最終話 結晶

第十一ラウンド、残り時間は分からない。


俺は満身創痍の体を引き摺り、血走った眼で駆け寄る王者を迎え撃つ。


(…何だよチャンピオン…そんなにガード下げて…らしくもない。)


直後、鬼のような形相から飛んで来る、王者の反動をつけた右。


その衝撃は大きくまるで疲れなど見えない、俺はガードするもそのまま押される様に後退りロープを背負う。


苦しいこの状況で俺が放つべきパンチ、いや…放てるパンチは一つしかない。


そしてたった一つの武器を振るう為耐え凌ぐも、背中にロープが食い込み晒される嵐のような猛攻。



パンッ!



小さく響く心細い音、それは暴風の間隙を縫って放たれた俺のジャブ、これだけは絶対に外さない。


自信があるんだ、例え分かっていても避けられないと。


何故ならば、そうなるように作ってきたんだから。


「…くっ!!」


しかし王者はガードが堅いと見るやすぐさま切り替えレバーブロー、内臓が抉れたかと思えるほどの痛みと苦しみ。


体が完全にくの字に折れ曲がってしまった、しかし強い意志を宿した視線だけは王者を捉えている。


なんだかんだ言ってもやはり王者にも疲れはある様で、打ってきたのは少々力み過ぎの大きな右フックだ。


その一瞬の隙を俺は逃さない。



パンッ!



どんな体勢になっても、これだけは変わらず打てるんだ。


その為に気の遠くなるほどの時間を費やしてきたのだから。


綺麗に顔の真ん中を射抜いた直後、王者の口が大きく開いているのを確認。


漸く目に見えて余裕がない表情を見せてくれた。



パンッ!



早く決めたいと焦りがあるのだろうか、段々と一発一発が大振りになってきた。


迫力はあるが、こうなれば格好の的。



パァンッ!!



