Mimic

@248773

〈博士Aと役人A〉自慢の我が家

 こぽり。

 小さな泡が、垂直に水槽を昇っていく。

 泡と遊ぶように、一匹の魚が流線形の身体をくねらせる。

 青い部屋だった。

 冷たく静まり返った空気に、微かな機械の振動音。

 コンクリートの壁に埋まるようにして、横長の大きな水槽が横たわっている。

 その海を四角く切り取ったような水槽を背景に、白衣の女性は淡く微笑んだ。

「ようこそ、自慢の我が家へ」

 海のように深い青の瞳が、訪問者をまっすぐに見つめる。

 明るい胡桃色の髪を上品にまとめ、繊細なレースが美しいシャツブラウスと濃紺のスカートに、白衣を羽織るという姿の若い女性。

 外国人らしい顔立ちだが、その口から流れたのは流暢な日本語だ。

「お待ちしておりましたわ」

 彼女は訪問者に細く白い手を差し出した。

「お会いできて光栄です、アームストロング博士」

 その手を握り返したのは、女性とは正反対に黒づくめの男だった。

 黒縁の分厚い眼鏡に黒いスーツ、鞄も靴もピカピカの黒革。

 スーツの襟に官庁のバッジが光っている。

「環境省特別生物対応五課から参りました、後神と申します」

 役人らしいその男は、恭しく腰を折り名刺を差し出した。

 名刺の長ったらしい役職名を斜めに見ながら、博士は役人を招き入れる。

 部屋は水槽だらけで、まるで水族館のようだった。

 壁を埋めつくして形も大きさも様々な水槽がパズルのように並び、そのひとつひとつに無数の水生生物が棲んでいた。

 水に潜む彼らは、水とガラスの向こう側から、じっと息を潜めて人間達を観察している。

 そんな部屋に、ぽつんとテーブルが置いてある。

 部屋の中でも一際巨大な水槽の前に置かれたそのテーブルは、会議室で見かける無機質なものではない。

 白い優雅な猫足の英国式で、揃いの椅子が二脚、向かい合っていた。

 ティーセットがすでに用意されていて、薔薇の精緻な模様の白磁のカップからは、紅茶の甘い香りが立ち上る。

 博士は役人を促して、椅子に優雅に腰を下ろした。

 役人も博士にならい、おたおたとテーブルにつく。

 巨大水槽と猫足テーブルと博士と役人。

 青く揺らめく光の中で、会談が始まる。

「博士、ついに例の研究書が見つかったと」

 役人は挨拶もそこそこに切り出した。

 博士は頷くと、一冊の黒い本をテーブルに置く。

「こちらです」

 黒い装丁の本だった。

 いや、本、というよりは、手帳に近いのだろう。

 豪華な装飾が施されているわけでもない、擦れた痕に使い古された感がある、ごく普通の薄い本だ。

 しかし、そのありふれた紙の束を目にした途端、役人は、おお、と歓声をあげた。

「十年ほど前に完成を目前にして、忽然と消えたまぼろしの研究書。こうして本物を実際に目にすることが出来るなんて、感動です」

 役人は満足げに頷く。

「博士もご存じの通り、我が環境省が管理しております生物情報リストには、絶滅危惧種のレッドデータブック、外来種のブルーデータブックがございます」

 しかし、と、他に誰もいないのに、役人はわざとらしく声をひそめる。

「公式には発表されていない、いえ、存在すらしないことになっている、第三の生物情報リストが存在する」

「それがこの、特定生物情報リスト、通称、ブラックデータブック、ですね」

 博士は役人の言葉を引き継いで頷いた。

「探し出すのに苦労いたしましたわ」

「素晴らしい成果です、博士。なにしろあのプロジェクトが頓挫して以来の進展ですから、上も大喜びでしたよ」

「こちらこそ、諸々便宜を図っていただいて感謝しております。特にサテライト・タグの導入は、環境省のお力があってのこと」

 丁寧に頭を下げる博士に、役人はなんのなんのと手を振った。

「それも私どもの仕事ですから」

「あれは対象への負担もあって、反対派も多い中で導入へ踏み切りましたが」

 博士は部屋の片隅で、何かの数値を表示し続けている液晶画面に視線を向ける。

「バイタルサインや行動範囲などを常時監視するためのモニタリングシステムは、非常に有効です。彼らの謎に満ちた生態系の解明には、なくてはならないものと確信いたしますわ」

 博士の力強い言葉に、役人も満足げだ。

 博士と役人の会話は、とても穏やかに進んでいた。

 まるで何かのテンプレートをなぞるように、笑顔も言葉も淀みない。

「この分野の第一人者でいらっしゃる博士の研究に貢献できるなんて光栄です」

「第一人者だなんて。私も駆け出しに過ぎませんよ」

 博士はやんわりと首を横に振った。

「私の専門は深海生物です。こちらの研究は、その派生として始めたばかりですし」

「またまた、ご謙遜を。鯨学に関する研究者で、博士の名前を知らない者はいないでしょう」

「確かに、深海に生息する特定の種の鯨が、私の研究の原点ではありますが」

 博士は水槽に視線を向けつつ、頷いた。

「海は生物の坩堝。陸に生息する種の約十倍、一千万以上の種が生息しています。そのほとんどが未解明の上、新種も発見され続けている。中でも最も研究が進んでいないのが深海なのです。地球上、最も深いとされているマリアナ海溝への到達回数もほんのわずか、片手で数えられるほどしかない。月へ行くのと深海へ行くのと、どちらが難しいかと言われるくらいです」

