空を泳ぐ鯨

 ワークショップの広場は、子ども達の騒がしい笑い声で満ちていた。

 それなりに広いホールに、手作りコーナー用の机が並んでいる。各ブースでは、それぞれ違うものを作ることができるらしい。

 どのテーブルもそれなりに賑わっていて、子ども達が熱心に作品を作っていた。

 熱中しすぎて、たまに作りかけの作品が宙を飛んでいる。元気いっぱいの子ども達とは反対に、大人達は少し疲れた顔をしていた。

 ホールの中央には、浅いプールがあった。

 磯の生き物とふれあえるコーナーらしく、膝くらいしかない浅いプールには、小魚や貝、イソギンチャクといった小型の海の生き物が放たれていた。

 赤い小さな魚が、人工の珊瑚礁の間をすいすいと泳いでいく。

 千鳥の次の持ち場は、このプールの監視員だった。

 浅いプールとはいえ、子どもが転んだりしたら危険だ。監視員というのは重要な仕事だが、事故が起きない限り、ただ突っ立っているだけでもある。

 千鳥はプールの脇に集まった、子ども達の集団に視線を向けた。

「これはねー、亀の手っていうんだよ。フジツボみたいだけど、カニやエビの仲間なんだ。味噌汁の具にすると美味しいんだよ!」

 と、なかなか攻撃的でグロテスクな外見の貝のようなものを、みなみちゃんは器用に着ぐるみの触手で指さしている。

 というか、あれを食べるのだろうか。みなみちゃんは食べ盛りらしい。

 ピンクの巨大クラゲを中心にして、幼稚園児くらいの子ども達が群がっていた。

 みなみちゃんの海辺の生物教室だ。

 子ども達はプールにいる生き物達の説明を聞きながら、みなみちゃんに絡んだり、魚を手掴みしようとして親に怒られたりしている。

 その様子を後ろから見守りながら、千鳥はぐるりと首を巡らせた。

 そしてふと、プールの端に目を止めた。

 みなみちゃんは一人でも大丈夫そうなので、そろりと移動する。

 千鳥はプールの脇に隠れるように、丸まった小さな背中を見つけた。

「プールの生き物は触っちゃダメですよ」

 声をかけると、子どもはビクッと伸ばしかけた手を止めた。今まさに、プールに手を入れようとした瞬間だった。

 その小さな手の先には、赤い魚がピチピチと、尾ひれを一生懸命に揺らしていた。

 その子は集団から離れた所に、ぽつんと一人でいた。見たところ、近くに親らしき姿もない。

 千鳥はしゃがみこんで、子どもに視線を合わせる。

「あ」

 そして、その子の顔に覚えがあることに気づく。

 ついさっき、不気味な水槽の前で出会った子だった。

 明るい場所でこうして落ち着いて見ると、不思議な雰囲気は薄まって、そこらにいる普通の子どもと同じようだった。

 相変わらず重そうなカメラを首に下げて、無言でうずくまっている。

 子どもは注意されて手を止めたが、視線は動かず、じっと赤い魚を見つめていた。

 千鳥はそこで、子どもが凝視する魚の様子がおかしいことに気づいた。

 プールには人工的な岩や珊瑚礁が配置され、生き物達の隠れ家となっていたが、その魚は岩の狭い隙間に挟まってしまっていた。

 普通の魚なら、すり抜けてしまうはずの隙間に無様に挟まっていたのは、普通の魚ではなかった。

「この魚、おもちゃ?」

 千鳥は、ブルルと微かな振動音を響かせる魚に目を瞬かせた。

 ワークショップのひとつに『メカニマルをつくろう』というコーナーがある。

 動物の身体構造を科学的に応用するとかそういう難しい建前はあるが、子ども達にとってはおもちゃの魚である。

 魚の形をしたゼンマイ式の機械を、好きな色に着色したり、尾ひれをカスタマイズしたりできるというワークショップだったはずだ。

 たぶん、そのワークショップで誰かが作ったものを、プールに入れてしまったのだろう。

 与えられた単純な動きしか知らないために、岩の間でバタつくだけの不器用な魚を、千鳥はちょん、と指先でつついた。

