深海パスポート

 ぽん、とクラゲスタンプを押して、チケットを親子連れに手渡す。ぎこちない笑顔らしきものと共に、千鳥は手を振った。

「いってらっしゃいませ」

 まだ半日ではあるが、仕事には少しずつ慣れてきたようだ。お決まりの文句も、淀みなく口から滑り落ちるようになった。

 最初はかなり引いてしまったピンクの派手すぎるTシャツも、もう気にならなくなってきたので、慣れとは恐ろしいものである。

「子どもと大人一枚ずつ」

「本日は幼稚園以下のお子さまのサービスデーですので……」

 客のほとんどは小さな子どもを連れた家族だった。

 列の最後、母親に手を引かれた女の子が、千鳥の前に立った。

 チケットカウンターは彼女には高すぎるので、母親が抱っこして、女の子を持ち上げる。

「ほら、おねえさんに、どうぞって」

「あい」

 千鳥と小さな彼女が同じ視線の高さになると、少女は握りしめていた小冊子を千鳥に差し出した。

 深海パスポートと印された小さな海色の本だ。

 千鳥は彼女からそれを受け取ると、ページを開いて白紙の部分にスタンプを押した。

「はい。年間パスポートのご利用、ありがとうございます」

「わーい、スタンプもらった~!」

「よかったわねー」

 母子が和やかな会話をしつつ、順路と示された通路へと消えていくのを見送る。

 折戸谷に渡された深海パスポートという小冊子は、この水族館の年間入場券のことだった。

 来館やワークショップの参加等でスタンプをもらえて、スタンプがいっぱいになると豪華な景品がもらえるそうだ。

 他にも水族館案内や観察ノートにできるページもあって、なかなか凝った作りになっていた。

 ちなみにスタッフとして入る千鳥には不要の代物だが、なんとなく折戸谷がサービスでくれたらしい。

 一応ポケットにもらったパスポートは忍ばせているが、使うことはなさそうだ。

 だが、ページをなんとなくめくっているだけで、水族館を見て回っている気分になってくる。

 後で自分でスタンプを押そうかと、千鳥は反転されたクラゲの笑顔を眺めた。

「バイトさん。ここは落ち着いてきたから、体験コーナーのヘルプに行ってくれる?」

 開館時間をいくらか過ぎ、受付の仕事が落ち着いてきた頃合いを見計らって、他のスタッフが千鳥に声をかけた。

「わかりました」

 千鳥は了承すると、すくっとボックス席を立った。

 少しずつバイトに慣れてきた自覚があったので、千鳥の気合いは満ちていた。

 体験コーナーは水族館の順路の最後だ。

 ふれあいコーナーや簡単なワークショップをやっているはずで、折戸谷ことみなみちゃんも、今はそちらに移動していた。

 次の仕事場に向かって、颯爽と歩き始めた千鳥。

 しかし、その足はすぐに止まることになった。

 道に迷ったのだ。

 慣れない水族館という場所、しかもバックヤードの細い通路を使っての移動だった。

 スタッフオンリーと書かれた扉を開けた先は、目的地の体験コーナーではなかった。

 千鳥は扉を開けた体勢で、硬直した。

「……ここは、どこですか?」

 思わず呟いていた。

 しんと冷えた空気が肌を撫でる。

 床と壁との境に小さな照明があったから、そこが壁だとわかるくらいの暗黒。

 それでもかろうじて展示室だとわかったのは、ぼんやりと闇に浮かび上がる水槽があったからだ。

 もともとこの水族館は、海洋大学の研究施設を兼ねているそうで、飼育されている海洋生物は一般的な水族館に比べてかなりマニアックだそうだ。

 イルカのショーもなければ、人気者のペンギンやラッコもいないし、展示物は標本などの学術的なものが多い。

 そこには、きれいな魚も華やかな珊瑚や海藻の森もなかった。

 赤黒いライトに照らされて、妖しく浮かび上がる異様な姿の生き物達。

 四角に切り取られ、並べれらた深海の風景。

 灰色の粗い砂とゴツゴツとした岩だらけの水槽。

 岩の隙間や砂の中に身を潜め、陸にいるどんな生き物とも違う不思議な形をした生き物達。

 BGMなど一切なく、泡の浮かんで消える音が聞こえてきそうな静寂。

 千鳥は凍えから、自分の体を抱きしめるように腕を回した。

 たまたまなのかそれとも人気がないのか、展示室には客の気配はない。

