噂の話

 かしゃ

 かしゃ

 薄暗い部屋の壁に、ぼんやり淡く発光する生物群が、一定間隔で現れては消えていく。

 骨董品のスライド式プロジェクターから写し出される写真はピントがあっていないのか、単に性能が悪いのか、非鮮明なうえ少し歪んでいる。

 曖昧な輪郭のそれらは、さして珍しくもない種のはずなのに、まるで未知の生物のように見えた。

「では、教科書✕✕ページを開いて……」

 淡々とした教師の声を聞き流しながら、千鳥は目を細める。

 プロジェクターを使用するために閉じられたカーテンが、夏の突風にバサリとはためいた。

 窓の隙間から外の強い光が割り込むと、一瞬だけ青く視界が塗りつぶされる。

 ひるがえったカーテンの向こうには、遠くの海と高い空。

 この学校は、どこにいても海が見える。

「……過酷な自然界に生きる動物達は、生存戦略としてさまざまな能力を有しており、中でも擬態と呼ばれる能力は……」

 生物の授業だった。

 それも午後一番の、最も眠気が強くなる時間の。

 教師の声は悪魔の子守唄のように、魅惑的な魔力で生徒達を居眠りの誘惑に誘う。

 千鳥の所属するこの県立美波高等学校は、成績は常に中の下、変に荒れることもない代わりに脚光を浴びることもない、ただ穏やかで退屈な学校だった。

 この学校の成績がいまいちなのは、自分達の怠惰ではなく、海がそこにあるからだというのが生徒達の主張である。

 この雄大な水平線を見ていると、テストのわずか一点の差に気を揉むことのむなしさに気づいてしまうからだとか。

 授業に身が入らないことを海のせいにして、生徒達は居眠りの大海原で船を漕いでいる。

「皆さんは、ミミックという生物について、聞いたことはあるでしょうか?」

 生物教師の言葉に、千鳥の沈没しかけていた意識は泡のように浮上する。

 プロジェクターから映し出されている映像は、多種多様な生物達だった。

 昆虫や爬虫類、魚類……、一見して統一性はない。

「擬態する生物の中で、最も有名な生物がミミックですね。人類が初めて遭遇したミミックは、今からおおよそ……」

 スライドには、人間のような姿が写し出されていた。ぼんやりと白く滲んだその姿は、どこか幽霊のようにも見える。

「……ミミックは、その生態のほとんどが解明されておらず、謎が多く残っている状態です。彼らの擬態能力の高さゆえに発見が遅れることと、絶対数の少なさが主な原因で……」

 教師の言葉と教科書の記述は一言一句同じだ。

 よくわからないということだけがわかる。

 それらしく言葉を飾っているが、情報の質はうわさばなしと大差ない。

「……ねえ、プールの事故のこと、聞いた?」

 教師の単調な声の隙間をすり抜けて、後ろの席からヒソヒソと小さな声が聞こえてきた。

 なにしろ退屈な授業だ。

 隣の席の友人と、こっそりおしゃべりしたくなっても無理はない。

 少女達の楽しげな囁きは、夏と海の気配の濃い風に乗って密やかに流れてくる。

「ほら、昨日プール開きだったでしょ。最初の授業だった隣のクラスの子が、授業中に溺れたんだって」

「そういえば、先生が言ってたね。念のために他のクラスのプールの授業、中止したって」

 話題は、平和な学校で起こった、小さな事件についてだった。

 それ単体でなら、事故といえども平凡だろう。

 しかしそういったものには、噂という見えない糸が絡みつきやすい。

「あれね、実はミミックの仕業なんだって」

「この学校にミミックがいるってこと?」

 少女の言葉に、友人は訝しげな反応を返している。

 話題をふった少女は、とてつもなく重要な情報を仕入れたと言いたそうな顔をしていた。

「隣のクラスの子が職員室で聞いたらしいよ」

「ホントに?」

「人間にまぎれこんでるんだから、学校にいてもおかしくないじゃん」

 少女達は、先ほどから教師がおしゃべりに夢中な彼女らに、チラチラ視線を向けていることに気づいていないようだ。

「人間と外見は変わらないんでしょ?」

「角とかしっぽとか、隠しているのかな」

「あたしのお姉ちゃんの友達のいとこが、見たことあるって」

 授業そっちのけで、空想を膨らませている。

 ミミックという存在は、学校の授業で名前が取り上げられるくらいには知っているが、しかし結局、教科書に記されたこと以上を知らないのである。

 だから、噂の内容が真実とはかけ離れていてもどんなに歪んでいても、誰も気づけない。

 そうであればいいのにな、という願望を含むから、噂は面白いのだ。

「そういえば、ミミックっていえばさ」

 少女は無邪気に、さも優れた思いつきだとばかりに口を開いた。

「    ってミミックっぽくない?」

 無邪気に笑う少女たち。

 そこに悪意はない。

「ごほん」

 おしゃべりは夢中になると、ついつい音量がボリュームアップしがちだ。

 ついに教師がわざとらしく咳をしながら、彼女らの前に立った。

「あんまり噂に振り回されないようにね」

 少女達はばつが悪そうに顔をうつ向けた。

 それ以降は、特にこれといった盛り上がりもなく、授業はそうして平和にただ流れていった。

 終了のチャイムが鳴るのと同時に、千鳥は深く息を吐いた。

「ミミックなんて、本当にいるのかねぇ」

 突然隣からかけられた声に、千鳥は肩を震わせる。

 ぎこちなく振り向くとそこには、にこにこ笑顔の折戸谷の顔があった。

「……さあ。私は見たこともありませんし……」

 千鳥は曖昧に頷いた。

「そうだよねぇ。逆にうわさばなしならたくさん聞くけどね。嘘っぽいのばっかりだけどね」

 千鳥はそうですね、と頷いて顔をうつ向ける。

 折戸谷は、千鳥の顔を覗き込んだ。

「……ウワサなんて流行り風邪みたいなものだよ。いつの間にか広がって、少しみんなの熱が上がっても、いつの間にか消えてるのさ。だから、気にしたり本気で悩んだりしてもしょうがないさ」

