〈博士Aと役人A〉座礁鯨

「研究の原点は鯨ということですが、理由は何か?」

 一通り仕事の話は終わったとみえて、役人は世間話というか、彼個人の興味をそのままに口にする。

 博士も紅茶の中身が空になるまでは、世間話に付き合う気はあるらしい。

 青い部屋の会談は、まだ続いていた。

「まぁ、もともと祖父が海洋学者でしたから。子どもの頃からしょっちゅう祖父のフィールドワークにつきまとっていましたわね」

「博士のお祖父様も、ご高名な研究者でいらっしゃいましたね。特に刺胞動物の研究について、大きな貢献を……」

 役人は彼女の祖父の名で発表された、いくつもの発見や論文を並べる。

「ええ。毎日毎日、世界中の海を飛び回っているような人でしたわ。私の師でもあります」

「血ですねぇ」

 そうですわね、と博士は微笑む。

 祖父の話題になり、博士はかつて幼い頃、祖父と共に過ごした懐かしい光景を思い出していた。

 凪の海を思わせる博士の瞳に、波のようなものがゆらりと揺れる。

「……夏の長期休みには、毎年祖父の海辺の研究所を訪れていました。毎日のように海に潜って、浜辺の漂着物を集めて。それを研究や勉強だと意識したことはありませんでしたね。海はただ、私の善き遊び相手でした」

