第98話 海沿いで発酵食品をつくる男の話



 海を見下ろす断崖の上。


 別に、飛び降りようってことではない。


 無限に広がる海を見る。


 空と海の、ちょっとした色違いの青さに。


 いつも圧倒される。


 振り返れば、丸太を組んで建てられた大きな屋敷。

 そして、茅葺き屋根の、いくつもの土蔵。


 聞こえてくる、弟子たち、職人たちの声。


 あれからもう二十年も経ったのか、と。


 波の音が遠くから、耳に優しく、響く。






 わっしの運命を変えた瞬間は、間違いなく、あの時。

 カスタの町の顔役で、地引き網の網元の大親分、ナフティの旦那に急に呼び出された、あの時。

 ナフティの旦那のところの若いもんが何人も突然やってきて、とにかく来い、と引きずられた、あの時。

 一人の青年の前に引きずり出された、あの時。


 その青年は、なぜか、大親分であるナフティの旦那でさえ、ものすごく気を遣っていた。


 ナフティの旦那の方が、ずいぶんと年上だろうと思うのだが、「兄さん」と呼んでいたのだ。


 これは、とんでもないところに連れてこられた、と。

 わっしがいったい何をしたんだろうか、と。


 何もした覚えがなかったのに。


 ただでさえ、ナフティの旦那に呼び出されたという怖ろしい状況に。

 加えて、立ち尽くして固まるナフティの旦那のところの若いもんたち。

 誰も、何も、言わないし、動きもしない。


 その緊張感たるや、表現しようがない。


 かろうじて、ナフティの旦那だけが、「兄さん、連れてきやした」と。


 わっしを呼んだのは、この青年の方だったのか、と理解した。


 この町を実質的に統べる大親分に「兄さん」と呼ばれ、気を遣われている青年。


 領主などの貴族たちか、もしくは王族か。


 なんか、とんでもない人なんだろうか、と。


 その青年は、わっしが魚の臭みとりにつくった味付け種のことを。


 「みそ」と名付けた。


 もともと、特に名前はなかった。ただの臭みとりの味付け種だ。

 どんな名前になろうが、かまわない。


 ・・・不思議と、しっくりくる名前だったが。


 それから、「みそ」の作り方をとてもくわしく説明させられた。


 説明を少しでもおろそかにすると切り捨てられるかのような雰囲気の中で。

 わっしは一生懸命、「みそ」と名付けられた臭みとりの味付け種の作り方を説明し続けた。


 その日、どうにか無事に家に戻ったのだが、家までどう歩いたのか、記憶があいまいだった。


 あの青年はいったい何者だったのか。

 とてつもない緊張感の中で。

 とにかく、どっと疲れる時間だったと思う。


 翌日、ナフティの旦那のところの召使いの女が、わっしのところに麦やら魚やらをたくさん届けてくれた。


 よくやった、兄さんにはとても喜んでいただいた、これはその褒美だ、と。


 召使いの女も含めて、褒美が我が家にやってきた。

 その女はわっしの女房になった。


 わっしは、結婚できるなんて思っていなかった。


 突然の出来事に戸惑いながらも、女と二人、仲良く暮らした。






 二ヶ月後には、ナフティの町の一番奥、海を見下ろす断崖の上に、ナフティの旦那が建てた土蔵を贈られた。町の一番奥なのは、もしも町が攻められたとしても、一番最後まで守れる場所だから、ということらしい。