 人間のいない世界。

 暗い水の底に潜む生き物達の視線が、突然の乱入者である自分に、いっせいに集まった気がした。

『深海の世界へようこそ』

 ライトに照らされ浮かび上がる入り口の青い文字が、視界にちらついた。

 千鳥は光に吸い寄せられるように、海の底にふらりと足を踏み出していた。

 水槽のガラスに、反射したライトと自分の顔が映っている。

 そして、千鳥の顔の横に掠める赤い光。

 千鳥は、はっと振り返った。

 ガラス越しに、何かを見た気がした。

「……?」

 じっと薄暗い部屋に目を凝らした千鳥は、妖しく光る二つの目玉を見つけて、ひゅっと息をのむ。

 硬直した千鳥の前に、闇の中からゆっくりと姿を現した白く淡く発光する光のかたまりは、よく見れば人のかたちをしていた。

 しかし、ずいぶんと小さい。千鳥の腰の高さくらいしかない身長は、幼い子どものようだった。

 水槽を照らす沈んだ赤色の照明は、子どもの顔を幽霊のように不気味に浮かび上がらせた。

 幼い子ども特有の、女の子なのか男の子なのかよくわからない中性的な容姿だった。

 白シャツに短パン、サンダルと、随分とラフな姿だ。初夏とはいえ、まだ冷たさの残るこの季節に、ずいぶんと季節外れの格好だった。

 髪はふわふわとやわらかそうな赤茶色で、大きな瞳にあどけない顔立ちは、かわいらしいといって差し支えないだろう。

 しかしその幼い顔には、表情というものがすっかり抜け落ちていた。

 この年齢なら、もっと無邪気というか屈託がないはずなのに、目の前の子どもからは、そういう幼さというものが一切感じられなかった。

 動かない視線、引き締められた口元、瞬きすらしない目。顔立ちが整っているからなおのこと、その冷たい雰囲気が際立っている。

 そして、子どもが持つにしてはだいぶ大きな立派なカメラを首から下げていた。

 プロが使うような一眼レフだ。ずいぶんと使い込まれていて、デジタルカメラが主流の今時に珍しいアナログカメラだった。

 子どもの目がまっすぐに、千鳥に向けられる。

 水槽を照らす赤いライトのせいか、子どもの瞳が仄かに赤黒く閃いた。瞬きすら忘れたように、じっと千鳥を見つめている。

 実際に見つめ合っていた時間は、ほんの数瞬のことだったのだと思う。しかしその瞬間が永遠に停止しているような錯覚に陥るほど、凍った時間だった。

 その金縛りを解いたのは、ピンポンパンポーン、という、どこか場違いなお決まりの音だった。

……迷子のお知らせです。○○よりお越しの△△様、◇◇ちゃんが迷子センターでお待ちです、至急、受け付けカウンターまで……

 千鳥は我に返った。

 そうだ、展示室内に子どものお客さんがいたのだ。

 周囲に大人の姿がないということは、迷子なのかもしれない。

 ようやく動き出した頭で、千鳥は自分が今はスタッフであることを思い出していた。

 迷子ならば、保護しなくては。使命感が千鳥を動かした。

「あの」

 意を決して声をかける。

 しかし千鳥が口を開いた途端、子どもは驚くほど俊敏に、パッと身をひるがえした。

「えっ」

 そのまま、素晴らしいスピードで走り去る。

 まるで人に馴れない野生の獣のような反応だった。

 子どもにのばして、途中で行き場を失った自分の手を見おろして、ぽつりと呟く。

「……逃げられてしまいました」

 何故かショックを受けて立ち竦んでいた千鳥であったが、自分が移動途中であることを思い出して、頭を振った。

「ぼうっとしている場合ではありませんでした。仕事に戻らなくては」

 慌てて深海フロアから外に出る。

 深海の暗さから、外の明るさに一瞬目が眩んだ。

 思わずたたらを踏み、顔を歪める。

「えっと、体験コーナーは、あっちでしょうか……」

 見つけた施設案内の地図とにらめっこしていた千鳥は、ふと振り返った。

 さっきまで子どもが立っていた場所に、何かが落ちていることに気づいたのだ。

「?」

 かがんで、落とし物を拾い上げる。

 それは、深海パスポートという深海の色の小さな本だった。

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