 博士の視線は正面に座る役人を通り越して、彼の後ろの壁にはまった水槽すらも通り越して、本当の海を見ているようだった。

「そんな夏の日のことです。浜辺に打ち上げられた鯨に遭遇したんです」

 博士は遠い日の思い出をなぞるように目を細めた。

「たまにあるんです。鯨が単体で、あるいは群れで、浅瀬に迷い込んで、座礁してしまう事件が」

「ああ、そんなニュースを聞いたことがありますね」

 役人の反応は薄い。

 一般の人間からみたら興味のない話だろう。

 環境省に勤めている役人ですら、この反応だ。

「その原因は、はっきりと解明されてはいません。病気だとも、軍の演習で使われたソナーが、彼らの方向器官を狂わせたとも」

 それは田舎の小さな港町を、少しだけ騒がしくした事件であった。

「発見した人が祖父に連絡して、私は興味本意でついて行った。いつも静かな浜辺に、たくさんの人が集まっていました」

 幼い彼女が祖父の背中越しに見たのは、灰色の浜に転がる黒い巨大なゴムのような塊だ。

 砂にまみれて薄汚れ、腐ったような生臭い潮の匂いが強烈だった。

「その鯨はかろうじてですが、生きていました。まだ、生まれて一年も経っていないだろう、仔どもの鯨でした」

 幼体とはいえ、少女から見れば巨大な怪獣だ。

 本来、海の中で王者のように振る舞う彼らも、しかし陸に上がってしまえば、ただの重い肉塊である。

 重力に潰れ、ピクリとも動けない。

 暑くじっとりと沈殿した空気。

 それは異様で、どこか寂しい光景だった。

「そういう陸で迷った鯨のことを、座礁鯨、というのです」

 自力では帰ることもままならず、ただ横たわる鯨。

 陸は彼らの世界ではない。生きてはいけない世界に置き去りにされたあわれな迷子。

 事故なのか病なのか、その原因はいまだ解明されていないという。

「博士は、その原因をどうお考えで?」

 役人は興味があるのかないのか判然としない笑顔で尋ねた。

「そうですね、私は……」

 博士は学者らしい見解を述べようとしたはずだが、ふいに言葉を止めた。

 そしてゆっくりと瞬きした後、口を開き直す。

「……鯨の進化について、知っていますか?」

「え?」

 突然話の方向性が曲がり、役人は思わず困惑した声をもらした。

 しかし博士は役人の質問に答えることなく、マイペースに話を続ける。

「基本的にほ乳類は、もともと海に住んでいたものが、陸上で生活できるように進化していったと考えられています」

「はぁ」

 役人は困惑しつつも、相づちを打つ。

「鯨もまた同じく、海から一度は陸に上がりました」

 知らなかったのだろう、役人は驚いたようにずれた眼鏡を押し上げた。

「四つ足を持って、地面を歩いていたのですか?」

「ええ、その通りです。しかし彼らはせっかく手にいれた陸での生活を捨て、また海に戻っていった種なのです」

 多くのほ乳類は長い時をかけて進化し、新天地を、陸を目指した。数えきれない世代交代の中で少しずつ身体を作り替え、環境に適応して。

 しかし鯨という種は、せっかく獲得した進化を捨て、海に戻ったという。

「動物に進化はあっても退化はない、そんな言葉を聞いた事がありますが。何故、そんなことを?」

 役人は不思議そうに首を傾けた。

「これにも諸説ありますね。ただ……そうですね、やはり陸は彼らの居場所ではなかったから、と私は思います」

 役人は目を瞬かせた。

「それは、他の動物との生存競争に負けたということですか? それとも、過酷な陸の環境に耐えられなくなったとか?」

 ならば、はじめから行かなければよかったのに。

 役人の感じた違和感は、当然のものだろう。

 博士は鯨という生き物との、初邂逅を思い出す。

 それは、祖父が研究用に撮影した記録映像だった。

 プロのカメラマンが撮影したわけでもなく、エンターテイメント用に美しい音楽や壮大なナレーションがついているわけでもない、無垢な映像の連続。

 淡々と、しかし真摯に海を追いかけた記録だった。

「私は、祖父が撮影した水中で泳ぐ鯨の群れの映像がとても好きで、何度も繰り返し見ていました。広い海、波の間から差し込む光、聞こえるはずのない水の中に響く鯨の歌が、聴こえてくるようでした」

 美しい光景に、幼い日の彼女は飲み込まれた。

 海面すれすれに波を切って進む、大型の鯨の群。

 太い尾で海面を叩くと飛沫が舞い散り、背の穴から吹き上げた潮に、虹が煌めく。

 鯨は群れで子育てをするため、複数の雌とその子ども達でひとつのグループを作り、大人が狩りをして、皆で子どもを育てる。

 餌であるイカを追って、深く深く潜っていく。

 身体に無数の傷跡がある個体がほとんどだった。

 狩りや敵との争いの雄々しい勲章だろうか。

 また鯨は、エコーロケーションと呼ばれる、音を使った狩りを行う。仲間とコミュニケーションをとるためにも使われているものだ。

 それは、鯨の歌と呼ばれていた。

 幼い自分は、歌の意味をいろいろと想像しては、胸を高鳴らせたものだ。

 だから少女の中で鯨という存在は、美しく力強い王様のような生き物だった。

 しかし、映像ではない本物の鯨と出会ったあの日。

 目の前にあったのは、海中の生き生きとした姿からはかけ離れたものだった。

「……あの時、私、その仔鯨と、目があったんです」

 ボールのような大きな目玉。

 濡れた黒色が、泣いているように見えた。

 気のせいだったのかもしれない。

 しかしその仔鯨の目は、自分を通り越して、もっともっと遠く、陸の向こう側を見ていた。

「海に戻った鯨。でもやっぱり、憧れは残っていたのではないかしら。だからうっかり海とは逆に進んでしまって、迷子になってしまうのかも」

 息も絶え絶えの死にゆく最中で、それでも見ているのは帰るべき海でも、絶望でもなかった。

 陸と空をまっすぐに見据えていた、あのしっとりと艶のある黒い瞳だけは、少女の憧れた美しい生き物のままだった。

 少なくとも、幼い自分はそう思った。

「それが私が、鯨という生き物に、強い興味を抱いた瞬間でしたわ」

 研究に没頭して思い出すことも少なくなった、遠く淡い子どもの頃の思い出。

 座礁したあの鯨の仔。

 博士はひっそりと呟いた。

「……結局、あのこは海に帰ったのかしら」

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