 折戸谷はそんなことを呟いて、肩を竦めた。

 千鳥は不思議そうに目を瞬かせる。

「……折戸谷君、もしかして励ましてくれたんですか?」

「うん? 何が?」

「…………いえ、やっぱりなんでもないです」

 千鳥は首を振って、少年の顔から視線をそらした。

「いやぁ、それにしても席替えでまさかのおとなりとは、もうこれは運命だよね!」

「はぁ」

 千鳥は曖昧に頷いた。

 悪縁、という言葉がつい脳裏に浮かんだが、千鳥はもう自分がその悪縁から逃れられないという事実を思い出していた。

「ところで、今日だけど、忘れてないよね?」

「ええ、まぁ、はい……」

 千鳥のテンションの低い返事にも、折戸谷の明るい声は揺るがない。

 千鳥は放課後、テンションがますます上がる少年に引きずられるようにして、屋上の灰色のドームの中にいた。

「千鳥さん、正式入部、おめでとう!」

 相変わらず、子どもの秘密基地みたいな部屋だった。星や星に関係のないものまで、雑多に詰め込まれたおもちゃ箱みたいな場所。

『ようこそ美波天文部へ!』の手作り垂れ幕の下、念願の新入部員の確保に成功した部長は、歓喜にむせび泣いている。

「これで首がつながったぁーっ!」

 一人で万歳三唱している折戸谷は、千鳥の手を握りしめて上下に振りまくる。

 大袈裟な、と思ったが、こっそりとミホが耳うちしてくれたところによると、天文部は美波高部活のブラックリスト入りしていて、誰も入りたがらないとか。

 折戸谷が無理に勧誘しては短期間で辞めてしまう上、主な活動内容がバイトでは納得だ。

「バイトしかしてないのに入部してくれるなんて、ちーちゃんてば変わり者ねー」

 ミホは呆れたような顔をする。

「自分でもそう思います」

 千鳥は渡されたパーティー仕様の派手な三角帽子を見下ろした。

「それ、捨てていいからね」

 隣でスナック菓子をかじっているミホは、はしゃぐ部長を呆れたように眺めている。

「他の部活に入る予定もなかったですから」

 そう言うと、ミホは辞めたくなったらいつでも遠慮なく言うのよ、と、真面目な顔で千鳥に言った。

 千鳥は乾杯にもらったオレンジジュースを飲みながら、狭い天文台の中を見渡す。

 ぬいぐるみだらけのソファに、造りかけのミニチュアに、年代物のラジオ、壁に張ったポスターや写真、壊れた望遠鏡、そして先輩部員が2名。内約はやる気の部長1名に、やる気なしの部員が1名。

「……そういえば、これで部員は全員なんですか?」

 千鳥はふと疑問に思って、部長に尋ねてみた。

 部活は三人以上いないと活動できないはずである。

 しかし天文部で顔を合わせたのはこの二人だけだ。

「いや、あと一人いるんだけど……」

 折戸谷は千鳥の質問に、困ったようにポリポリと頬をかいた。

「この間のバイトもそいつがドタキャンしやがったから、急遽千鳥さんにお願いするハメになったんだよ」

 彼の顔が厳しいのは、バイトをすっぽかされたからだろう。というか、その幽霊部員さんのおかげで、千鳥は巻き込まれたともいえる。

「どんな人なんですか?」

 千鳥の当然の質問に、折戸谷とミホは顔を見合わせた。

「どんな、ねぇ?」

「変わり者ってゆーか」

「幽霊部員だからなぁ」

「あいつ、なかなかつかまらないからさぁ。前に見たのっていつだっけ?」

 二人の説明は要領を得ない。

 まるで滅多に姿を現さない珍獣扱いだ。

「折戸谷君よりも変わり者なんですか?」

 千鳥は首をかしげる。

「あれ、今さらっとなんか言われた気がするけど」

 折戸谷の声はミホに遮られる。

「あいつも他の部活と兼部してるから、あんまり顔を出さないのよ」

「まったく、お前もあいつも、趣味にかまけて本業をおろそかにするんじゃないぞ」

「あんたそれ、あたしのテニス部との兼部のこと言ってんの?」

 ミホは部長を睨む。

「言っとくけど、あたしはテニス部が主で、こっちがおまけだからね」

「何言ってだ。こっちが主だろ!」

 千鳥はオレンジジュースをすすった。

 この騒がしいやり取りにも慣れてきた。

「でも、せっかく部員が増えたんだから、自慢……じゃなくて、紹介しなくちゃね!」

 千鳥が大人しくお菓子をポリポリとかじっていると、突然、折戸谷が爽やかな笑顔を向けた。

「じゃ、そういうことで、千鳥さんもいいよね!」

「え?」

 千鳥は食べかけのお菓子をポロリと落とした。

 そういうこと、の肝心な部分を聞いていないが、すでに話はまとまっているもようだ。

「運が良ければ遭遇できるかもしれないからさ!」

「はい? 何にですか?」

「さて、善は急げだ。逃げられると困るし」

 折戸谷はテキパキと話を進めている。

 そういえば体験入部の時もこんな感じだったなぁ、と、それほど前でもない記憶がすでに懐かしい。

 とりあえず、断るという選択肢はないことは分かっているので、千鳥はあきらめて頷いた。

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