水族館の怪談
『本日は当水族館にお越しくださいまして、まことにありがとうございます。まもなく、閉館いたします……』
仕事の終わりを告げるアナウンスに、千鳥はほっと息をついた。
穏やかで騒がしい一日を終えた小さな水族館は、すでに客の姿はなく、片付けのスタッフがまばらにホールに残っていた。
「ぷはー、仕事の後の一杯は最高ですなー」
飲み会中のサラリーマンみたいな台詞を吐いて、みなみちゃんのクラゲ頭を脱いだ折戸谷は、ペットボトルの炭酸水を勢い良く飲み干した。
頬に当たる冷たい潮風は、疲れた身体に心地よい。
バックヤードの裏口の扉が開け放たれていて、すぐ目の前に海があった。
岬の先っぽに、白い灯台が小さく見える。
夕暮れに沈む海に、白い塔が朱色に染まっていく。
この美波水族館は、猫の手のような形の小さな湾の先端に建っていた。
海洋大学を中心に、関連の研究施設や付属学校を含んだ建築群が、小さな湾岸の端から端まで占領して、巨大な知恵の箱を構成している。千鳥達の通う美波高校やこの水族館もそのパーツの一部だ。
「折戸谷くんはここでのバイト、長いんですか?」
千鳥は今日一日、立派にみなみちゃんになりきっていた折戸谷に顔を向けた。
「まぁね、何しろ稼がないといけないからさ」
「高いんですね、望遠鏡って……」
折戸谷は指を丸めて輪を作り、その指望遠鏡を覗き込む。
「……何か見えますか?」
「海の向こうに、僕のでっかい夢が見える」
クラゲの着ぐるみを着ていなければ、ちょっと格好良かったかもしれない。そう思ったら、
「あれ、僕、今なんか馬鹿にされた気がする」
鋭く折戸谷が千鳥を見た。
「そ、そんなことないですよ」
ぎくりと首をすくめて、千鳥は首を横に振った。
「このクラゲのキャラクター、デザインしたのうちの館長なんだよね」
折戸谷は横に置いたクラゲの頭を、ぽんと叩く。
「じゃあ、この制服も?」
ド派手なピンクのシャツを引っ張る千鳥に、折戸谷は苦笑する。
「変わり者なんだよねー。普段は研究室にこもってるんだけど、ふと突然変な土産物作ったり、イベント思い付いたりするんだ」
折戸谷は肩を竦めた。なんだか自由そうな人物だ。付き合うことになるスタッフは大変そうである。
「研究が広がりすぎて、この水族館になったくらいだからね。展示物も変なの多いだろ?」
マニアックなんたよね、とぼやく。
千鳥は迷い込んだ暗い部屋を思い出した。折戸谷に聞いてみると、彼はすぐにわかったようだ。
「ああ、深海生物の展示室ね。あれ、不気味すぎて人気ないんだよねー。専門の人が見るとすごいらしいんだけど。一般受けしないからさー」
みなみちゃんの頭を抱えた折戸谷は、着ぐるみを倉庫に戻しに行くと言って歩き出した。他にすることもない千鳥は、折戸谷についていくことにした。
途中、広々としたとしたフロアを通りすぎる。
そういえば、展示物を見ている余裕はなかった。
ふと足を止めた千鳥に、折戸谷は首を傾ける。
「ああ、これね、うちの水族館で一番大きな水槽でさ。この辺りの海の生態系を再現したものなんだ」
折戸谷は千鳥が見上げていた水槽に視線を向ける。
それは巨大なガラスの壁だった。
天井まで届く高さに、壁一面の横幅。それなりに広さのある部屋の大半を、たったのひとつの水槽が占めていた。
ひとつの水槽にひとつの種類を絞って飼育するのとは違い、多種多様な魚達が、同じ水槽で泳いでいる。
壁は岩で覆われ、岩の表面には海草が繁茂し、海草の中に小魚が隠れ、その上を大きな魚が悠々と泳ぐ。
ガラスの壁の向こう側には、擬似的な海が広がっていた。
「ここら辺の海は崖みたいに切り立った地形で、岸からそう遠くなく深くなる。だから深海生物の種類が豊富なんだ」
目の前を横切ったサメの尾を追いかけて、折戸谷が教えてくれた。
「こいつなんかは深海の鮫でね。この水族館で初めて飼育に成功したんだ」
さすがワークショップで先生をするだけはある。折戸谷の説明は詳しい。
「こんなにたくさん泳いでいて、魚はガラスや他の魚にぶつからないんですか?」
千鳥は疑問に思ったことを聞いてみた。
水槽の中にはかなりの数の魚達が泳いでいるのだが、自由に泳ぎ回っているし、ここは本物の海と違ってガラスに囲まれた箱の中だ。
