第二十七話 現実と葛藤

第七ラウンド、まだゴングが鳴りやまぬうちに駆け抜ける。


予測していたのだろう、王者はコーナー前で迎え撃ち対応する構え。


ここにきて集中の仕方を完全に掴んできた。


音が遠くなっていく感覚、スタミナの消費も激しい様だがそんな事は今どうでもいい。


射程に入っても打って来ないので、頭から突っ込み左を真っ直ぐ叩きつける。


王者は上から被せ弾きながら反時計回りに移動を試みるも、今の俺には見えている、無理矢理体を押し付けロープに押し込んだ。


こうすればあの左右の高速移動は使えまい。


なれば当然次の手はクリンチとなるが、事前に腕を内側に畳み強引に胸部へと押し付ける。


そして相手の上半身が仰け反り、リング外に飛び出すような形のままボディブロー。


即座にレフェリーが割って入り、プッシングの注意をされてしまった。


次にやれば減点となるだろうが、それももうどうでもいい事。


歓声は遠い、しかし会場の盛り上がりは感じている。


(…これだ…これだよ。なあチャンピオンっ!これがボクシングだろっ!!)


打たせずに打つ競技、それがボクシング。


決して我慢比べでも殴り合いなどでもない。


科学的なトレーニング、練られた戦術に巧みな技術、時とともに進化し要求される更なるボクシングIQ。


でもそれだけか?気持ちを前面に押し出し打ち合う姿に痺れるのは間違いか?


魂が燃えるような一時、空間を共有しあう事に喜びを覚えるのは間違いか?


(…誰に何と言われようとっ!俺はこの時が一番気持ちいいっ!!)


市ヶ谷選手に気付かされてしまった。


俺は結局彼らと同じ。


彼ら…の中にはあの人もいる、会場を盛り上げるため馬鹿な打ち合いに興じたボクサー…遠宮大二郎も。


しかしそれも当然だ、だって俺はあの人の息子なんだから。


「…シッシッシッシッシッシィッ!!」


減点されようが何だろうが構わない、体を押し付け叩きつける。


ガードは固く、上手に受け流され、先ほどから綺麗にもらっているのは俺だけ。


「…ちっ…っ!!」


右の出端、肩を左で抑えつけられ初動を遮られると、続けざまコンパクトな右アッパーで顎をかちあげられた。


がくりと腰が落ちかけるも、その動きさえも利用しボディへ真っ直ぐ突き出す。


(…手応えありっ!!)


足に力を籠め上に返すも大きな空振り、王者の姿は既にそこにない。


だがその顔には、ロープ際から逃れる事が出来た安堵感など微塵も見え無かった。


先ほどのボディが効いているのだろうか、些か苦しげにさえ見える。


その時響く、間延びした金属音。


俺は高揚した気分そのままに自陣へと歩む。




▽▽▽




今まで何度も助けられてきた謎の感覚、それを漸く完全に我がものとする事が出来た。


会長の言葉も間延びしてはいるが、何となく聞き分ける事も出来ている。


恐らくこれが一番良い状態だ。


他の選手に同じ事が出来ると聞いた事も無いので、俺だけだと思えばそれも気分がいい。


難点を一つ上げるとすれば、多少打ち気に逸ってしまう所か。


とは言え、それも今回限りは仕方がない。


守勢に回った所でどうしようもない相手なのだから。


間延びしたゴングを背にリングを駆け抜けると、向かう先は対角線上。


どうやら今度は体勢を低く取り、下から潜り込んで腰にしがみつこうという思惑。


俺は一旦バックステップしてから左を一発打ち下ろす。


一度は完全に見切られていた左だが、切れが増しているのだろうか、焦り顔で仰け反り漸くと言った感じ。


「…シィッシュッ…っ…シィッ!!」


左ストレートから左フック、カウンター気味に真っ直ぐ貫かれるも急所から逸らし、引かず右ストレート。


「…フッ…っ!!」


さらに踏み込み左アッパーを放った瞬間、空振りの隙を見逃さず返された右のレバーブローが、奇麗に突き刺さってしまった。


それでも止まらず更に右アッパーへと繋げるが、王者はショートストレートで目くらまし。


「…ちっ…」


邪魔だと払いのけた瞬間、強打を放つフェイントを見せ、こちらが反応したのを確認してから距離を取る匠の技。


こういう小さな一つ一つの駆け引きに、神経を注がなければならないのが地味にきつい。


とは言え俺が勝つにはKО以外ないだろう。


ポイントなど考えるだけ馬鹿らしい。


互いの手が届かない距離になったのを確認すると、俺は大きく息を吐き両腕を下げ歩み寄る。


集中を切らしてはいないが、やはり限界というものは存在するのが現実。


数秒と言っても休める時には休むべきだ。


そしてこちらの反応を見て王者も一息つく仕草。


「…フッシィッ!!」


瞬間、俺は良いけどお前は駄目だと言わんばかりに全力ダッシュ、左から右を思い切り叩きつける。


この時一番気を付けなければならないのは、死角から飛んでくるパンチ。


だが仕草の流れみたいなものは何となくわかってきた。


確率的には側頭部をガードする仕草を見せた後に、大きなパンチを撃ってくる印象。


そして基本カウンターを取る時に用いるのはノーモーションブロー。


構えた位置からそのまま突き出してくるため避けにくい。


「…っ…くっ!!」


再三もらってしまうのは後者。


だが力を込めて撃つパンチではないので、急所さえ外してしまえば倒れる程の力はない。


{…シィッ…ちっ…」


そして強引に打って出れば、するりと絡めとられクリンチへ移行、同時に会場からは溜息。


この流れ、一見すれば一方的に打たれているだけに見えるだろう、しかし確実に戦果は挙げている。


細かいながらもパンチをもらっている俺の顔は腫れ上がっているが、表情に余裕がないのは果たして俺だけか。


鬼気迫る顔で延々と追い回されるのはさぞ苦しかろう。


「…はぁっはぁっ…はぁっ……」


これは我慢比べだ。


王者が最後まで自分を貫いて完封するか、それとも圧力に負けリスク覚悟で迎え撃つか。


そう、俺が捕まえられるかどうかの問題じゃない。


この王者を完全に捕まえるのは俺では無理だ。


だが時折見せる様になってきた。


会場の歓声に押されるかの如く、至近距離でのやり取りの瞬間、一瞬だが迷いが見える様になってきたのだ。


(…あんたも本当は称えられたいんだろ?試合楽しみにしてるって言ってほしいんだろ?)


同年代同階級に自国のスター選手がいなければ、また違う形になっていたのかもしれない。


試合はつまらなくて品性良好、マイクパフォーマンスも地味でヒールとしても使えない。


凄い事を為しているのに見向きもされないのは苦しい筈だ。


付け込むべきはそこ、心の強さを試されるのもまた…ボクシングという競技なのだから。

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