人魚の彼

 白い波が、太陽の光を眩しく乱反射している。

 その目が痛むほど強い光に、少女は目を細めた。

 少女は両手両足を投げ出して、仰向けにひっくり返って空を見上げていた。

 真新しい制服に皺がつこうとも、長いさらさらの黒髪に埃がつこうとも、構わず床に寝転がっている。

 それは無頓着なのか、なげやりなのか、いずれにせよ、恥じらううら若き乙女の姿ではない。

 寝転んだまま少し首を傾ければ、錆びた鉄フェンス越しに、まっすぐに引かれた一本の青い線が見えた。

 海のごく近くに建つこの古びた学校は、校舎のどこからでも海が見える。

 くすんだ灰色の校舎は、元は白い艶やかな壁に囲まれていたのだが、容赦のない潮風に痛みやすく、実際の築年数よりもずいぶんと古く感じる。

 ここは屋上だ。

 遮るものは何もなく、ただ空と海が広がっている。

 空の青と、海の青。

 微妙に違うふたつの青が、どこまでも遠くキラキラと輝いている。

 昨日は雨だったので、湿気を帯びた潮の風に、少し癖のある匂いが鼻につく。

 白い巨大な雲の塊の前を、黒い鳥が矢のように横切った。

 夏を告げる鳥が、今年もやってきたようだ。

 その鳥の影に導かれるように、少女は緩やかに視線を動かした。

 よく晴れた昼休みだというのに人の気配はなく、弁当を広げる生徒もいない。

 誰からも忘れ去られたこの場所は、置き場所に困った備品の墓場と化していて、あちこちにビニールシートを被せた荷物の山が出来上がっていた。

 それは不思議なオブジェのようで、屋上美術館の奇妙な展示品となっている。

 美術部の作品か文化祭の廃棄物か、大きな木製のパネルが立て掛けられていて、かけてあったビニールシートが外れかけていた。

 強い潮風に煽られて、シートが大きくめくれた。

 壊れたのか運ぶのに仕方がなかったのか、パネルは半分に割られていて、絵が途中で途切れていた。

 それは、海の絵だった。

 大きな魚、クジラか何かのイラストは、無惨にも頭がなく、下半身の尾ひれ部分だけが残っている。

 少女の見開かれた黒い大きな瞳に、青い光がきらりと反射した。

 その魚の延長上に、少年の横顔があった。

 今まで気づかなかったが、人がいたのだ。

 ちょうどそのパネルの向こうに座っていて、上半身しか見えない。そうするとまるでその少年は、海の絵の続きにいるようだった。

 黒いボサボサの髪は自由に風に遊ばれて、遠く水平線を眺める瞳はやはり黒。

 白いシャツはこの学校の夏服に間違いないが、どうしてか異国の衣装のように見えた。

 魚の下半身から、人間の上半身が生えている。

 魚の尾を優雅に揺らして、少年は海を見ていた。

 その姿は、まるで……

「……人魚みたい」

 少女は呟いた。

 その呟きが聞こえたのか、あるいは自分を見つめる少女の視線に気づいたのか、ふと、人魚の少年が振り返った。

 そして、自分を見つめる少女を見下ろして、彼もまた呟く。

「ヒヨコ柄……」

「……」

 少女は無表情のまま、いつの間にか盛大にめくれあがっていたスカートの裾を押さえた。

「あっ、いやその、見たわけじゃないからっ」

 少年は、見ていないのであれば柄などわからないはずだという事実に蓋をして、慌てて自分の無罪を主張した。

 腰かけていた荷物の山から飛び降りると、まだ地面に寝転んでいる……正確に表現するなら、スカートの裾を両手で必死に押さえたままなので立ち上がれない……少女の顔を覗き込んだ。

「あの、大丈夫?」

 少女の逆さまの視界の中、青空を少年の頭の形がくっきりと切り取った。

 なかなか起き上がらない少女に、少年は少女が具合が悪くて倒れていると思ったのかもしれない。

 心配そうな顔で差し出された手を、少女はまじまじと見つめた後、控えめに握り返した。

 思いの外強い力で引っ張られて、少女はふわりと体が浮くような感覚に落ちる。

 すとん、と足が床についた。

 少女と少年の目がかちりと合う。

 ゆっくり瞬き三回の後、少年が、ふっと笑った。

「……星みたいだね」

 少女は驚いたように、目をまんまるにする。

 確かにシャツの袖の隙間からのぞく少女の細い手首に、アザがあった。ヒトデのような形の、トゲトゲの白い模様だ。

 少女は隠すように、すばやく手を後ろに回した。

 あまり愛想が良いタイプではないのか、あるいは少年にあられもない姿を目撃されたからか、少女の表情は固い。長い前髪がうつむき気味の顔を半分以上隠してしまっている。

 少女は立ち上がると、女子にしては長身だった。ほっそりと長い手足にしなやかな体つきは、制服の長さがやや足りない印象を受ける。それにまだ冬服のままで、初夏の陽気には少し不似合いでもある。

「すみません」

 謝罪なのか感謝なのかわからない低い呟きに、少年はうっと言葉に詰まって顔を背けた。

「いや、僕こそ謝らないと」

 やはり見たようだ。有罪を認めた少年は、困ったように眉をハの字に下げた。

 少年は、これといって特徴が無いのが特徴な、ごくごく平凡な少年だった。制服はサイズが合っていないのかダブダブで、シャツがベルトからはみ出していた。丸い眼鏡をかけていて、それもおしゃれさとは程遠い地味なものだ。どちらかといえば背は低いほうで、広い額にかかったボサボサの黒髪は、櫛を所有しているのか不安になる。つまり、どうということもない標準仕様の少年だ。

