笑う鯨

 そこは灰色の海の底だった。

 細かな粒の砂がなだらかな丘を作って、はるか遠くまで続いている。

 その場でただゆらゆらと漂っていられるのは、水に流れがないからだ。重い水が錘となって、私の体を海底へと押し付ける。

 私は仰向けで、水面を見上げた。

 水面は遠く、光は見えない。

 けれど視界はやけにはっきりとしていて、波のひだや水中に漂う微生物達の姿さえも、はっきりと認識できた。

 プランクトン達は海に身を委ねて流れ、地を這う貝やウミウシ達が気泡を吐く。

 さむいなぁ、とぼんやりする頭で考えた。

 息はできないはずなのに、肺に水が満たされても苦しくはなかった。

 海と自分との境界が曖昧だ。

 自分という輪郭がぼやけて、海とじわじわ混じっていく。

 不思議だった。

 まるで自分はもとから海で生まれた生物であるかのような錯覚。

 マリンスノウが舞っていた。

 初めて見る光景のはずなのに、長らく遠ざかっていたふるさとに戻ってきたような、漠然とした懐かしさがある。

 いったいどれくらいの間、そうやって漂っていたのだろう。

 海と自分の境界がなくなって、海の一部になるくらいには、私はそこにいたのだと思う。


 突然、海の底が動いた。

 私の上を、黒い影が覆う。

 まだ、私は海に溶けきってはいない。

 私は私のまま、それを見上げた。

 巨大な魚の形をした影だった。

 ゆっくりと北からやって来たそれは、南に向かってまっすぐに進んでいる。

 一匹の鯨だった。

 優雅な尾で水を蹴って、前へ前へと進んでいる。

 私はそれが自分の上を通り過ぎる間、じっくりと頭から尾の先まで観察した。

 グレープフルーツほどもある大きな黒い目、出っ張った額に、流線型の体、尾には花のような形のあざがあった。

 最後に鯨が通りすぎる直前、見上げる自分と海をゆく鯨の視線が交差する。

 鯨が笑った、と私は思った。




「はい、到着!」

 まんまるい月がそっと顔を覗かせて、そろそろ自分の時間かと窺っている。

 海の風が強く吹き込むこの場所は、校舎の隅の隅という陰鬱さも手伝って、夏だというのに肌寒く感じる。千鳥はむき出しの腕を軽く擦った。

 すでに部活の時間も終わり、ほとんどの生徒が帰宅していた。

 あたりはうす暗い。単に夕刻という理由だけではなく、この場所そのものが、誰も知らない、日の当たらない隅に押し込められている。

「こんなところ、初めて来ました」

 千鳥は仁王立ちの折戸谷の横に並んで、目の前の壁を見上げた。一歩下がった後ろには、ミホが髪の毛をいじっている。

 水色に塗られたコンクリートの壁を、ぐるりとフェンスが囲んでいた。壁は高くはないが、ここからだと中を窺い知ることはできない。

 あたりは静かだ。

 遠くの海の波音すらも聞こえるほど。

 千鳥は首をかしげた。

 ツンと鼻につく薬品のような匂いがして、コンクリートの向こう側に目を凝らす。

 遠くで、ピシャンと水音が跳ねたような気がした。

「ここに何か……」

 説明を求めて隣の部長を振り返り、千鳥は目を丸くする。

「……あの、何をしているんですか?」

 ちょうど折戸谷が、壁をよじ登るためにフェンスに足をかけたところだった。

「ほら、千鳥さんも早くー」

 フェンスをよじ登りながら、折戸谷は千鳥を手招きする。

 助けを求めるようにミホを見るが、ため息をついた彼女までも、フェンスに手をかけていた。

「もー、スカート汚れちゃうじゃん」

 ぶつぶつ言いながらも、身軽にフェンスを登っていく。

 呆気にとられる千鳥を置いて、折戸谷とミホはフェンスを越え、あっという間に壁の向こう側にたどり着いている。

 その慣れた様子は、彼らが初犯でないことを物語っていた。

 壁の向こうから頭だけ飛び出した折戸谷が、千鳥に笑顔を向ける。

「ほら、そんなに高くないから!」

 いや、気にしているのはそこではない。

 千鳥はおずおずと尋ねる。

「あの、一応学校の施設なのですよね。無断で入って大丈夫なんですか?」

「バレなければ大丈夫だよ!」

 折戸谷はグッと親指を立てて、力強く頷いた。

 それはつまり、見つかったらアウトという事で。

 しかし、千鳥待ちの折戸谷は、待てをしている子犬を彷彿とさせる。