そんな質問にも折戸谷はすらすらと答えてくれる。
「魚って、水流を関知する器官があるんだよね。群れで泳ぐ魚なんか特にそうだけど、互いにぶつかったりしないようにね。水族館の水槽は、機械で水流をコントロールしてるんだ」
見た目だけではわからない仕組みがたくさん働いているようだ。千鳥の知らないことばかりだった。
「まぁ、たまにおっちょこちょいでぶつかっちゃうやつもいるみたいだけど」
折戸谷は偉そうに腕を組んだ。
「ま、海には海の、水槽には水槽の泳ぎ方ってもんがあるのさ」
格好つけているのか、顎に手をやり謎のポーズを決めている。
千鳥はそんな折戸谷をスルーして、目の前を通りすぎた魚に視線を動かす。
「あの魚、透明な傘みたいなものが頭についてます」
千鳥は小さな魚を指差した。
魚自体は普通の魚のようだが、何故か魚の頭の部分に、半透明の幕のようなものがくっついている。
「ああ、あれはクラゲを頭に被ってるんだよ」
「えっ?」
予想していなかった答えに、千鳥は驚いて目を丸くする。言われてみれば、確かにクラゲだ。半透明の白い傘に触手がたなびいている。
「微生物が付着するのを防いでいるんだって」
自然界の生き物は、奇抜なアイデアを出すようだ。
「クラゲって、魚やエビがよく利用するんだよね。乗って移動したり、寄生して敵から身を守ったり」
もちろん、食料として補食されることもある。
一方的に利用されるクラゲがなんだか哀れだ。
「クラゲがかわいそうな気もしますけど」
千鳥の感想に、折戸谷は頷く。
「でも、海の中ではそうやってみんなクラゲに助けられているんだ。ある意味、とても重要な生物なんだよ」
それに、とわざとらしく声を低くする。
「猛毒を持ったクラゲも多いからね。人間だってイチコロなんだよ」
そんな話をしていると、自分が話題の中心だとわかったのか、小さなクラゲが一匹、ふよふよと漂ってきた。くるりとターンした淡いピンク色のクラゲは、みなみちゃんとよく似ていた。
「おっと、こいつはみなみちゃんのお仲間だね」
千鳥はガラス越しにクラゲを突っつく。
「かわいいですね」
「まぁ、みなみちゃんの方がラブリーだけどね!」
かぽりとクラゲ頭を被ると、みなみちゃんはガラス越しに本物のクラゲと睨み合う。
何故か謎の対抗心を見せている。
「そ、そうですね」
千鳥が誉めると、みなみちゃんは照れて触手を揺らした。
「ところで、折戸谷君って本当に海に詳しいんですね」
「バイトしてたら自然に覚えちゃったんだよね。ま、何でも聞いてよ!」
得意気に胸を叩く。
「天文部なのに、空よりも海の方が詳しそうですね」
千鳥の何気ない台詞に、それまで自信満々だったみなみちゃんがぴしりと固まった。
実質活動停止中の天文部の部長には、その言葉は鋭利な刃物であったらしい。
「うっ」
胸を押さえてふらつくみなみちゃんに、千鳥は自分の失言に気づいた。
「あっ、すいません」
「い、いや、いいんだ。否定できないのが自分でもこわい……」
ずん、とわかりやすく沈んだみなみちゃんを、千鳥は慌ててフォローする。
「こんなに働いて、望遠鏡を直そうとがんばっているんですから、折戸谷くんは立派ですよ」
「そ、そうかな?!」
あっさり気を取り直したみなみちゃんは、名誉挽回のつもりなのか、ついでにこんな話もしてくれた。
「実はまだ、とっておきがあるんだ!」
「そうなんですか。ぜひ聞いてみたいですね」
千鳥はやや棒読みの台詞を口にする。
折戸谷に付き合うのは大変だ。
「この水族館にはね……実は、もうひとつ名物があるんだ」
また意味なく顔を近づけてくる。
千鳥は若干引きぎみに、聞き返す。何しろ、みなみちゃんがとても聞いてほしそうにしている。
「そ、それは?」
よくぞ聞いてくれました、とみなみちゃんは触手をぽんと打つ。
そして、だいぶもったいつけて話し始めた。
「……実はこの水族館、怪談があるんだ」
「怪談、ですか?」
千鳥は首を傾げる。こんな平和そうな水族館に意外な組み合わせだ。
みなみちゃんは、幽霊よろしく触手を顔の前でぶらぶら揺らした。
「真夜中のね、だーれもいないはずの展示室にね、真夜中十二時ぴったりになると、たったひとつだけ、真っ赤に染まった水槽が現れる。まるで、血をこぼしたみたいにね……」
