第二十九話 何度でも

自陣へ戻ると、皆何も言わず自分の仕事をこなしてくれた。


戦略とか言われても頭に入らないので、集中させてくれるのは本当に有難い。


立ち上がると一瞬足元が覚束ずふらついてしまったが、二度三度ステップを踏むと三半規管も戻ってきた。


そして向こうが動いたのを確認してから、第十ラウンドのリングを駆け抜ける。


音が間延びしているのはずっとだが、景色がゆったり感じるのは不味い。


今までの経験上こうなると限界が近い事を意味するからだ。


だがこちらの勝機はKОしかないので、打って出ざるを得ない状況。


(…いや、俺が望んでるんだ。この強い王者と打ち合って勝ちたいと。)


すると王者側から返ってきたのは意外な反応。


らしくも無く、歯を食いしばるような表情で前に突き進んでくる。


ズパァ~~ンッ!!


互いの強打がガードに当たり、大きな音が会場にこだました。


そして体もぶつかり首相撲体勢、腕を回せばクリンチとなる状況だが意地だけで押し合う形。


一瞬隙間が空く度に、両者の力と気持ちの籠ったパンチが交差し汗と血が飛ぶ。


「…フッ!!」


俺が放った右ボディアッパーが内から抉ると同時、王者の右フックで顔面を弾かれた。


頭の芯に痺れるような衝撃、王者もボディが効いたか苦悶の表情。


「…フッ!!シィッ!!シュッ!!」


左フック、右ボディアッパーからもう一度上に右アッパー。


全弾渾身、致命にならぬよう丁寧に捌きながら、互いに血を振りまき叩き合う。


(…チャンピオン…凄え顔してるぞあんた…凄え人間らしい。)


高揚感があふれ出す。


市ヶ谷選手との一戦で刻まれた高揚、決して只の殴り合いでは無く、互いの持ちうる全てを駆使しての殴り合い。


額で受け、首でいなし、肩で受け、仕草に加え視線や呼吸で幻惑し、相手に心さえも重ね何とか己の拳を叩き込もうと画策する。


「…ヂィッ!!」

(…これだよっ!俺はこれがやりたかったんだっ!!)


俺が腹を叩けば必ず上を返される。


その度に景色が歪みたたらを踏むが、食い縛り間髪入れず打ち返す。


「…フゥッ!!」


力のこもったボディアッパー、返しが来るぞと食い縛るも王者の体が丸くなっていた。


(…よっしゃ効いたっ!!)


このまま一気に押し切ってやると一気呵成にまくしたてるも、


「…っ!?」

(…まだまだ元気ってかっ!)


王者の上半身全体を使った大振りな右フック、これは相打ち覚悟では倒されてしまう為しっかりガード。


不思議だ、苦しい筈なのにどこまででも行けるそんな感覚。


一方王者はこういう戦いが不慣れなのか、瞳には力があっても手数が減ってきた。


それでも上手く力を逃がし押されないのは流石の一言。


だが今この瞬間、俺は全てが満たされている。


最高の伴侶に家族、夢だった舞台、頼れる仲間に心地良い環境、湧き上がってくるんだ…次から次へと。


(…応えてくれよチャンピオンっ!!最高の舞台を作ろうぜっ!!)


