〈観察者Mと生物M〉とある水槽より
その小さないきものは、とある小さな水槽のなかで生まれた。
透明なガラスに360度囲まれて、他の大量のきょうだいたちとともに、人が作った照明と規則正しい水流にたゆたい、最適の温度と外敵のいない理想の箱庭で、ただ心もなくゆらゆらしているだけだった。
同じ種族の大半は、海というこことは比べものにならない大きさの、多種多様な生物の過酷な生存競争のなかで生き抜かなくてはならなかったが、人の手によって生まれたそれは、本物の海も知らず、安全で完璧に管理された生涯を送ることになる。
それは疑問も不安も喜びもなく、ただただ水のように無色透明な生であった。
そんな一日の切れ目さえもない時間の連続のなかで、ある日突然、白々とした光がガラスを通して水のなかに射し込んできた。
静寂しかなかったここに、ざわめきが生まれる。
ちょうど水族館で、人工繁殖に成功した深海生物の展示を始めた日だった。
突然ガラスの向こう側に映り始めた光景。
色や音が水の向こうから降ってくる。
しかし、それら新しい世界の要素にも、それは何も感じることはなかった。
こころを動かそうにも、動くためのこころを持たなかった。
だから水槽の様子が少し変わっても、ただ水のように、ゆらゆらとただようにすぎないでいた。
それはたまたまの偶然か、あるいは深海に潜むなにものかのさしがねか、その時、その小さな生き物は、規則的に循環する水流に乗ってガラスの壁のすぐ近くに流されてきた。
それはまだ、水以外のなにも知らない。
ただ、その鮮烈な明るさに、いつの間にか引き寄せられていた。
水槽の向こう側の歪んで映る世界のなかで、何故かそれだけがはっきりとした輪郭を持っていた。
少女が、幼い少年の手を引いていた。
まだ水槽に背が届かない弟のために、姉が一生懸命に支えてやって、二人して水槽を覗き込んでいた。
その瞬間、その小さな生き物と、小さな彼女と目が合った。
そもそも水にたゆたうそれは、原初の生物に近いごく単純な体組織しか持たない成長段階であったために、眼球という部位すら持ち合わせてはいなかった。
ガラスの向こうの彼女とて、数えきれないほどの大群に紛れている、ごくごく小さな生き物のひとつだったそれの、個体を認識することすらも難しかったに違いない。
しかし彼女らは互いに互いを発見した。
空気という透明なものが満ちた箱と、水という透明なものが満ちた箱が、ガラス一枚を隔てて通じた瞬間であった。
目が合ったと感じたその時、それは己というものを自覚する。
水と同じであったそれが、己と水の世界に境界を引き、ただひとりのなにかに変化する。
そろそろ次の水槽にいきましょうと、母親らしき存在が子どもの手を引く。
「ねぇ、ママ。このあかちゃん、こっちみたよ」
小さな彼女は、水槽を指さして熱心に母親に伝えていた。
母親は娘の言葉に、それは良かったわねと頷きつつ、次の展示物へと子どもたちを誘っていった。
それはわずか瞬き三回の間の会合。
あっけなく短く、しかし、天地がひっくり返るほどの大事変であった。
その夜、田舎街の小さな水族館で、水槽の中に浮かんでいた子どもの姿が発見され、大騒ぎになった。
当初は転落事故か事件と思われたが、いくら調べてもそれらの形跡もなく、突然その子どもが水槽に現れたとしか思えない状態であった。
やがて、周囲の大人たちは理解する。
水から生まれたようなその子どもこそ、ミミックという存在であると。
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