〈少年Tと少女T〉波打ち際にて
「何を読んでいるの?」
少女は激しい潮風に長い髪をはためかせながら、顔をうめるようにして本に没頭する少年に声をかけた。
少年は声をかけられて文庫本から顔を上げたが、近づいてくる少女を見るわけでもなく、古びた黒い本から遠い水平線に見るものを変えただけだった。
「陸に上がった鯨の話」
少年の答えは文庫本の表紙に書かれたタイトルそのままだった。
「ふぅん」
少女は聞いておきながら、興味なさげに呟く。
「ところで、わざわざそんなところで読書する意味がわからないのだけれど」
少女は頬に当たる冷たい海の飛沫に目を細める。
そこは、波打ち際だった。
ざざん、ざざん、ざざん、と連続する波の音。
まっすぐに引かれた空と海を分ける線は、沈みゆく太陽を受け止めて輝いている。
岬の小さな灯台に、明かりが灯るまであと少し。
「ここは海でも陸でもあるからさ」
少年は少女に答えて、自分の足元を見下ろした。
学生服らしい黒いズボンを膝までたくしあげて、波に足を浸けている。
本を濡らさないようにか顔の前まで持ち上げているが、激しい波に本の表紙も白いワイシャツも、ぽつぽつと斑模様ができていた。
裸足は半ば砂に埋もれて、両足の間を海が滑るように移動する。
行ったり来たりを繰り返す波。
海と陸との境界線であるそれは、常に形を変え続けて、同じであることなど一瞬たりともない。
「そう。知っていたけれど、あなたって本当に変わり者よね」
少女は少年の答えにため息をこぼし、口を開く度に入ってくる海の飛沫に顔をしかめた。
「苦いかい?」
「海が甘いはずはないわ」
少女は口に塩水が入ることよりも、自分のセーラー服が濡れることよりも、首から下げたカメラが濡れないかを気にしているようだった。
カメラを高く持ち上げて、手を伸ばしてくる波から庇っている。
「海はたくさんの命がまざりあった坩堝だ。根源とは、こういう味がするのだろうね」
変わり者と呼ばれるだけあって、少年の答えはまた独特だった。
少女と少年は肩を並べて波間に立つ。
ただし、少年は海に向かって正面に、少女は海に背を向けて。
そうやって並んで立つと、小柄な少年よりも少女のほうがいくらか背が高いようだった。
セーラー服のスカートが、魚の尾ひれのようにひらりと揺れる。
海に背を向けたまま、少女は少年に問うた。
「海が好きなの?」
少年は海を見たまま、頷く。
「そこから生まれたからね」
少女はカメラを構えて、ファインダーを覗き込んだ。しかし、レンズを向けるのは海ではない。
「じゃあ、あなたは魚? それとも人?」
「さあ、どっちだろうね」
少年が眺めているのは、海の向こうの遠い国か、あるいは深い深い海底か。
少女がレンズ越しに見ているものは、振り返らない少年には見えない。
ただ、彼は無関心に聞くだけだ。
「何かおもしろいものでも見えるかい?」
カシャ、と、シャッターを切る音がした。
少女はカメラ越しに答える。
「トリトンが見つかったわ」
「……そうか。じゃあ、そろそろだね」
少年は最後のページをめくる前に手を止めて、静かに文庫本を閉じた。
「ええ。だから、あなたにも協力してもらわないといけないの」
「わかっているよ。そういう約束だからね」
少年は肩を竦めた。
少年と少女のそのやり取りは、友人というには少し冷ややかで、しかし、他人というには互いの秘密に踏み込んでいた。
二人の関係性に無理矢理名前ををつけるならば、それは共犯者であろう。
「じゃあ、そろそろ僕は行くよ」
「ええ、さよなら」
短い挨拶だけを残して。
少年と少女はすれ違うように去っていく。
太陽が海の向こうに沈む。
夜が来る。
灯台にぽつりと光が灯った。
月光が海に反射して、細い光の道が通る。
それはとある満月の夜の、少年と少女のささやかな密会だった。
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