結論、天気の子のテーマって?

 ズバリ、この映画のテーマとは、個人の正義と世界の正義の食い違い。ここでは、『愛』と『公共の利益』の対比になります。それぞれが個人の掲げる正義となりうるものです。警察と穂高君の描かれ方にもこれが顕著に現れている気がいたします。

 現代の日本は公共の福祉がああだこうだと騒がれるような、ちょっぴり社会主義的な時分です。でも、万人共通の正義など、悲しいかなこの世には存在し得ないことは、誰もがこれまでの人生の中で痛感してきたのではないでしょうか。多くの人の、何気ないそこそこに満たされた日常の中で、誰かが自分を押し殺す苦悩を抱えながら生きていることは、意外にも目立たなかったりするのが現状です。世界の正義のために、一部の個人の犠牲が払われる。社会的生物である人間が抱え込んだ歪です。

 こんなことを論じたあとではなんですが、僕はそれがおかしいから変えなければならないと考えているわけではないし、新海監督もそういった考えを持ってこの『天気の子』という物語を編んだのだろうと推測します。世の毒を飲みくだしたような結論ですが、この歪は仕方がなく生じたものではあるのです。皆が皆、自分の好き勝手に振る舞えば、この世界は一瞬にして無法地帯と化すため、どこかで犠牲を被る人が出てくるのは必然です。それでも自己を封じ込めるというのはとても苦しいことだし、大変な労力をともなうことです。だから、自身が正しいと思った道を突き進むことも、公共の福祉に従って無難に生きることも、成否をああだこうだ言える立場に僕たちはいないのです。たとえ決して曲げられない『愛』が、個人の単なるエゴが、そこに絡んできたのだとしても、どちらが正しいとかいうことは言えません。だからこそ僕らは僕らなりの答えを見つけ出して日々を生きています。穂高と陽菜も、同じく。

帆高と陽菜が選んだ世界が正しかったのか、僕には僕なりの答えがありますが、ここでそれをわざわざ述べるのはナンセンスなのでしょう。答えが一つに決まらない問いです。

 つまりは、「面白い」か「面白くない」かといった観点以外での論争が白熱してもおかしくない、というよりそんな論争の嵐が吹き荒れるべき作品なのです。


 まだご覧になっていない皆様は、私のこの長ったらしい解釈を、一人の人間のつぶやきとして頭の隅っこに追いやって頂き、存分に映画を楽しんで、それから物語の深い余韻をもってして、自分なりの見解と批判を見つけ出していただければなと思っています。

 実際にご覧になった皆様は、どんな考えを持ったのでしょうか。この文章が皆様の映画鑑賞のほんの一助となれたことを願います。何度も同じようなことを繰り返しますが、『天気の子』に、明白な答えはありません。それぞれがそれぞれに答えを見いだせたのなら、文字に起こしてもよし、身近な人と語り合うのもよし。いろんな形で、『天気の子』をまだまだ盛り上げていきましょう!

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天気の子に見る正義論 星野響 @H-Hoshino

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