みなみちゃんの水族館
千鳥の手のひらの上に、小さな一冊の本があった。
海の深い深い青の色の表紙に銀の文字で、深海パスポートと印されている。
千鳥は厳かな手付きで、本を開いた。
現れたページは真っ白で染みひとつない。
傍らに置かれた円筒形の判子は、相当に使い込まれているのだろう、持ち手の跡さえ残っている。
千鳥は息を整えまっすぐに紙面を見つめると、狙いを定めて刻印を打つ。
判子をどかしたあとに現れたのは、どこを見てるのか焦点が定まらないくせに、やたらニコニコしたクラゲの顔だった。
「やぁ! 調子はどうだい?」
スタンプと同じ顔が突然目の前にニュッと現れて、千鳥は目を瞬かせた。
人と同じサイズの巨大クラゲは、派手なピンク色の体を揺すって、笑顔で手(というか、触手)を千鳥に向かって振っている。
「折戸谷君」
千鳥はふざけた顔のクラゲを正面に見据えて、真面目に頷いた。
「はい、なんとか慣れてきました」
「……それはクールだね!」
驚かそうと思ったらしいが、千鳥の表情が全く揺れなかったので、ピンクのクラゲはどこか悔しげに小刻みに震えている。
「この姿の時は、みなみちゃんって呼んでね!」
「はぁ……」
曖昧に頷く千鳥は、自分が着用している少々羽目をはずしたようなデザインのユニフォームを見下ろした。そこにも目の前のクラゲのイラストが、でかでかとプリントされていた。
そして小さなボックス席のような場所に座ってる千鳥の傍らには、折戸谷からもらった小冊子と同じものが、山になって積まれていた。
クラゲはどこか遠い目をしている千鳥に、首をかしげた。
「ん、どうかした?」
「いえ、どうしてこうなったんだろう、とちょっと思っただけです」
呟いて、千鳥は揺れるピンクのクラゲ頭を眺めた。
千鳥は今、『みなみ水族館にようこそ!』というポップな文字の看板の下、デフォルメされた海の生き物のマスコットたちに囲まれ、目に痛いピンクのTシャツを着て、入場スタンプを片手に、水族館のチケットブースに座っている。
時は少し遡り、天文部の体験入部当日の朝。
待ち合わせ場所の校門前へやって来た千鳥は、素晴らしく爽やかな笑顔の折戸谷に迎えられた。
爽やかすぎて、逆に胡散臭さすら感じる笑顔だ。
そして朝から上機嫌な折戸谷に案内されたのは、学校からそれほど離れていない場所にある施設だった。
四角い箱をいくつも並べたような外見のそれは、晴天に白い壁が眩しく光を反射していた。
海を意識しての事なのか、植えられている植物は南国的なものが多く、ヤシの木が並んだ小道の先に、ガラス張りの玄関がある。
入り口の銀のプレートには、細く優雅な文字で、『美波水族館』と彫られていた。
「……水族館?」
千鳥は折戸谷と並んで、少し古いが立派な水族館を見上げた。
折戸谷と千鳥の他に人影はない。
まだ開館時間前なのだから当然ではある。
これから賑わうであろう場所も、ひっそりとした静けさに満ちていた。
天文部の体験入部のはずが、何故に水族館。
千鳥が首を傾げていると、折戸谷はぐいぐいと水族館に突進していく。
「さあ、行こう!」
「まだ開館時間の前ですよ?」
「大丈夫、大丈夫!」
困惑する千鳥を引っ張って折戸谷が向かったのは、正面の玄関口ではなく、ヤシの木に隠れて目立たない、横の小さな入り口だった。
折戸谷は、ポケットから取り出したカードをかざしてドアを開ける。
セキュリティロックの外れる小さな音。
「おはようございまーす」
ドアの向こうは水族館のバックヤードらしく、開館に向けての準備真っ最中、スタッフが忙しそうに立ち回っていた。
元気よく挨拶した折戸谷の隣で、千鳥はポカンと立ちすくむ。
スタッフの一人が折戸谷に気づいて、顔を向けた。
「おはよう、その子がピンチヒッターの?」
「そうなんですよ。うちのエースで!」
