第二十九,五話 サイドビュー7
【赤コーナー側観客席最前列】
今までの彼の試合では考えられないほどの大歓声が響いていた。
横のアランも身を乗り出し、声を出したいが出せないほど興奮している。
手を握り締め、前に突き出し唸りながら上げ下げしているのだ。
こういう空気は今まで何度か経験してきた。
というのも、いつもは夫の試合が終わった後に会場を包む空気なので彼にとっては初体験かもしれない。
これは集ったお客さん達が、こういう試合が見たかったんだと主役に注ぐ熱だ。
でも今日はそれが夫に向けられている、その事が何より嬉しくて、私は考えてはいけない事まで考えてしまっている。
もう結果などどうでも良いと。
彼は今もリングで精一杯戦っているのだから、そんな事を考えてはいけないのに、知らず知らず私は涙さえこぼしてしまっていた。
するとアランが気付き、どうしたのと心配そうに語り掛けて来る。
結果がどうでもいいなんて、そんな失礼な事を考えていたと悟られたくはない。
(でも……)
私たちはもう報われた。
笑顔を浮かべてはいても、いつもどこか寂しげな空気を纏っていた夫、その彼が今は獣の如く猛々しい声を上げている、眩いばかりに命を燃やしているのだ。
大好きなのに見たくない、そんな事を思わなくてはならなかったアランも、目を輝かせて夫を見上げている。
そして私は、そんな彼らを眺めているだけで、全てが満たされていくのを感じていた。
【観客席西側】
「…統一郎っ!頑張れっ!」
痛烈なダウンを喫し、なおも立ち上がろうとする統一郎。
それを見たおっさんが大声を出すと、いつの間にか俺もつられ声を出してしまっていた。
「…統一郎っ!!根性見せろぉっ!!」
この熱気、正直同じプロボクサーとして嫉妬してしまいそうになる。
だが認めざるを得ない、それに値しうる名勝負だと。
何故か今思い出されるのは、あいつと初めて会った時の事。
やけにジャブだけが上手い奴だと、強く印象に残った。
そして今、その左が世界最高のボクサーを苦しめている。
その事実を俺が誇るのはおかしい話だろうか。
あいつは昔から俺をライバルだと思ってくれている、今までは当たり前に受けいれていたそれが無性に誇らしく感じると同時、背中を眺めている気分にもなり少し悔しい。
体の芯が熱くて熱くてたまらねえんだ…ああ、俺も早く次の試合やりてえな。
【観客席東側】
「…兄さんっ!頑張れぇっ!!」
亜香里ちゃんが今まで聞いた事も無いほどの大声で叫ぶ、いや彼女だけではない。
「…お兄さぁんっ!頑張って下さぁいっ!!」
「遠宮っ!もう一踏ん張りだっ!」
「遠宮君っ!勝てるよっ!!」
そして皆の声に引き摺られて私も負けじと声を出す。
そんな中、私は同時にこんなことを思っていた。
(…凄いなぁ統一郎君。こんなに沢山の人を夢中にさせてるんだ。)
二階席を見やれば、同じジムの人達も身を乗り出して大声を上げている。
皆きっと夢を見ているのだろう。
いつか自分もあの舞台に立ちたいと、そして大歓声の中で輝かしい功績を得たいと。
彼は沢山の人達に支えられここまでやって来たけど、いつの間にか自分の姿が誰かを支える様になっている。
私はそれが自分の事の様に誇らしく…とても嬉しい。
【二階観客席】
「葵、声掛けてあげな。大事な人なんでしょ?」
一郎君の邪魔になるかと思い、極力声を出さない様にしている。
それでも一度は近くで見たいと入場の際花道近くまで行ってしまい、一瞬目が合った時は嬉しくて思わず泣きそうになってしまった。
「そうだよ。大きな声で応援してあげるんだ。」
両親に言われ、やっと私も決心がつき大きく声を張り上げる。
「ファイトだよっ!一郎くぅ~んっ!頑張ってぇっ!!」
会場を包むのは何千人もの大歓声、きっとこの声が届く事はないだろう。
それでも良いんだ。
これで私も、本当の意味で前に進める気がするから。
【青コーナーサイド】
「坊主っ!もう少しだっ!立てっ!立ってくれっ!!」
「遠宮君っ!チャンピオンも余裕ないからっ!いけるよっもう少しっ!」
セコンドが大声を出し過ぎるとレフェリーから注意が入りそうなものだが、大歓声でかき消されているので問題ないだろう。
かく言う僕も柄にもなく声を張り上げている。
ああ…思い出すなぁ、お父さんの後ろに隠れながら初めてジムにやって来た日の事。
統一郎君、君は自分を凡百と言うけどね、僕は君こそが本当に才ある者だと確信していたよ。
いや、僕程度では計り知れないほどの選手だった。
僕が君に教えてあげられたことなんてほんの僅か、足運びやリードブローの形は敢えて触れずそのままにした。
何故なら君の動きは、ボクシングという枠に当てはまるものでは無かったから。
恐らくは古武術とかそっち方面の動きに近いんじゃないかと思っている。
それを無理やり強制してしまえば、君が持つボクサーとしての可能性そのものが小さく纏まってしまう気がしたんだ。
そしてきっと僕の判断は正しかった、だから…見せてくれ。
僕たち親子が見る事の出来なかった景色を。
いつか夢見たあの景色を。
「「…遠宮さんっ!お願いしますぅっ!立ってくださいっ!」」
背中から重なる様に響く声、君らも本来は大人しくしてないとダメなんだよ?
でも仕方ない、彼らにとっては君こそが夢を象徴する存在なんだから。
君が勝ち続ける限り、彼らもまた夢を見続ける事が出来る。
だからお願いだ…勝ってくれ…僕にも夢を見せてくれ。
大丈夫、君なら出来るさ。
だって君は、僕の知る限り最も才ある者なのだから。
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