 背が高い少女と並んで立つと、少し少女のほうが背が高いようだ。ので、少年はやや少女を見上げながら首を傾げた。

「ところで千鳥さん、こんなところで会うなんて珍しいね」

 少女は自分の名前を呼ばれたことに驚いたようだった。少年は少女の困惑顔から、少女は自分のことが誰だかわからないと察したらしい。

「あの、僕、クラスメイトね」

 少年は自分の胸を指さす。そこにはネームプレートがあって、彼の名前とクラスを示していた。

『1年1組 折戸谷』

 そして、少女の胸にあるネームプレートには。

『1年1組 千鳥』

「まぁ、まだ同じクラスになって一ヶ月だしね」

 苦笑する少年に、千鳥と呼ばれた少女は気まずかったのか、無表情のまま目をそらした。微妙な空気が流れ、少年はポリポリと頬をかく。

「あの、良ければお詫びにお茶でも……」

 沈黙に耐えかねたのか、罪悪感に耐えかねたのか、あるいはその両方か、少年はへらっと笑ってそんなことを言い出した。

「汚いところだけど、部室があるから寄っていって」

「部室……?」

 少女は首を傾げた。部室と呼べるような場所が、この屋上にあっただろうか。

 屋上にあるのは忘れられた荷物と給水タンクと、それから……

 少女はようやくその存在を思い出して、少年が指さす方向に視線を向ける。

 ぐいっと少年は身を乗り出した。

「ねぇねぇ、ところで千鳥さんって、星とか興味あったりする? 宇宙とか天体とか?」

 突然の質問。

「……え?」

 完全に面食らっている少女の腕を、少年はがっちり掴んだ。

「よかったらついでに見学とかしてかない?」

 言葉は疑問系だったが、有無を言わさず腕を引っ張る力は強制といって差し支えない。

 お詫びとか何とか言っているが、部活見学の部分がずいぶんと熱い。

「いやほんと、ついでにね! お詫びのついでにね!」

 ついでだから、と何度も繰り返す。

 見た目に反して押しが強い。ぐいぐいくる。

 突然の大波なような圧力に押されて、気が付けば、少女は小さな扉の前に立っていた。

 そこには、だだっ広い屋上のそれなりの面積を占有して、コンクリートの塊が鎮座していた。

 壁も屋根も一体となった、のっぺりとしたドーム型の建物。窓もなく小さな鉄の扉がひとつあるだけで、長い間風雨にさらされていたのだろう、ずいぶんと薄汚れている。

 学校の外からは、半円形の突起物が屋上に生えているように見えるはずだ。

 四方を鉄のフェンスに囲まれた灰色のドームは、なかなかに異様な姿のはずだが、しかし驚くほど存在感がない。

「さぁ、どうぞ遠慮なく!」

 やたらと元気な少年の声と、錆び付いた鉄の扉のきしんだ音が、同時に響く。

 少し屈まなくては通れない小さな扉。

 開いた扉からこぼれるわずかな光に、目が自然に向いた。

 少年が開いた小さな扉を潜って、少女はコンクリートの中へ、おそるおそる身を滑り込ませた。

 天井が低いわけでもないのに、つい首を竦めてしまう。

 いつもの屋上から、たった一歩の先にあった、未知の領域。

 そこは、とても明るい光に満ちた空間だった。

 コンクリートの打ちっぱなしの壁は、外壁のボロさに比べればだいぶ綺麗に保たれている。

 さほど広い室内ではないが、本棚やら机やらソファーやらが置かれていた。掃除はきちんとされているらしく、生活感がある。

 もしかしたら、屋上に詰まれていた学校の備品を拝借しているのかもしれない。寄せ集めた備品類に、私物も混ざっているのだろう。

 壁に貼られた写真やポスター。机の上には食べかけのお菓子。色とりどりのぬいぐるみの山。散らかった漫画やファッション雑誌。作りかけで放り出されたミニチュアセット。年代物のラジオからは、ポップなBGMが流れている。

 ぎゅうぎゅうに詰め込まれたそれら。

 雑多で自由、まるで子どもの秘密基地だ。

 そして、おもちゃ箱のような部屋の中で、もっとも存在を主張するものがある。

 大きな台座の上にそびえ立つ、長い筒のような機械だった。胴体部分だけでも人ひとり分くらいの大きさはある。筒状の本体に、何に使うのかわからない計器類が無数についていた。

 ドームの天井はスライド式で、薄く開いた隙間から青い空が長細く見えた。

 太陽の光が帯状に射し込んでいる。

 まるでスポットライトのように、その銀色の望遠鏡を照らし出していた。

 壁一面に貼られたポスターの色が反射して、その一瞬、部屋に青い光が満ちた。

 望遠鏡があるなら、ここは宇宙や星に関する施設だろうに、何故かポスターはすべて海の写真だった。

 ちぐはぐに寄せ集められたおもちゃ達も、同じように青い光が染め上げる。

 灰色のコンクリートに囲まれた小さな空間が、海で満たされたような淡い青になった。

 海底に、望遠鏡が沈んでいるみたいだった。

 少年は望遠鏡の前に仁王立ちになって、白い歯を見せつつキラリと笑う。

「ようこそ、自慢の我が家へ!」

 とぷん、と、泡と魚が跳ねる姿が、少年の後ろに見えた気がした。

 少女は幻想の海の中に漂いながら、ああ、やっぱり彼は人魚だった、とぼんやり思った。



 夏の一歩手前のある昼下がり、部屋のすみに忘れ去られていた子どもの頃の古いおもちゃ箱みたいなその場所で、こうして少年と少女は出会ったのだ。

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