第二十八話 狂気と勇気

第九ラウンド、俺がやる事は変わらない。


訴えるだけだ。


王者の本能に、プロボクサーとしての本能に。


「…シィッ!」


ラウンド開始直後、リードブローを額で受け止め真っ直ぐ左。


王者は攻防の一手、右でパーリングしながら柔らかく左で側面を叩く。


攻防のみならず、回避さえも念頭に置いた立ち回りだ。


横から顔面を弾かれ一瞬視界から王者の姿が消えた瞬間、強引に振り回した右には手ごたえ無し、既に距離を取られてしまっている。


(…関係ないっ!!)


休む暇など与える気は無く、俺は力強くマットを蹴り出し追い掛ける。


もう判定での勝ちは完全に消失しており、俺が勝つにはKО以外無し。


こうなれば腹も括れるというものだ。


「…フッ!!…シュッ!!」


遊びのパンチは撃たない、全てしっかり見て全力で撃つ。


互いの冴え渡る感覚が僅かなモーションからカウンターを察知、強打が両者の頬を掠める際どい一瞬の攻防。


そう、俺が止まらないと見てか王者も強打で応戦するようになってきたのだ。


なれば当然その瞬間は動きが止まる。


こちらは先など考えない特攻勝負、実に都合がいい。


「…ヂィッ!!」


王者の放つすべてを回避していては当たる公算は立てられない。


だからこそ見切る必要がある、自分が耐えられるギリギリと相手の回避が追い付かない一瞬を。


パァンッ!!


大きな乾いた音が会場にこだまする。


この試合初めてとなる、強打同士の相打ち。


互いに首でいなし急所は外しているが、それでも頬に刻まれる爪痕。


瞬間、俺を睨みつける王者の瞳が明らかに変わった。


両の腕で俺の体を押し距離を作ると、リング中央付近しっかりとガードを上げたスタイル。


そして重心を低く構え、完全にインファイトを想定した形を取る。


冷静にリスクを考えての結論か、それとも感情に突き動かされての結論か。


それは分からないが、こちらにとってはこれほど有難い展開も無いだろう。


(…それでいいんだよっ!!)


俺はギリっと歯を食いしばり一定のダメージを覚悟して踏み込んだ。


射程内だが、王者は手を出してこない。


クリンチを警戒するもそういう気配は無く、ガードの隙間から睨みつけるような瞳を向けるだけ。


そしてこちらも力の籠ったパンチを撃てる空間を確保したまま、何度かフェイントを重ねたのち、


「…フッ!!」


右のフェイントから左アッパー、完全に見切っているのか僅かな動作だけで捌かれてしまった。


相変わらず眼光は鋭く、狂気すらも感じる瞳で俺を睨みつける。


だがようやく引き摺り込んだこの土俵、今手を出さずしてどうする。


「…シュッ!…シッ!シッシィ!!」


右ストレートから左ストレート、左フックから踏み込んで右ボディストレートへ。


上に散らしてからの下、常にカウンターを警戒しながらのコンビネーション。


「…っ!?」


一瞬王者の瞳に更なる力が宿った、どうやら深く踏み込む一瞬を狙っていたらしい。


右ボディストレートの上をなぞる様に放たれる、王者の左。


完全に相打ち覚悟のタイミング、リスクを計算しその上で自分が勝つと確信しての一発なのだろう。


だが相打ちは願ったり叶ったり。


事ここに及んで引く事等有り得ず、俺はそのままみぞおち目掛け拳を繰り出した。


しかし直撃をもらってしまえば倒される危険もあり、力を逃すため当たる直前、グリンと首を回転し衝撃をいなす。


右の拳には腹を抉る感触、だが直後に襲い来る筈の衝撃がこない。


何故だと一瞬困惑するも、直ぐに理解してしまった。


拳が眼前に迫っているのだ。


首でいなそうと真横を向く形になっている状態の眼前、それはつまり右フック。


最初からこれが狙いだったのだ、衝撃を殺せない体勢を作らせる事が。


「…ぁっ!!?」


頭部に襲った衝撃は想定をはるかに超えていた。


俺の体がたった一発で、中央付近からロープ近くまで吹き飛ばされてしまうほど。











「…スリ~っ!フォ~っ!……」


一度上体を持ち上げ立ち上がるも、大地に体が吸い込まれるような感覚でもう一度転がってしまう。


耳鳴りがして何も聞こえない。


それでも視線を巡らせレフェリーを見やりカウントを確認。


指は七本、焦りがありつつも膝にグローブを当て、体を支えながら立ち上がる。


そして真っ直ぐ体勢を保つと、しっかりレフェリーの目を見て健在をアピール。


残り時間を確認したかったが、思いのほか早く再開されてしまった。


眼前を見やれば、データにはない行動をとる王者の姿。


「…っ…っ…くっ!!」


今までの試合、この男はダウンを取った直後にラッシュを掛けるなどした事が無い。


なのにもかかわらず今は血走った瞳で迫り、強打を叩きつけて来るのだ。


(…有難い…)


ガードの上から叩かれロープに背中が当たり、普通ならば危機感を感じるこの状況、


俺は素直に感謝した。


パンッ!


何故ならば、当たるから。


パンッ!


前に出てきさえしてくれれば、俺のジャブは当たるから。


パンッ!


強打で弾かれ右に左に体は触れるも、俺のジャブには関係ない。


パンッ!


元々、蹴り足を必要としないのだから。


パンッ!


距離の微調整が必要だから足を使わなければならないだけで、ロープに背を預けたまま激しく迫られ、手が届く場所にいる相手には関係ない。


パンッ!


誰よりも早く、最短距離を走る俺のジャブ。


パンッ!


しっかりガードを固め、引き手を追うだけでいいんだ。


気付けば王者の顔は赤く紅潮し、鼻からはダラダラと血が流れ褐色の肌を伝う。


王者と視線が合った。


俺は自らも気付かぬうちに、笑みを浮かべてしまっていたらしい。


嬉しかったのだ。


俺のジャブが世界王者に通用していることが。


そして考えるよりも先に足が前に進み出ると、同時に王者は下がる。


向こうからは俺がどんな顔をしているように見えるだろうか。


少なくとも俺から見る王者の顔は、驚愕と恐怖が入り混じっていた。


(…何だよぉ…逃げるなよぉ…漸く盛り上がってきた所じゃないかぁ…)


足先の感覚が徐々に戻り、今まさに飛び掛かろうとした時、レフェリーが体を張ってラウンドの終了を告げたのだった。

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