王者が力任せに右を叩きつけてきた直後、一瞬意識が飛びかけ体がずるりと斜めにずれる。


だがそれが功を奏し続くフィニッシュブローを偶然躱す事が出来た。


そして大きな空振りをすれば当然王者も体が揺らぎ、俺はここだと狙い澄ました強めの左で顎を貫く。


すると王者は次を放とうと振りかぶった体勢のまま、ふらふらと後退していった。


まさに千載一遇、一気に距離を詰めたいが今の俺にはそれは叶わず、爪先を擦りながら確実に前に進みその瞳を覗き込む。


しっかりと正面に捉えているつもりだったが、気付けば少し軸がぶれているようだ。


何故だと思いきや、両者とも右に左にフラフラと足元が覚束ない。


それでも気持ちだけで振りかぶると、互いのパンチが肩に掛かる様な体勢になりレフェリーが割って入る。


そして互いが体を預けたままゴングが響いた。



▽▽



ゴング直後、互いが逆方向に歩きだしてしまい両陣営に引きづられる様にして椅子に腰掛ける。


「…ラストラウンドだよ。力を込めて打とう。君の全てを賭けて。」


しっかり声は聞こえている。


だが返事を返す余力すらないため、俺は只小さく頷いた。


「坊主…最高の試合だ…ついでに最高の結果も見せてくれよ。」


牛山さんらしくもない、声が震えているじゃないか。


「…遠宮君…私…この場所にいられることが本当に誇らしいよ。」


及川さん、いてくれて有難いのはこっちの方だよ。


最後のインターバルが終わり足に力を籠め立ち上がると、踏ん張りがきかず前につんのめってしまった。


だが丁度いい、このまま前に進むとしよう。


対角線を見やればエルヴィン選手の足取りも重く、リング中央にたどり着いたのは俺が先、思いがけず迎え撃つ形になってしまった。


そしてどちらからともなくグローブを突き出し、パシンと合わせ最終ラウンド開始の挨拶とする。


場内のボルテージも最高潮。


ワァッと沸き上がり、大歓声が体をびりびりと震わせる。


向き合う両者の構えは全く同じ、目線までグローブを上げたオーソドックススタイルだ。


そして歓声に乗せられる事無く、只々睨み合いフェイントを重ねる両者。


俺も…恐らく王者も打ち合いたいのは山々だが、残念な事にもうその余力がないのだ。


正直な事を言えば、拳をちゃんと握れているのかすらも定かでなく、肩より上に持ち上げているだけで精一杯。


だから両者共に、渾身の…たった一瞬の刹那に全てを賭けるしかない。


打ってこいと、視線と細かな仕草で促し合う最後の攻防。


互いが後の先を奪い合い、先に手を出させようと画策し残像だけが何度も頭部を突き抜ける。


これは疲労とダメージで意識が朦朧とするなか行われる、意地と意地がぶつかり合う我慢比べだ。


先に手を出せば負ける、だが初動を看破出来ず先に打たれても負ける。


まさに勝利へと繋がるコンマ一秒を奪い合う戦い。


そんな中、俺は無意識に左を突き出してしまっていた。


だが期せずして無我の境地から放たれたパンチは王者に反応を許さず、ガードの上を叩く。


更に伸ばされるのは右ストレート、何の変哲もないワンツー、当然ながらこれもガードに阻まれる。


しかし水に流される様に体は自然に動く、初めての感覚…これは何だろう。


そして流れる様に自然体のまま放たれるコンビネーション、次に体が選んだのは左フック。


だが距離が遠い、王者の頭部までは届かない。


睨み合うその視線から鋭い光を感じた。


このパンチを受け流してから、勝負を決めるべく渾身の一発を繰り出すつもりだろう。


『…三発目をフェイントにして……』


誰の声だろうか、内側から頭に響く。


気付けば伸ばした左はピタリと動きを止めており、変わり伸ばされたのはまたも右ストレート。


それも見極めていた王者、受け止め反撃だとガードにも力が籠る。


(…違う…そっちじゃない…)


そう、残念ながらこの拳の向かう先はそっちじゃないんだ。


伸ばされた右はするりとガードを抜け、王者のみぞおちに突き刺さる。


意表を突かれた一撃に苦しげな表情を浮かべ、王者はマウスピースが口から零れそうなほど前のめり。


『…決めるのは…最高の一発…』


導かれる様に俺は体を反時計回りにねじりサウスポー構えにシフト、そして姿の見えぬ誰かに求められた…最後にして最高の一発を放つ。


左コークスクリューブロー。


王者は食い縛り鬼の形相で最後の一振りを放とうと試みるも、既に時遅し。


全てを決する一撃は、もう放たれてしまった。



















空白が支配していた。


俺は只、天井を見上げ照らすライトを浴びている。



「……セブンっ!…」



視線をリングに戻すと、眼前には大の字になりながらも首を持ち上げ立ち上がろうと試みる、偉大なる王者エルヴィン・コークの姿があった。



「…エ~イトっ!…」



そして一瞬その目が俺を捉え小さく微笑む、何というかそれは澄んだ子供の瞳のようだった。



「…ナァ~インっ!…」



寂しいな、終わってしまうのが寂しい。



「…テェ~ンっ!!」



突如歓声が振動となり、体を揺さぶる。


そして唐突に襲う浮遊感、何かと思えば牛山さんが大声を上げながら俺を担いでいた。


直ぐ後リングに上がってきた同門たちも俺を讃え声を上げてくれている。


牛山さんの背に担がれ高い位置から見まわすと、会場全体がスタンディングオベーション、泣きじゃくる身内の姿も見えた。


さらに見回すと気のせいだろうか、二階席には両親らしき人達に宥められ同じく泣きじゃくる葵さんらしき人も見える、そして会場を去るライバルの背中ははっきり確認。


数分間そんな時間が続いてから喧騒止まぬリングに足を着くと、会長の手で腰に巻かれる輝かしい結晶。


エルヴィン選手もまだリングにいてくれており、拍手をしながら傷だらけの顔を綻ばせ自分のベルトを奪った男を讃えてくれた。


試合中には見せなかった、とても温かみのある優しい瞳で。


俺は直ぐに駆け寄ると健闘を称え合い、互いが同じ事を言い合った。


またリングで会いましょう、と。


英語は得意ではないが、不思議と理解出来た。


(…ああ…気持ちいいな…夢を見ているみたいだ。)


現実と夢の境が溶け消えたかのような時間。


分かっている…また新たなるスタート地点に立っただけなのだという事は、だがそれでも今は…今だけはこの泡沫うたかたの夢に酔うしよう。

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