 すると、少し押してやるだけで、引っ掛かったヒレが外れる。

 魚はぶるりと震えて、また自由に泳ぎだした。

 その泳ぎはやはり機械的で、横を泳ぐ本物の魚の優雅さに比べれば、ぎこちなく不恰好なものであったけれど。

 赤い魚は、自由に泳げることを喜んでいるように見えた。

 子どもはプールの奥に消えていく赤い魚を、やはり無言でじっと目で追っている。

 不思議な色合いの瞳はまったく動かないが、なんとなく和らいだように千鳥には見えた。

 千鳥はふと思い出して、ポケットに手を入れる。

 忘れ物を拾ったことを思い出したのだ。

「あの、これ、あなたが落としたものですか?」

 本当は落とし物はカウンターに持ち込まなくてはいけない決まりがあったのだが、バイト一日目の千鳥はすっかり失念していた。

 千鳥は自分が迷子になったどさくさで、落とし物をそのままポケットに入れて忘れていたのだ。

 子どもは千鳥の差し出した手帳を、じっと見下ろした。

 やはり持ち主だったようで、ひとつ頷くと、小さな手を伸ばす。

「よかった、届けられて……」

 運良く持ち主に返せて、千鳥が喜んだのも束の間。

 深海パスポートを持ち上げようとした瞬間、騒々しく走ってきた子どもが、激しく千鳥にぶつかった。

「わっ」

「あっ、ごめん!」

 千鳥は体勢を崩して、床に手をついた。

 走ってきた子どもは転けることもなく、謝るのもそこそこに、つむじ風のように走り去っていく。

 それだけならまだよかったのだが、運の悪いことに、返そうとしていた深海パスポートが千鳥の手から滑り落ちていた。

「あっ」

 受け止める間もなく、小さな本は、あっけなくプールに沈んだ。

 ぷくぷくと、泡を立てて沈んでいく。

 千鳥は慌ててプールに手を突っ込んで回収したが、すでに紙製の本はどっぷりと海水に浸かっていた。

 ポタポタと水を滴らせ、海水の臭いをさせた手帳をつまみ上げる。

 おそるおそる開いてみると、ページは互いに張り付き、インクが盛大に滲んでいる。

 スタンプラリーのページを見れば、スタンプはあとひとつというところまで貯まっていた。

「あー……」

 千鳥は肩を落とした。

 インクが滲んだクラゲの顔は、本当に泣いているみたいだった。

「はっ、あ、あの……ごめんなさい……!」

 千鳥は、隣で硬直している子どもに気づいて、冷や汗をかく。

 その視線は、致命傷を負った深海パスポートに注がれている。

 その顔の表情はやはり動かない。

 なのに、とてもとても、悲しそうだった。

 バイト初日の千鳥は、事情を説明すれば再発行してもらえるだろうという発想にたどり着かなかった。

 そして、思わずポケットに入っていた自分の深海パスポートを、子どもに差し出していた。

「よかったら、これどうぞ!」

 子どもは顔をあげると、千鳥の顔とパスポートを交互に見比べる。

「あ、あの、これじゃ、ダメですか……?」

 千鳥は眉をハの字に下げた。

 子どもは、そっと千鳥の深海パスポートを受け取ると、胸の前で抱きしめた。

 どうやら、許してくれたらしい。

 千鳥はほっと胸を撫で下ろした。

「あの、お父さんかお母さんはどちらに?」

 そろそろ迎えにきてもよさそうだが、この子はずっと一人でいる。やはり迷子なのかもしれない。

 さっきは逃げられてしまったが、今ならばコミュニケーションが取れそうだと、千鳥は前のめりになって聞いた。

 子どもは千鳥の質問に、考えるように首を傾げる。

 それから、何かを思ったのか、千鳥の顔を見上げると、ぐい、と袖を引っ張った。

「ん? なんでしょう?」

 子どもは、びしっとホールの出口を指さした。

 親は向こうにいる、ということだろうか。

「あっちですか?」

 子どもは千鳥の袖を引っ張る力を強くした。

 ぐいぐい、ぐいぐい。

 これはもしかしなくても、千鳥についてこい、と言ってるのだろうか?