「ちーちゃん、あきらめてー。ちょっと付き合えば満足するからさー」

 ミホの言葉に千鳥はため息をつくと、あきらめの表情を浮かべてフェンスに手を掛けた。

 さほど高くないフェンスは、確かに千鳥でも簡単に越えることが出来た。

 千鳥はそっと、スニーカーの底を濡れた青いタイル張りの床に着ける。

 コンクリートの内側はわりと広い空間で、天井はなく、無機質なタイルが敷き詰められた床が広がっている。そこに横たわる大きな四角い箱には、黒々とした水で満たされていた。

「……こんなところにプールがあるなんて、知りませんでした」

 千鳥は夜に沈んだプールに目を瞬かせる。

 折戸谷は腕を組んで訳知り顔だ。

「そう。何を隠そう、こここそが、美波校七不思議の舞台。『誰からも忘れ去られた旧プール』なんだよ!」

「……七不思議? 旧プール?」

 千鳥は首を傾げた。

「あれ、知らないの?!」

 驚いた顔をする折戸谷に、千鳥は首を縦にふる。

「そっか。じゃあ、そこから要説明だね!」

「いえ、折戸谷君の今の台詞でなんとなくわかったので説明は不要です。どちらかというと、なぜ、怪談の旧プールに来たかということが知りたいのですが」

 プールなんて天文部とは縁もゆかりもない場所だ。

 それにさっきまでしていたのは、もう一人の幽霊部員の話題。

 ここに来た理由が本当にわからない。

 突然肝試しでもしたくなったのだろうか?

 困惑する千鳥を横に、折戸谷は饒舌に七不思議について語っている。

「大抵の学校がそうあるように我が美波校にももれなく学校の怪談というものが存在するんだけど、ここはその三番目、旧プールの怪談の舞台でね。プールで溺れた生徒の無念が幽霊となって」

 本当に全員から忘れられていたら、誰もここにはたどり着けないと思うが、それは怪談の形式美なので突っ込みは無粋だ。

 確かに授業で使うプールはここではないし、旧、という通りコンクリートは剥げて古びている。

「使っていないのに、水が入ってるんですね」

 怪談はともかくとして、未使用の施設のようには見えなかった。

 放置されて雨水が溜まったのでもないだろう。

 真新しいカルキの匂いもするし、プールサイドにはごみも溜まっていない。

 明日からでもすぐに授業が始められそうだ。

「真夜中十二時、プールの水面に満月が映ると、そこから赤い手がのびてきて、生徒を引きずり込んでいくと言われていてね。ある年、それを確かめようとした生徒がいたんだけど」

 さすがに照明はついていないので、プールサイドはかなり暗かった。

 シャワーもベンチも、闇に溶け込むようにひっそりと佇んでいる。

 ミホがぼんやりプールを眺める千鳥に声をかけた。

「ちーちゃんって、怪談とか大丈夫な人?」

「はぁ、あんまり気にしたことはないです」

 水面に月が映り込んでいた。

 そういえば、今日は満月だった。

「さてと、部長は放置でよくて」

 ミホはキョロキョロとあたりを見渡していた。

 部長そっちのけで、何かを探しているようだ。

「あれ、いると思ったんだけどなー?」

 首を傾げている。

 静かなプールサイドには、千鳥と折戸谷、ミホの他に誰もいない。

 プールには屋外時計が設置されていた。

 時計は壊れているのだろうか、そんなに遅い時間ではないはずなのに、時計の針はぴったり十二時を指している。

 千鳥は、怪談話を聞いたからか、ふらりとプールの中を覗き込んだ。

 水面に落ちた月が、ゆらゆらと千鳥を誘っているようだった。

 赤い、大きな満月だった。

「てゆーエピソードがあって、そこからこの旧プールが七不思議に加わったというわけで……あれ、千鳥さん?」

 後ろで、折戸谷の声が聞こえた気がするが、遠くから響くそれは千鳥の意識まで届かない。

 千鳥は月に向かって手を伸ばした。

 水面に自分の顔が映っている。

 虚像の手と、自分の手が触れる。


 腕が、水から生えていた。

 赤い月に、白い腕が赤く染まる。


 ずるりと靴が滑る。

 浮遊感と、水の音。

 気づいた時には、千鳥は水の中に落ちていた。

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