第109話 老いた天才剣士は重要人物 リィブン平原の会戦(6)



 全力で走っていた敵兵の速度がどんどん落ちて、その足が、足首、ふくらはぎ、と動かすたびに沈んでいく。

 守備陣の左へと殺到した敵兵は、次々にその動きを鈍らせ、さらには後ろから味方に押されて倒れていく。


 ばしゃっ、ばしゃっ、という水音が聞こえる。


 ・・・あっちは湿地帯なんだよ。部分的に、だけれどな。


 湿地帯に足をとられて動きの鈍った敵兵に、陣内から狙い撃ちで矢が放たれる。


 長槍隊への敵軍の圧力も分散し、後退が少し楽になる。


「みごとにはまったな」

「ええ。あの、右への指示は助かりましたよ」

「気づいたか?」

「あれのおかげで湿地帯のことを思い出しました」

「それは良かった」


 残る歩兵隊は十二組。


「陣内から一斉射ののち、一気に戻るぞ!」


 トゥリムの声に、歩兵隊が、おう、と応じた。


「テツ!」


 陣内の弓兵が弓を構える、すっという音がそろって聞こえた。

 不思議なものだ。


 戦場の中のほどよい緊張感にいろいろなものが研ぎ澄まされていく。


「槍! 前進五歩! 突進! 弓、後退せよ!」


 長槍兵二十四名が最後の突進をかけ、敵を屠る。弓兵は先に陣へと駆け込む。


「全力後退!」


 長槍兵が、中には長槍に敵兵が刺さったまま、全力で走っておれとトゥリムを追い越していく。


「一斉射っっ!」


 ひときわ大きく、トゥリムが叫んだ。


 ざっ、という音とともに、ここまで温存していたテツの矢が飛び、最後の突進で崩れた敵兵の列へと突き刺さる。


 これまでの矢とちがい、そこにいた敵兵の一団が一気に崩れた。


 守備陣と敵兵の間に、ゆとりある空間が生まれた。


 やはりテツの矢は怖ろしい。


 おれとトゥリムが丸太を使ってはしご状につくられた落とし橋を渡ると、ロープが引かれて橋が跳ね上げられていき、守備陣の門にふたをした。






 守備陣の左側面の木柵の打ち込みも、残すところ、あと少し。

 作業を進めるフィナスン組は落ち着いたもので、ひとつも慌てたようすはない。


 左側面に回り込んで攻め寄せてきた敵兵の足は、湿地帯のぬかるみにはまってまともに動かない。


 中には、膝や、ふとももまで沈んだ敵兵もいる。


 オーバも、とんでもない場所に最初の陣を築くように指示したものだ。


 弓兵の中でも狙いの正確な者が左側面の守備にあてられた。

 ろくに動けない敵を淡々と弓兵がしとめていく。


 正面、右側面にも敵兵は押し寄せつつあるが、右の敵兵はあらかじめかなり削っておいた。


 陣の後方も含めて包囲されるまでまだ時間があるだろう。


 陣に入った長槍兵は長槍の留め具をひとつ外して、長槍を普通の槍とそれほど変わらない二メートルくらい長さに戻し、陣の木柵にとりつく敵兵を陣の中から突き落としていく。


 テツでできているからやや重いとはいえ、この長さなら自在に振り回せる槍になるのだ。


 フィナスン組が掘った堀の深さは一メートルの半分くらい。浅い堀だが、幅はぎりぎり一メートルくらいか。

 陣側は掘った土が盛られて少し高くなっている。その土をこの戦いのあと、さらに固めて木柵は安定感を増すはずだ。


 攻め寄せてきた敵兵は、一度堀に下りて、陣にとりつくために跳び上がると、そこを狙って槍兵がひと突きで堀へと突き落とす。


 堀へと落ちた敵兵は後ろに続いていた別の敵兵の上に倒れて巻き添えにしていく。


 頭などを突いた場合には即死もある。


 さっきまで外で戦っていた歩兵隊は、長槍兵も弓兵もすべて守備陣の中に入り、敵軍から見ればこれはもう攻城戦と同じ状態になっている。おれたちからすれば守城戦だ。


 敵軍の目標はおそらく陣づくりの妨害だろう・・・と思う。


 だから、攻城戦をする必要はない。

 こうなったら作戦失敗で引上げればいい。


 陣内に苦労して逃げ戻ったおれたちが、後退する敵軍をわざわざ追いかけて追撃するはずがない。

 もちろん、実際にそうなったとして、トゥリムは追撃を命じないだろう。


 それなのになぜこいつらは軍を退かないのか、と考えていくと・・・。


 おれは守備陣の左側面の見た。

 フィナスン組が相変わらず楽しそうに作業をしている、ように見えた。


 ・・・いや、これまでの正面や右側面の木柵の打ち込みとちがって、本当にのんびり作業してやがるよ、こいつら。かけ声がどう考えてもさっきまでよりゆっくりになってる。


 誰の指示だ?

 おれじゃない。トゥリムか? それともスィフトゥ男爵か?


 ・・・まさか、オーバじゃないだろうな?