「海というのは、想像以上に謎だらけなのですね」

「ええ。そして謎は研究者のごちそうです」

 博士のごちそうという言葉に、役人はにやりと唇を歪めた。

「なるほど、ごちそうですか。では、彼らは博士にとって、深海以上に美味しそう、というわけですかね」

 博士は肯定の代わりに微笑んだ。

「彼らについて、小学校の教科書にだって載っています。誰もが知っているのに、でも、誰もが知らない。それは、彼らの代名詞ともいえる能力によるもの」

 博士の言葉を先回りして、役人は答える。

「擬態、というわけですね」

 その通りです、と博士は頷いた。

「そもそも自然界において、擬態は特別、珍しくはない能力です」

「図鑑なんかによく載っていますよね。カメレオンの体の色が変わるあれのことですよね?」

「ええ。他にも木の葉に良く似たコノハチョウや、海底の砂に紛れるヒラメや、景色に合わせて変色するタコなんかも有名でしょうね」

「そうですね。私でもそのくらいなら知っています」

 どれも理科の教科書や、子ども向けの図鑑に載っているような内容だ。

「そもそも擬態とは、己ではない何かをモデルにして〈真似る〉ということ」

 しかし彼女が今語っているのは、教科書には載っていない世界の謎。

 静かに語る博士は淡々として、しかし瞳には恍惚とした熱のようなものが揺れていた。

「爬虫類、昆虫類、頭足類、魚類。あらゆる種が、擬態という能力を持っています。周囲の環境を真似て風景に溶け込む、あるいは己の敵や強者の姿を真似る。それは身を守るためであったり、補食のためであったりと理由は様々ですが、いずれにせよ、生物にとって重大な生存戦略です」

「まるで理科の授業ですね。学生に戻った気分です」

 役人は苦笑する。

 環境省という職場に勤めていながら、それほど理科は得意ではないらしい。

 それもまた、役人らしいといえばらしいのだろう。

「ですが、彼らのそれは、ごく一般的な擬態とは、あまりにもかけ離れている」

 役人の疑問に、博士は頷いた。

「それはまるで魔法にすら思えるほど」

 博士が口にした魔法という言葉に、役人は訝しげな表情を浮かべる。

「科学者であるあなたが、まさか魔法の存在を信じるのですか?」

 博士は笑って首を横に振った。

「いいえ、私は科学者です。どんなに奇跡じみていても、それが魔法のようであっても、いつか解明される現象であると信じます」

「非科学的な存在は、ただ科学的な解明が追い付いていないだけ、ということですね。魔法はいつか科学によって解かれるという」

 博士は肩を竦めた。

「彼らははるか昔からその存在を確認されていたはずなのに、驚くほど研究は進んでいません。人類のすぐ近くにいながら、今までその存在を見過ごされてきた。そう……まるで、誰かにそう仕向けられていたかのように」

 最後の言葉は本当に小さな呟きだ。

 博士の独り言のようなそれを拾ったのかどうか、役人はしかめ面で腕を組む。

「まったく、厄介な存在です」

 ため息は重い。

 それは社会の安全に対する憂いではなく、役人の仕事が終わらないという意味でのため息だろう。

「ですが、このブラックブックがあれば、その魔法を解くことができるかもしれない」

 博士は黒い表紙をそっと撫でる。

「不用意な干渉は避けるべきという意見も強いのです。これまで保たれてきた生態系のバランスを崩すことにもなりかねませんからね」

 博士は淡い笑みを浮かべる。

「しかし、だからこそ、この本なのです。魔法を解く鍵はここにある」

 この黒い本には、博士の求める謎の答えがある。

「まったくです。これで、我が環境省の立場も磐石なものとなるでしょう」

 役人は役人で、なにやら企みがあるらしいが、政治は博士には興味のない話だ。

「まぁ、それは私のような一介の研究者が口を出すことではありませんわね」

 博士はティーカップを口に運ぶ。

 紅茶の白い湯気が、博士のさらに白い顔を撫でる。

 壁一面の水槽に囲まれた部屋。

 役人と博士以外に人影はない。

 しかしこの部屋には無数の目がある。

 岩影に隠れて魚達が、じっと博士と役人の対談を見つめていた。

「私にとって、深海は生涯をかけた研究テーマですが、深海と同じくらい、彼らには謎が満ちている。私には、それでじゅうぶん」

 琥珀の液体の中に、彼女の顔が歪んで映る。

 紅茶の香りの吐息をついて、だって、と、博士は甘く囁く。

「彼らが擬態するモデルは、我々人間なのですから」

 役人は黒縁眼鏡を押し上げて、博士の言葉の先を続ける。

「人間ではない生物が、人間のような姿で、人間のように振る舞い、人間の社会に溶け込む。擬態人間、とでも言うべきものたち」

 博士は、恋する乙女のように、うっとりと微笑む。

「ミミック」

 水槽越しに、魚はじっとこちらを見つめている。

 役人はその小さな魚と目が合った気がして、眉をひそめた。

 博士はもう、役人を見てもいない。

 彼女の愛しい彼らに心を奪われている。

「深海と同じくらい、興味深い研究対象ですわ」




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ミミック - Mimic -

<真似る> <似せる>

生物学における、擬態を意味する。

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