。
あの時はパニックになっていたから、記憶は正確でもないだろう。
しかも繰り返して思い出すことで、より記憶は黒く硬く固まっていく。
視界が反転して体に水が打つ衝撃。
水の重さに押し付けられて、近付いてくる暗い底。
ぶるりと身を震わせる。
思い出してはいけない。
少女は記憶を追い払うように、頭を振った。
しかしいくら追い出そうとしても、栓が外れたみたいに、記憶の泡はどんどん溢れてくる。
水に揺らぐ白い壁。
排水溝の隙間から、泡が猛烈な勢いで溢れていた。
もしかしたら、水が逆流していたのかもしれない。
その泡の中に、何か、赤いものが……
唐突に思い出して、少女は首をかしげた。
そういえば、沈んだ瞬間、プールの底に何かを見た気がする。
落とし物でもあったのだろうか。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
友人が自分の名を呼ぶ声に、はっと我にかえる。
脳の中で溺れていた思考の渦から、プールサイドの喧騒が耳に戻ってくる。
「じゃあ、まずはクロールから。壁際に並んで、順番にスタートして……」
教師の指示で、生徒達は一列になって泳いでいく。
まごついていたので、自分が最後尾である。
ついに順番になり、少女は覚悟を込めて強く壁を蹴って、ぐいと泳ぎ始めた。
溺れた恐怖から、充分に練習しているのでむしろ水泳は得意である。
緊張しつつも泳ぎ始めた少女は、順調にプールを進んでいた。
しかし、ちょうど真ん中辺りまで来たとき、少女は足に違和感を覚えた。
最初は、足がつったのだと思った。
「うそ、ちゃんと柔軟やったのに!」
青ざめつつ、必死に気持ちを落ち着けようとする。
まずはプールの底に足をつけようと、水中から自分の足を見た。
「……ひっ」
少女は水の中で悲鳴を上げた。
何かが、プールの底からこちらを見ている。
そんなわけない、少女はパニックを起こしかけた頭で、必死に否定する。
酸欠の脳で、水泡の向こうに見たものは、自分のトラウマが見せた幻だと言い聞かせる。
しかし、なぜ足が動かないのだろう。
まるで重りで縛り付けられたかのように、体が水中に引っ張られる。
カルキ臭い水を引っ掻いて、少女は水面に向かって手を伸ばした。
何とか顔だけ水面に出たが、しかし、口を開ければ水が容赦なく入ってくる。
そう、あの時もこうだった。
プールの底に、何かいた。
二つの目玉が、こちらを見ていた。
そうだ、私はプールが怖いんじゃない。
もう一度、プールであれに出会ってしまうことが、恐ろしくて仕方がなかったのだ。
水に満たされた箱の中には、あれが潜んでいる。
記憶の中に押し込めた、あの暗闇に光る赤い目玉が、箱の底からじっと自分を見ていた。
「 !」
声は泡となって弾けて消える。
深くもないプールが、まるで底なしの穴のよう。
赤い視線がまるで触手のように身体に絡み付いて、少女の体を暗い水底へと誘っていく。
「……?」
友人の声が聞こえた気がして、少女は振り返った。
泳ぎきった生徒は、次々に水から上がっている。
自分は、最後から二番目に泳ぎ始めた。
最後尾だった友人が、後からついて来るはずだ。
プールが苦手だと言っていた子だ。
子どもの頃に溺れたそうだ。
無理はしなくてもいいんじゃないのと、さっき授業が始まる前に話したばかりだ。
苦手だから克服したいとも言っていたので、少女は多少心配しつつ、今年最初の授業は始まった。
やはり苦手なようで、プールに入るのをまごついている間に、泳ぐ順番が最後になってしまった友人。
少女は首をかしげた。
そこにあるはずの友人の姿がない。
ただ、泡がぷくぷくと、いくつか水面に浮いているだけだった。
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