スタンスを広く取り、左右の拳を間断なく叩きつける。


ガードは完全に開けっ広げであり、いつもはやらない感覚任せのディフェンス。


それでも打たれるビジョンが浮かばない。


肌を撫でる空気が死角から来るパンチを悟らせ、相手の息遣い、その心の奥まで見通せるかの様な不可思議な空間。


どうしようもなく楽しい。


王者は…エルヴィン選手はどうなんだろうか。


この空間を、この試合を、この時間を楽しんでくれているだろうか。


見やれば苦しそうな表情、だがそれだけではない。


分かるんだ、視線が合うだけで分かる、彼もまた楽しんでくれているんだと。


そしてレフェリーが割って入り第十ラウンドが終わると、早く次が始まらないかなと思ってしまう。


立ち上がるも、気が急いたかまだインターバルは半分くらい残っていた。


対角線に視線を向けると、大きく肩で息をするエルヴィン選手。


視線が合いジッと見つめ合った後、少しだけ微笑んだ様に見えたのは気のせいか。


エルヴィン選手が立ち上がったのを確認し俺も立ち上がり、両者競う様にリング中央へ。


そして中間距離より少し近い辺りで足を止めると探り合い、己の強打をぶちこんでやろうというのだ。


先ほどのラウンドとは違い、手数は少なくともひりつく緊張感。


いつの間にか両者共にガードを外し、体の至る部分を使いフェイント。


王者が手首をピクリと動かすと同時フッと息を吐けば、こちらは存在していないパンチを払うべくパーリングの動作。


続きこちらは足半分ほどの踏み込み、肩だけを動かし存在しないパンチで動きを制する。


正に集中の極致に至った者達の攻防。


パンチは存在しなくとも先ほどから交わされている。


何度も何度も鼻先に当て、時には強烈に側頭部を叩き、時には後頭部まで突き抜けるほど強烈に撃ち抜く。


例え俺達以外に見えなくとも、俺達には見えているのだ。


言ってしまえば究極のマスボクシング。


ラウンドが始まってどれくらい経っただろうか、時間の感覚などとうに無くなっていて分からない。


だがそれほどは経過していないだろう。


そして一瞬の隙があれば、膠着状態は一気に瓦解する。


先に打って出たのは俺だった。


エルヴィン選手が手首をクイッと外側に向ける仕草をした瞬間、コンマ一秒あるか無いかの刹那に隙を見出したのだ。


放つのは最速の拳、ジャブ。


それをヘッドスリップで躱し踏み込もうとしてくる王者。


だがそれも予想通り、事前に発射体勢に入っていた右アッパーで突き上げる。


エルヴィン選手は体を半分横に寝かせる形になりながら躱し、狙うは俺の肝臓。


(…ちっ…よく躱すっ!!)


俺は低い場所にあるその頭部目掛け、相打ち覚悟で左を打ち下ろす。


(…これもフェイントっ!?)


エルヴィン選手は打ち下ろしの左に狙いを定め思い切り叩き落とすと、俺の体勢を崩した。


思わず前のめりになる体、不味いと全身が警告を発してくるがどうにもならない。


下から突き上げて来る左アッパーがもうすぐ俺を捉える、しかし体勢不十分…身構える事すら出来無かった。



「…ゕっ!?」



俺は頭部の衝撃と共に上体ごと後方へ弾かれ、力無く天井を見上げた。

















つ~んと鼻から脳の中心まで突き抜けるような感覚。


何とか意識を繋ぎ止める事は出来ているが、体が動かない。


ここまでなんだろうかと、そんな事を思ってしまったその時、


『…統一郎っ!頑張れっ!』


それは聞こえる筈のない父の声、間違いなく幻聴だ。


朦朧とする意識の中、今日はお盆だったなとそんな事を思ってしまう。


そして自分でも気づかぬうちに、俺は立ち上がっていた。


レフェリーを見やればカウントはまだ四つ目。


今のうちに深呼吸を繰り返す、ファイティングポーズを取り再開したら、間違いなく猛攻に晒されるから。


だからこそ、今のうちに覚悟を決めておかなければならない。


会場の大歓声が聞こえる。


牛山さんや及川さん、会長も珍しく興奮しているような声。


集中する余力さえなくなったのかもしれないが、今はそれが有難い。


「…兄さんっ!頑張れぇっ!!」


「…お兄さぁんっ!頑張って下さぁいっ!!」


仲良し二人はここでも一緒、でも亜香里の大声なんて初めて聞いたな。


「遠宮っ!もう一踏ん張りだっ!」


「遠宮君っ!勝てるよっ!!」


田中と阿部君…かな?大歓声に交じっているがきっとそうだ。


「…一郎くぅ~んっ!頑張ってぇっ!」


これは…懐かしい声、一人で来ているんだろうか、いや恐らく両親と来ているのだろう。


しかしこの大歓声の中で聞き分けられる俺も大概だ。


「…統一郎君っ!もう少しだよっ!」


いまのは咲の声、そういえば世界チャンピオンになったら結婚とか大口叩いたな。


もう充分だとかではなく、まだ俺の勝利を信じてくれていることが嬉しい。


「…統一郎っ!!根性見せろぉっ!!」


いまのは相沢君かな、根性論とかいつの時代の人間だよ。


でも…そうだよな、限界まで力出してそれでも届かない、なら最後に必要なのはやっぱり…根性だ!


俺は少し口角を吊り上げつつ、自陣へと視線を向ける。


三人共が誰一人としてタオルを投げる素振りが無い。


(…有難いねぇ…期待に応えるのが…男ってもんだよな。)


俺はファイティングポーズをとると、冷静に駆け寄る王者を見やった。

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