「え、いやあの。私、プールを見守るという大事なお仕事中でして……」

 じっ。

 小さな子どもなのに、目に圧力がある。

 無言の視線のプレッシャーに負けて、千鳥はチラリと子ども達に囲まれているみなみちゃんを見る。

 少しだけなら、持ち場から離れても大丈夫だろう。

 千鳥は子どもの手を、おずおずと握り返した。

 二人は手を取り合ってプールの部屋を出る。

 次々と水槽の間を抜けて、子どもは千鳥の手を引いて迷わず進んでいく。

 そうしてたどり着いたのは、吹き抜けの大きなフロアだった。

「ここに、お父さんかお母さんがいるんですか?」

 千鳥は大きく首を傾けて、天井を見上げた。

 広々とした展示室だった。

 もしかしたら、この水族館で一番大きな部屋なのかもしれない。

 眩しい白い壁に囲まれ、天井はガラス張りで、青い空が透けて見えていた。天井のガラスに模様でもあるのか、太陽の光が複雑な模様を床に落としている。

 青い光がゆらゆらと揺れて、まるで海面から光が射し込むようだった。

 そして奇妙なことに、水族館であるにも関わらず、ひとつも水槽がない。

 愛らしいクマノミも精悍なサメもいない。

 しかしその代わり、別の魚が展示されていた。

 白い骨の鯨が、空を泳いでいた。

 頭骨から脊椎、尾骨にかけての優雅な曲線。

 十メートルを軽く超える巨大な身体がしなやかに、見えない波を尾で打つ。

 肉も皮もなにもかも無くなっても、なお悠々と、空を泳いでいた。

 鯨の骨格標本だった。

 ワイヤーで空に吊るされた骨の鯨。

 ひときわ目を引くそれが、このフロアの主だった。

 展示室いっぱいにどこか厳かな空気が満ちていた。

 フロアの観客はまばらであったが、その骨の鯨を見上げて背を向ける人影がひとつある。

「……あっ」

 子どもは、千鳥の手からするりと抜けると、佇む人影に走り寄った。

「……ユウ?」

 人影は振り返ると、子どもの顔を見て呟いた。

 振り返った彼は、少年だった。

 随分と大人っぽい雰囲気だが、着ているのはよく見れば自分と同じ高校のものだ。

 黒い髪に黒い瞳、中肉中背、平均的な日本人の姿。

 どこにでもいそうなありふれた少年。

 なのに、骨の鯨を見上げるその姿が、目を惹き付けて離さない。

 子どもは少年の足元に駆け寄ると、仔犬のようにまとわりつく。

 年齢的に親ではないだろうが、お兄さんだろうか。

 彼は袖を引っ張る子どもに促されて、ゆるりと視線をあげた。

 そこには、立ちすくむ千鳥がいる。

 千鳥を見た瞬間、少年の顔に驚きが浮かんだ。

 しかしそれは一瞬のことで、子どもの顔を再び見ると、納得したように頷いた。

「また一人でうろうろして。悪かったな、連れてきてもらって」

「い、いえ」

 後半は千鳥に向けての言葉だ。

 何も言っていないが、事情は大体察したらしい。

「ほら、お前もちゃんとお礼をしないと」

 子どもは兄らしき人物に促され、千鳥の所にとことこ寄ってくると、ん、と手を伸ばした。

 千鳥はその色素の薄い瞳を見つめ返した。

 握手はやはり無言のままだが、ぎゅっと繋いだ手はあたたかい。

「また、来てくださいね」

 こくん、と頷くと、千鳥の手をすり抜けて、兄の元に駆け寄る。

 少年は不思議な笑みを浮かべると、子どもの手を引いた。

「じゃあ……また」

 子どもは、振り返って手を振ってくれた。

 千鳥は不思議な空気のきょうだいの後ろ姿が、人波に消えるまでぼんやりと目で追っていた。

「あー、千鳥さん。こんなところにいた」

 彼らの姿が見えなくなったころ、みなみちゃんがフリフリ触手を揺らして走ってくる。

「そろそろ休憩だって声かけようと思ったら、持ち場にいないだもん。探しちゃったよー」

「ごめんなさい」

 千鳥は慌てて頭を下げた。

 仕事中なのに、ずいぶんとさぼってしまったらしい。バイト初心者にしてはなかなかやらかしていると、千鳥はようやく気づいた。

 怒られるかと肩を縮めた千鳥だったが、みなみちゃんは怒ることなく、千鳥の頭の上につぶらな黒い瞳を向けた。

「これを見てたの?」

 みなみちゃんの視線の先に、骨の鯨が泳いでいる。

「この近くの海に座礁した鯨なんだってさー」

 展示品の説明文にも書かれている内容を、みなみちゃんは丁寧に説明してくれた。

 ワークショップでの先生役もそうだが、案外彼は教えるのが上手だ。

 なかなか戻ってこないマスコットキャラクターとプール監視員に、他のスタッフが探しに来るまで、みなみちゃんの説明は続いた。

「この鯨、トリトンっていう名前なんだよ」

 最後にそれを教えてくれたあたりで、他のスタッフに見つかった。

 骨の鯨が、怒られる二人をゆうゆうと空を泳ぎながら見下ろしていた。

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