「この土蔵をわっしに?」


 本当は許されないことなのだが、わっしはナフティの旦那に直答した。

 ナフティの旦那は、わっしの直答をいっさい咎めなかった。


 それどころか、これからは、おまえさんは「兄弟だ」と言われた。


 ナフティの旦那の兄弟。


 それは。

 ある意味では、この町の頂点のひとつ。


 そう言われてから、ナフティ組の若いもんが、わっしのことを「オジキ」「オジキ」と呼んでくる。


 町のごく普通の人たちは、ナフティ組から「オジキ」と呼ばれるわっしを見ると、みんな頭を下げてあいさつをする。


 わっしは、なぜか、カスタの町で、2番目に重要な人物になってしまった。






「この土蔵で、できるだけたくさんの「みそ」を作ってくれ」


 ナフティの旦那は、旦那と呼ぶな、兄弟と言え、などと言いながら、そう言った。


「兄さんのために、「みそ」がたくさんいるんだ。ここだけの話、「みそ」がなけりゃ、兄さんに殺されちまうかもしれねえんだよ」


 ・・・とんでもなく怖ろしいことを聞いてしまった。


 わっしはもう、ナフティのだ・・・兄弟とは離れられないようだと分かった。


 ナフティの兄弟の命を握っているのが、実はあの青年で、そして、あの青年の機嫌は、わっしの作る「みそ」次第だということらしい。


 わっしは懸命に「みそ」を作った。


 わっしの「みそ」の出来次第で、ナフティのだん・・・兄弟の命にかかわるってことは、それはわっしの命にも直結しているってことだ。


 わっしの「みそ」作りは、失敗が許されない、カスタの町での最優先事項のひとつとなった。






 ある日、ナフティ組の若いもんじゃなく、ナフティの兄弟が慌てて土蔵にやってきた。


「て、てえへんだ、兄弟よ!」

「どうしたあ、ナフティの兄弟」


 この頃には、兄弟、と呼ぶのも少しは慣れていたんだと思う。


「こここここ、この町によ、おおおお、王都の、さささ、最高神殿から、つつつつつつ、遣いがきたんだ!」

「へえ、そうかい」

「へえ、そうかいじゃねえよっ、兄弟! しっかりしてくれっ!」


 しっかりしてほしいのは、ナフティの兄弟の方である。


「男爵の遣いやら、辺境伯の遣いやら、今までだって、いろいろあったじゃねえか、兄弟。確かに王都からってのは、驚いたが、それでも、そんなに慌てるこたあ、ねえだろ?」

「そそそそ、そうじゃねえって。ささ、最高神殿の、みみみみみ、巫女長さまがよぅ・・・」

「おう、巫女長さまが、どうしたんだい?」

「兄弟の作った「みそ」を譲ってくれってよぅ」


「な、ななな、なんだってぇぇぇっっっ???」


 わっしは慌てた。


 わっしが慌てると、不思議なもので、さっきまでものすごく慌てていたナフティの兄弟は逆に落ち着きを取り戻していった。


「落ち着け、兄弟」

「こここ、こ、これが、おおお、落ち着いて、いいい、いられるかっての」

「大丈夫だ、兄弟の「みそ」は兄さんが認めた、最高の味付け種だ」

「お、おおお、おう、そ、そそそ、そりゃ、そそそ、そ、そうだ」

「今、つぼ、ひとつ分くらい、余りはあるかい?」

「つつつ、つぼ、つぼ、ひひひ、ひとつでいいのかい、ききき、きょう、だい?」

「ああ、ひとつでいいさ。もともと「みそ」は兄さんのための物。いくら、王都の最高神殿の巫女長っつったって、そんなにいくつも差し出す訳にゃあ、いかねえよ」

「き、ききき、きょう、だい? ちちち、ちょっと、まま、待ちなよ」

「なんだい、兄弟?」

「な、なな、なんで、巫女長ってのが、わわわ、わっしの「みそ」のこと、ししし、知ってるんだ?」

「おぅ?」


 ナフティの兄弟が変な声を出して首をかしげた。「そういや、なんでだ?」


 わっしは、震えが止まらなかった。


「きき、兄弟、よよよ、よく聞いてくれ」

「おう?」

「わわわ、わっしの味付け種のことを、みみ、「みそ」と呼んだのは、あああ、後にも、ささ、先にもだな、あああああ、あの、兄さんだけ、なんじゃねえのか?」

「・・・そういやぁ、そうだな」

「そそそそ、それは、つつ、つまり・・・」

「つまり?」

「あ、あの兄さんと、みみ、巫女長ってのが、つつつ、つながってるって、こここ、ことなんじゃ・・・」


「な、ななな、なんだってぇぇぇっっっ???」


 ナフティの兄弟は再び慌てた。


 ナフティの兄弟が慌てても、わっしが落ち着くことはなかった。


「ま、まま、まずいぞ、きき、兄弟。いいい、いくつ、つぼは、あああ、あるんだい?」

「おおお、おう、きょうだ、い。つつ、つぼは、みみ、三つは、あああ、あるはずだ」

「じじじ、じゃあ、ふふふ、二つ、わわわ、渡すのが、い、いいのか?」

「そ、そうすると、あああ、兄さんに、一つしか・・・」

「いい、いかん、いかん。そそそ、そいつぁ、いかんぞ、兄弟!?」

「じじ、じゃ、やっぱり、ひひ、一つか?」

「そそそ、そいつもいかん! いかんぞ、兄弟!?」

「どどどどど、どうする、き、きょ、うだい?」

「どどど、どうしよう、兄弟?」


 わっしとナフティの兄弟は抱き合って震えた。

 どちらにせよ、命がけだ。

 この一件に兄さんがからんでいる限り、それは全て、「命がけ」の一件となるのだ。


 そこに、土蔵の中から、ひょっこりと女房が顔を出した。


「男ってのは、いざってときに、ダメだねえ。暑苦しいから抱き合ってないで、とっとと新しいつぼを用意しな! 今ある三つのつぼから、少しずつ「みそ」を別のつぼに移して、つぼを四つにすりゃいいだけでしょ」


