第二十六話 プロボクサー

第六ラウンドに入り、王者の動きは非常に緩急の大きなものになっていた。


ゆったりと覗き込み、ゆっくり左を伸ばしてきたかと思えば、俺が反応した直後コンパクトな右が飛んで来る。


対応できているとは言い難い状況、だがやられっぱなしという訳でもない。


当たるんだ、俺の左が。


「…シッ!」


力の籠った左が王者の頬を弾く。


捨てパンチなど一切撃たず、一発一発しっかりと力を込めて撃つ。


この王者と駆け引きした所で俺に勝ち目はない、ならばこうして隙を作らず食らいつくだけ。


そうすれば、いつかきっとチャンスは生まれる筈だ。


「…シッ!」


ジャブと言うよりは左ストレート。


王者はもう見切ったのだろう、慌てる事無く上から被せる様に叩き悠々捌く。


だが俺の左の真骨頂は回転の速さ。


「…シィッ!」


王者が少々慌て顔で仰け反り、トントンとリズムを刻みながら後退。


そして上体を持ち上げデトロイトスタイルに構え、胸部まで下げた左を鋭く伸ばしてくる。


今度は俺が下がる番、普段リーチ差というのはあまり気にならないが、流石にこのクラスの選手だとこのまま差し合うのはきつい。


しっかり見極め距離を詰める隙を伺いながらの攻防。


今までとは違い王者のパンチにも一発一発力が籠っており、踏み込もうとするたび出端を挫かれ中々距離を詰められない。


「…シッ!…っ!?」


繰り返されるのは同じ光景。


俺が鋭く左を伸ばすと、王者は必要分だけ仰け反り空間を生み出し左を伸ばす。


こちらのパンチの悉くが鼻先で見切られ届かず、王者の左は悉く俺の鼻頭を叩く展開。


こちらの能力に想定外を感じたのは事実だろうが、修正力も超一流。


(純粋な差し合いでここまで勝てないのは初めてだな…)


以前会長が言っていたあの言葉が思い出される。


空間把握能力の怪物、と。


恐らく観客達の中には、俺の左も当たっているように見えているのではないだろうか、それほどの際どい見切り。


そして何より厄介なのはやはりそのスタイル、安全圏に身を置き全く攻勢に打って出ないのだ。


(無理に打って出れば…カウンターが待つ…か。)


早いラウンドで強打を見せられているという心理的圧迫も大きい。


こういう精神的な駆け引きも含め、全て計算の上なのだろう。


例えここまでのラウンド全てを落としていたとしても、ここからのラウンドを全て取れば問題ないと。


そしてそのための準備はすべて完了したと言った所か。


手を出せばこちらだけが貰う展開、近距離戦に打って出れば先のラウンドのあれが待つ。


徐々に体が拘束されていく様な感覚。


自然手数は減り、膠着状態が続いてしまう。


歓声も鳴りを潜め、見ている側からすれば欠伸が出そうな展開の連続だろう。


何とか打開したい、そうは思うも視線とフェイントで巧みに誘導され意思さえ受け流される。


体では無く心が重い、俺は一度大きく距離を取るとラウンド中に深呼吸を繰り返した。


隙と見て攻勢に打って出てきたら迎え撃つつもりだったが、その程度はお見通しと言った感じか。


(このままやってても勝てないな…勝負に打って出るか…)


俺は構えも取らずただ歩く様にして距離を詰める。


何をしているのかと、王者の動揺が伝わってくるようだった。


そんな人間らしい反応をしてもらえると心底安心する。


会場のざわつきも関係無いと言わんばかりに、俺はそのまますたすたと歩み寄っていく。


(…後の先ばかり取られるからな…取り敢えずスウェーで避けられない距離まで行きたい。)


一見何も考えていないように見えるだろうが、この試合で今が一番集中していた。


(上を狙ってたら勝てない。ボディだ…腹を抉れれば…)


もう充分に理解したんだ。


普通のやり方ではこの王者に土を付けるなんて無理だと。


徹底して待ちの戦法を取るなら、無理やりにでも手を出させてやるまで。


徐々に…徐々に…音が遠くなっていく。


既に体は相手の射程に入っており、その時はもう何時訪れてもおかしくない。


踵を上げ、爪先でマットを擦る様に進み出る。


求められるのは一瞬の判断、最悪相打ちでも構わない。


(ああ、確かにあんたは凄えよ…ボクサーとしちゃ確かに凄い…でもな…プロボクサーとしちゃ失格だ。)


スタイルの関係で試合がつまらないと言うだけだったら、いくらでもやりようがある。


例えばヒールに徹するとか。


だがこの男はそれすらもしない、只々淡々とお役所仕事みたいにこなすだけ。


(駄目だよ…俺らはさ…お客を楽しませて…初めて『プロボクサー』だろ?)


自分でも知らず知らず、何か得体のしれない気配を纏っているのに気付く。


言うなればそう、殺気とかそう言う類の言い方になるのだろう。


何故だろうか、この男の在り方に言いようのない怒りを覚えていたのだ。


ガードを上げる事もせず摺り足でにじり寄る俺、対するは瞬きもせず一定の距離を保ち下がる王者。


異様な空間。


睨み合っているのは先ほどまでと同じだが、内情が違う、緊張感が違う。


(…いまっ!!)


ゆったりと流れる時間の中、僅かな初動から判断し一気に距離を詰める。


左を皮一枚躱しながら踏み出すと、眼前にはいつのまにか右が伸ばされていた。


(…このままっ!!)


分かっていた事、俺は前傾姿勢のまま額で受け止め…いや、頭突きと言った方が近いか。


強い衝撃が頭部を揺らし、次は俺の番だとなる所。


だがそう簡単に行くほど甘い相手ではない。


俺の行動を予見していたのか、既に次弾の準備は完了しており、下から左を突き上げる体勢。


これを避けるのは無理、そもそも避けるつもりがない。


「…ヂィッ!!」


俺は力を込めて右を放つ、狙いは脇腹、横殴りに思い切り叩きつける。


しかし手応えは無い、見れば半歩程引いており攻撃を途中で止め回避を優先させた様だ。


そこから伸ばされる左…だが構わない、俺はまたも額から突っ込み無理矢理追い掛ける。


そして額に当たろうという直前、王者は手首の返しだけで軌道を変えるとしっかり俺の顔面を捉えてきた。


感覚からいって鼻血が噴き出しただろう…だからどうした?


追撃も見えてはいるが引く事など微塵も考えられない。


俺は貰いながらも構わず前進し、思い切り右を振り抜いた。


王者は追撃の手を引き防御を優先、肩で受け止めつつ距離を取ろうと試みる。


(…逃がさねえっ!!)


絶対に逃がさない、感情を全身で表すような特攻。


「…ストップっ!!」


レフェリーが割って入ってきたのを見て、漸くゴングが鳴っていた事に気付いた。


「はぁっはぁっ…次も…追っかけるからな。」


通じてはいないだろうが、そんな事を告げてから自陣に戻る。


少々ダメージを負ってしまったが戦果はあった。


何故なら、あの完璧なボクサーが息を乱していたのだから。

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