と、そこまで言って、ぴたりと止まる。
みなみちゃんの頭を持ち上げて、真面目な顔で折戸谷は千鳥を見た。
「これ、もしかして今度のイベントに使える?」
怪談話をしていたはずなのに、唐突に話の方向が変わって、千鳥は面食らった。
「え、どうでしょう……?」
「いいかもしれない。ナイトミュージアムとして企画して……」
折戸谷は、一人でぶつぶつ呟きはじめてしまった。
千鳥が置いていかれて困っていると、片付け中のスタッフの一人が、偶然通りかかった。
「あら、まだ残ってたの?」
女性スタッフは重そうな段ボールを抱えながら、考え込む折戸谷と困り顔の千鳥を見て、なんとなく状況を察したらしい。
「折戸谷君に付き合うのは、大変だったでしょう?」
話しかけてきた女性スタッフの言葉に、折戸谷のマイペースっぷりはここでも有名なのだと知れた。
「この子、めんどくさいでしょう。覚悟しておいたほうがいいわよ」
女性スタッフが千鳥に苦笑を向ける。
「ひどいなー、僕、真面目に先輩してましたよ!」
みなみちゃんは触手を上げて抗議すると、ねっ、と千鳥に同意を求めてくる。
「はぁ」
曖昧に頷く千鳥に、みなみちゃんは不満げに身体をくねらせた。
「そこはもうちょい、強く頷いてほしかったなぁ」
「あはは、仲がいいのね」
「はぁ……」
こんなやり取りが日常なのだろう。和気あいあいとした空気に、千鳥は身じろぎする。
折戸谷はこの水族館によく馴染んでいるようだ。
千鳥は眩しいものを見るような目をして、一歩、後ろに下がった。
折戸谷は次のイベントのアイデアについて、スタッフに熱く語っていた。
千鳥は曖昧な表情のまま、適当に相づちを打っていたが、ふと、女性スタッフが抱える段ボールに目を止めた。
「……あの、それって」
段ボールはワークショップの荷物のようだった。
雑多のガラクタ、もとい子ども達の作品や、作りかけで放置されたもの、失敗したものと、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
千鳥はガラクタの一番上に乗っていたそれを、手に取った。
それは赤い魚のおもちゃだった。
「ああ、それ。プールに落ちてたのよ」
手にすると、プラスチックの安っぽいパーツに、色むらが所々に残った雑な作りが見えた。
しかも色が少し剥げてしまっていて、白い部分が骨のようにも見える。
ぐったりと横たわる瀕死の魚だ。
水から上がれば、おもちゃといえども魚は生きていけないのだろうか。
お世辞でもガラクタとしか言えないようなそれを、千鳥は優しく撫でた。
プールの中でのびのびと泳いでいた姿を思い出す。
あんまりじっくりと千鳥が眺めていたので、女性スタッフは首を傾げる。
「それ、気に入ったの? 欲しいなら、持って帰ってもいいけど……」
「いいんですか?」
千鳥はぱっと顔を上げた。
ええ、と頷くスタッフ。どうせ処分されるものだそうだ。
千鳥は出会った不思議な子ども達を思い出して、赤い魚を受け取った。
たった一日の体験入部、もといバイトは、大変ではあったが、悪いことばかりではなかった。
しんみりと今日を振り返っている千鳥に、スタッフが肩をぽんと叩く。
「じゃあ、明日も頑張ってね」
「はい、お疲れ様でした」
足早に去っていく彼女に、何気なく挨拶を返してから、ピタリ、と千鳥は動きを止めた。
「……明日?」
ポツリと呟く。
後ろでみなみちゃんが、ギクッと肩を揺らした。
「……うん、明日」
千鳥はゼンマイ切れのおもちゃのように、固い動きで振り返る。
「バイトって、今日だけじゃなくて?」
そこには、被り物をしているくせに青ざめているみなみちゃんの顔があった。
「……う、うん……明日は日曜日だからさ……お客さんも、たぶん、今日と同じくらい」
「聞いてませんけど」
千鳥の目は笑っていない。
みなみちゃんはぶりっこポーズで誤魔化そうと試みたようだ。きゅるん、とつぶらな瞳で上目遣いで見つめてくる。
「だめ?」
千鳥はため息をついた。
やはり折戸谷に付き合うには、先輩スタッフの言う通り覚悟が必要なようである。
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