「ははは、頼りにしてるよ」
じゃあ、準備お願いね、とスタッフは足早に持ち場へと散っていく。
「はい、これ制服。更衣室は向こうだよ」
折戸谷はピンク色の派手なシャツとスタッフと書かれたカードを千鳥に手渡した。
千鳥はそれらを受け取った姿勢で固まったまま、慣れた様子で自分の準備を進める折戸谷を、おずおずとうかがう。
「……あの、状況が見えないのですが……?」
「あれ、説明してなかったっけ?」
こくこくと頷く千鳥に、折戸谷は、あれー、ごめんーとこれまた爽やかな笑顔で言いきった。
「今日はこの水族館でバイトだよ!」
「バイト?」
「そう、バイト」
「……天文部の体験入部なんですよね?」
「もちろん、そうだよ!」
「…………??」
成り立たない会話に、首を極限まで傾けた千鳥に向かって、折戸谷は拳を握りしめる。
「なにしろ高額な望遠鏡だから、修理費もばかになんなくてさ。学校の予算じゃてんで足りないから、僕らが稼がないとね!」
望遠鏡を直す、と言ってはいたが、それはつまり。
「天文部の活動って、望遠鏡の修繕費を稼ぐってことなんですか?」
「そう!」
輝くような屈託のない笑顔に、千鳥には頷く以外の選択肢はない。
そうして気づいた時には、千鳥はピンクのクラゲシャツを着せられて、受付嬢になっていた。
「……いらっしゃいませ?」
そして、何かが腑に落ちないまま、やや疑問系の接客がスタートしたのだ。
「折戸谷君のほうも忙しそうですね」
折戸谷はマスコットキャラクターの着ぐるみ姿で、子ども達に笑顔を振りまいている。
「まぁね。みなみちゃんは人気者だからね!」
みなみちゃんは、ピンクのヒラヒラしたフレアスカート、つぶらな黒い瞳、にっこり笑顔の可愛らしいクラゲのお姫様、という設定だった。
ただ、着ぐるみになると人と同じ大きさになり、圧迫感は半端ない。可愛いかどうかと言われると、千鳥から見るとちょっと微妙だ。
子どもたちに裏声で愛想を振りまく折戸谷は、完全にみなみちゃんになりきっていたが。
「はぁい、みなみちゃんだよー」
「うわー、くらげでけー!」
「なにこれ、へんなかおー」
人気のベクトルはやはり微妙なようだ。
蹴られたり一緒に写真を撮られたり、折戸谷もといみなみちゃんは、子どもたちにもみくちゃにされながらたくましく仕事を全うしていた。
田舎街の小さな水族館のわりに、意外に人が集まっている。先程からそれなりに客をさばいているが、まだ入場待ちの列は終わらない。
「今日は幼稚園以下が無料の日だからさ、いつもかなり混むんだよね。しかも元気爆発の子ども怪獣たちでね……」
そう教えてくれたみなみちゃんの着ぐるみ故の固定された笑顔が、やや息切れして見えた。
先程、群がっていた子どもに着ぐるみの触手一本を持っていかれかけてた。必死に抵抗するクラゲとハンターの攻防が横目で見えていた千鳥は、お疲れ様です、としみじみ呟いた。
「頼んでた短期バイトが急に来れなくなっちゃって、大ピンチだったんだ。そんな時に現れた救いの女神が、君だったというわけ!」
折戸谷はこのバイトのベテランらしく、クラゲの着ぐるみを見事に着こなして、水族館の案内から迷子の対応までこなしている。
「そんなわけで、今日はよろしくね!」
「わかりました。ちょっとよくわからないことはありますけど、体験入部をすると言ったのは私なので。がんばります」
「うんうん、やる気じゅうぶんだね!」
千鳥はど派手なTシャツの背筋を伸ばした。
やや詐欺的に始まったバイトだが、もうここまできたからには仕方がない。
千鳥は与えられた自分の仕事、つまり、差し出される入場券にクラゲスタンプを押すという重大な使命に全力で取りかかった。
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