「「その手があったか!!」」


 女房が出した解決策によって、わっしらはこの危機を乗り越えた。


 カスタにやってきた巫女長の遣いってのが、王国最強と呼ばれる一軍である神殿騎士の一人だったんだが、そんな話を後からナフティの兄弟として、ますます、「兄さん」ってのが何者なのかって、不安になったことを覚えている。


 ちなみに、その神殿騎士は、再びカスタを訪れて、巫女長からの感謝の言葉と宝剣をナフティの兄弟に授けた。


 ナフティの兄弟はわっしに宝剣を渡そうとしたが、わっしには必要ないと断った。


 この時の宝剣をナフティの兄弟は自分の物とせず、町の宝とすると決めた。

 わっしは、さすがはナフティの兄弟だと思った。


 本当に尊敬できる親分なのだ。






 それからしばらくして、ナフティの兄弟は、わっしら夫婦のために、土蔵の近くに丸太の屋敷を建ててくれたのだった。






 わっしが「兄さん」に再び会ったとき、「兄さん」の傍らには、女神さまがいた。その、女神さまってのは、わっしら、カスタのもんが勝手に女神と言うとることで、その女神さまは本当は「兄さん」の妻の一人ということだ。クマラさまという。


 わっしら、カスタのもんは、クマラさまを「実りの女神」と呼んだ。


 それは、クマラさまが、カスタで水田を切り拓いてくださったからだ。

 もちろん、実際に切り拓いたのはカスタの男衆だが、どこに、どのようにという細かな指示は、全てクマラさまが出していた。

 もっと正確に言えば、クマラさまのお声はとても小さかったので、それを聞き取った「兄さん」がテキパキと指示を出してくださっていたというのが本当のところだ。


 そうして切り拓いた水田での稲作は、カスタの町の地位を大きく押し上げた。


 作物といえば、麦や豆しか知らなかったわっしらに、クマラさまは米を与えてくださった。スレイン川の下流域で、水量豊富なカスタ近郊は、今なら、稲作の最適地だったと言える。


 クマラさまの指示で、水田での稲作を始めてから、カスタで飢え死にする者はいなくなった。


 それに、洪水の被害も激減した。水田への水路を通じて、スレイン川から水田へと河水が流れることで、洪水になるような水量のときも、水田があふれそうな水の受け皿になったからだ。


 わっしらにとって、クマラさまは「治水の女神」でもあった。


 それに、何よりも、「米」だ。

 米は、カスタの町を大きく変えていった。


 ほんのわずかな種もみを残して、後は全部食べられる。わずかな種もみは、翌年、大量の米となって戻る。米というのは、一粒が何万にも増えるような作物だったのだ。これは「兄さん」が、「米ってのは一粒万倍なんだ」って教えてくださったことから学んだ。


 米によってカスタの町は、周辺の町をいろいろな意味で大きく上回っていく。そして、最終的には、国内で最大の都市となる。


 そんな中、「兄さん」から、こんなことを言われた。


「米から酒を造ってほしいんだよ」


 それが、たとえどんなに小さなつぶやきだったとしても、「兄さん」の一言は、わっしらを縛る断ち切れない鎖のようなものだ。


 それは、わっしとナフティの兄弟との、新たな命がけの挑戦の始まりだった。


 わっしらは、とにかく「兄さん」が何かを求めたら、それを達成しなければ「兄さん」に殺されるかもしれない、と・・・。まあ、そんな風に思っている部分があった。


 この思いってのは、かつて「みそ」の一件で、ナフティの兄弟が「殺す」と言われたことに始まっている。ナフティの兄弟によると、「あんな殺気を浴びせられたのは後にも先にも一度きり」ということだ。


 結局、この二十年間で、「兄さん」が、わっしや、ナフティの兄弟に辛くあたったり、命を要求したり、ということは一度もなかった。


 振り返ってみれば、わっしやナフティの兄弟が、勝手に「兄さん」におびえていただけなのかもしれない。


 ただ、その「恐怖」を原動力として、「命がけ」でいろいろなことに取り組んできたからこそ、わっしや、ナフティの兄弟はもちろん、カスタの町自体が大きく成長したのだと思う。