 あり得る。

 オーバなら。

 あいつなら、そこまで含めて読み切っているのかもしれない。


 フィナスン組は、とにかくオーバの指示に忠実に動く。

 しかも、優秀で、幅広くさまざまな目的に動かせる。

 そういう連中だ。


 敵軍の指揮官は、まだおれたちの守備陣が左側面を残して完成していないから、中に入ってこの陣を打ち破り、食糧なんかを手に入れられると、思ってるんじゃないか?


 おれたちからしてみると、あれだけどっぷり深みにはまる湿地帯があるなら、そっちの木柵なんか足りなくても十分守れる。足の遅い兵士など、ただの的だ。


 五倍の兵数といっても、すでにかなり削った。

 戦っている敵兵の多くは負傷した者だ。


 まあ、このままこの陣に攻め寄せるのなら、丁寧に槍と弓で対処するだけだろう。


 トゥリムの指示があちこちに飛ぶ。


 副官と団長格の兵士がそれぞれ四方に分かれ、兵士が交代で休憩をはさめるように気を配りながら木柵を手堅く守る。






 フィナスン組が最後の木柵を打ち込み始めた。


 湿地帯側には多くの敵兵がいるものの、守備陣にはほとんど近づけていない。


 フィナスン組が使っていたふたつの台の上には四人の弓兵が立ち、見晴らしのいい高さから次々と矢を放っている。


 他の木柵に押し寄せる敵兵も特に問題なく跳ね返せている。

 歩兵たちはよく集中し、油断もない。交代で水を飲むことも、パンをかじることもできる。


 敵兵は必死の形相で、傷だらけ、血だらけになりながら、陣の木柵を乗り越えようと迫ってくる。


 相手は命がけなのに、おれたちはまるで作業をしているかのようだ。


 堀から木柵のところまで上がってくる敵兵を、槍を持った歩兵がひたすら突き落とす。


 敵兵の厚みが増したところには、トゥリムの指示で移動してきた弓兵たちが一斉射でその数を削る。


 千五百いたはずの敵兵は、はっきりと分かるくらい、減っていた。


「ジッドさま」


 不意に、弓を持った歩兵から声をかけられ、慌てておれはふり返った。


「どうした?」


 見ると、弓兵の中でも、一、二を争う腕前の者だ。

 アコンで訓練を続けた結果、ノイハに憧れているらしい。

 ノイハはアコンで最高の弓使いだからな。


 さっきまで、フィナスン組の台の上から湿地帯の敵兵を狙っていたはずだが?


 台の方を見ると、別の弓兵がのぼって弓を引いている。


「気になることが」

「早く言え」

「敵陣から、兵が出ています」

「はあっ?」

「台の上から、見えたんです」

「敵陣から兵が? なぜトゥリムに伝えない?」

「ジッドさまの方が近かったので」


 そう言われてみると、トゥリムは陣の右側面に近い位置で指揮している。湿地帯側となる左側面は湿地のおかげでもっとも守りやすいからだろう。


「おれは台にのぼって確認する。すぐトゥリムに知らせろ」

「はい」


 おれと弓兵は互いに反対側へと走る。


 敵陣から新たな敵兵が出てきたとして・・・。

 ん・・・。


 どうだろうか?

 特に、何も問題はない、気が、するぞ?


「場所をあけてくれ」


 おれは台の下から弓兵に声をかけた。

 片方の弓兵がすぐに台からおりて、おれに場所を譲る。

 迷わず、遠くの敵陣を見る。


 確かに、敵陣からぞろぞろと人があふれ出てきていた。


 今ごろ?

 しかも、急ぐようすもない。まるで単に移動するかのような速度だ。


 この戦いの最初に飛び出してきた敵兵のような勢いはまったくない。まるでフィナスン組の作業のようにのんびりとしている。


 そう言ってしまうとフィナスン組に失礼な気もするが・・・。


 あっちからは、ここの戦いがどう見えているのか?

 増援部隊だとしたら、あの行軍の遅さは罠か何かだろうか?


 敵陣との距離がありすぎて、敵兵の動きを見ていても理解ができない。

 ただ、確かに敵陣から敵兵が出てきているというのは弓兵の報告、その通りだった。


「ジッド殿!」


 弓兵とともに走ってきたトゥリムが叫んだ。「敵陣から増援が?」


 気を遣って弓兵が台からおりたので、トゥリムがそのままおれの隣に立った。


「増援かどうかはよく分からんが」


 おれは敵陣を指す。

 トゥリムも目を細めて敵陣を確認した。


「確かに、敵陣から出た兵士たちがこっちに進んでいますね。しかし、なんだ、あの遅さは?」

「何か、企んでるのか?」

「・・・いえ、分かりませんね。まあ、今さらどれだけの数で攻め寄せてきたとしても、この守備陣にたてこもって戦うのならば敵兵の数は問題になりませんし」

「ここを通過して、ツァイホンを目指すとか?」

「まさか?」

「だよなあ・・・」


 本当に、何を考えているんだろうか?


「とりあえず、疲れている今の敵兵と戦う間に、多めに休息をはさめるようにして戦いましょう。新たな兵は、五百は動いているように見えます。あれが来るのなら、こっちが考えていたよりも、戦う時間は延びるでしょうから」

「そうだな」


 おれとトゥリムは台をおりて、弓兵に場所を譲った。そのままスィフトゥ男爵にも敵の増援について伝えたが、男爵にも相手がどんな意図で動いているのか、思いつくことはないようだった。





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