 今、ここに暮らす町の人たちは、そんなことは知らないのだろうけど。






 海を見下ろす崖の上には、大きな丸太の屋敷と、七つの土蔵。何年もかけて、土蔵は増えていき、いつしか七つになったのだ。


 それとともに、弟子たち、職人たちもどんどん増えていった。

 丸太の屋敷は次々と増築されて、どんどん大きくなった。


 わっしは見たことないから知らないが、アルフィのフィナスンによると、辺境都市の男爵の屋敷よりもわっしの屋敷の方がかなり大きいらしい。町を支配するお貴族さまより大きな屋敷ってのは、よく考えてみると、とんでもないことかもしれん。


 そもそも、いつの間にか、わっしの屋敷の方がナフティの兄弟の屋敷よりも大きくなっていた。「みそ」造りと「酒」造りを行う関係で、そうなるのは仕方がなかった。


 本当に、この20年の間に、いろいろなことがあった。


 辺境伯領から、カスタは男爵領となり、赤い竜が現われたこと。

 稲作が始まり、米を食べることで、多くの人口を支えられるようになったこと。

 内乱が続く北部や中央部からたくさんの人たちが移住してきたこと。

 内乱をおさめた新たな王が、カスタと別の都市を交換して男爵に与え、カスタを新しいスレイン王国の副都としたこと。

 カスタが王国で最大の都市になったこと。

 カスタの「酒」が王家から最高の褒め言葉を頂いたこと。

 味付け種の「みそ」が、「兄さん」から教わったいろいろな料理に使われ、それが人気が出て、市井の人々に広まったこと。

 ここの土蔵で造られた「みそ」と「酒」の稼ぎで、ナフティ組が、王国で最大の組織となったこと。


 波瀾万丈、と言える人生だった気がする。


 ナフティの兄弟が3年前に死んで、ナフティ組はそのまま若頭に継がせたのだが、わっしには後見人として面倒を見てほしい、と若頭に頼まれた。それで2年ほど、王家や神殿とのやりとりにはわっしも顔を出したが、今はもう、新しい親分に任せても大丈夫だと分かり、すっかり身を引いた。


 崖の上の屋敷と蔵は、今でも、カスタで最大の規模を誇る。それは王国で最大、ということになる。


 ナフティの兄弟との、かけがえのない思い出が、ひとつの形となったものが、この屋敷と蔵だ。


 酒蔵やみそ蔵は、今ではウチ以外にも、いくつかカスタの町の中にある。


 どれも、弟子たちがわっしのところから独立して、頑張って建てたものだ。まあ、場所の確保なんかは、わっしが手助けはしたんだが。


 この前、アルフィの町のフィナスンがふらっと遊びに来た。あいつも引退したのだが、まだまだ大親分としての影響力が強いらしく、何人もの護衛が隠れてついていた。


 それから、国王とフィナスンとの三人で、ウチの酒造の一番いい酒で一杯やって、昔話にいろいろと花を咲かせた。


 わっしらの出会いから、もう二十年だ。みんな、それだけ歳をとった。


 先に引退した者として、そろそろ後進に道を譲れよ、と言ってみた。国王も、フィナスンも笑って、もう、そうしてる、と言った。国王は本当に退位するらしい。


 つまり王太子が即位するのだが・・・。






 王太子の顔を見る度に、わっしは思わずびくっと背筋が伸びてしまうのだ。






 国王は全てを分かっているし、フィナスンもたぶん、わっしと同じだ。その、王太子を見てわっしの背筋が伸びる理由は、わっしらが墓場までもっていかなきゃならない王国の重大な秘密のひとつなんだろうと思う。


 二ヶ月前に亡くなった女房の笑顔を思い出す。

 本当にいい女房だった。


 三人の子どもはみな巣立ち、それぞれの人生を生きている。


 屋敷の外に出て、崖へと向かう。


 もう、歩くのも、ゆっくり、ゆっくりとしか、歩けやしない。


 そうして、やっとのことで崖の端へとたどり着く。

 崖から見える海の青さと、空の青さに魂が吸い込まれそうな気がした。

 そろそろ、わっしも、お迎えがくるのだろう。


 あっちで女房やナフティの兄弟が待っているのなら、死ぬのもそんなに悪くはない。


 二十年前、ほんのちょっと、魚の味付けにこだわっていただけの、器の小さな男が。


 まさか、こんなに大きな屋敷に暮らして。


 こんなにたくさんの藏を所有し。


 王国で一番どでかい町の大親分と呼ばれるなんて。


 そんな人生になるなんてことは考えてもみなかった。





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