第二十五話 最高の左
「…
会長に切々とそう説かれ漸く冷静になる事が出来た。
何度も見た自滅していく選手、俺もまた同じ道を辿ろうとしていたのかもしれない。
「…でもね、強引に行くのは悪く無いと思う。次のラウンド、向こうの出方次第では結構打ち合う事になるかも。」
会長が一瞬だけ向こうの陣営に目を向けてから告げる。
俺の目には相変わらず飄々として見えるが、何かが変わっているのだろうか。
「手数よりも一発…しっかりよく見て打とう。」
その視線の意味を理解する時間も与えられず、第五ラウンドのゴングが鳴った。
先ほどの奇襲を警戒してか、王者側から距離を詰める形で左を伸ばし牽制してくる。
そして今まで下がりながら様子を見ていたのが一変、軽く何度も左を伸ばし積極的にプレッシャーを掛けてきた。
ゆっくり伸ばすその左に丁度視界を遮られ、こちらは対応の選択を迫られる。
(…退けて強引に打って出るか…それとも…)
強引に行くのも手だが、ここはじりじりと迫って来る王者の圧に押される形で、俺は一旦下がり距離を取った。
(…この下から覗き込む感じ…嫌だな…)
王者の重心は低く、伸ばしてくるパンチも自然と下から突き上げる形になる。
強く打ち下ろし一発を狙いたい所だが、こちらを捉える瞳がそれを許してくれない。
それでも手を出さなければ始まらないのも事実。
「…シッ!」
会長の言葉通り、手数では無く一発一発を力強くしっかり相手を見て放つ。
しかし王者は微動だにする事無く、虫を払うような軽い仕草で捌いた。
でも諦めない、前に出てくる王者と一定の距離を保ちながら更に一発一発慎重に力強く放っていく。
「…シッ!…シッ!…シィッ!」
すると何故だろうか、捌く動作に余裕が感じられなくなってきた。
(変則的な動きに翻弄されず、しっかり見て打てば…捉えられる。)
王者の動きは一見ゆったりとしている為、打てば当たると勘違いして今までは不必要に追いかけてしまっていた。
だがこうして手数では無く、動きを予測して一発一発にしっかり力を込めて放てば、少なくとも簡単に反撃を許す事はない。
(…まあ、飽くまで向こうが守勢に回ってくれればって話だけど。)
その懸念は当たり、王者は明らかに動きの質を変えてきている。
ゆったりとした動きから切れのある動きにシフト、細かいフェイントを交えこちらを幻惑。
体勢は相変わらず低く、こちらを覗き込む形。
そしていきなりの右。
これの何が厄介かと言われれば、下から伸ばしてくるからと言ってそちらに意識を取られれば、突如死角からパンチが飛んで来る事。
なので全ての注意を一点に向ける事が出来ず、只でさえ捌きにくい角度で飛んでくるそれの厄介さが格段に上がる。
視野を広く保つ為、スウェー気味の体勢で捌くと今度はボディストレート。
「…くっ!!」
体が伸び切っている所にこれは効く。
厄介な事はもう一つ、王者の状態は前傾姿勢である為、こちらからボディが届きにくいという点。
並の選手が同じ真似をすれば顎をかちあげられて終わりなのだが、今の所全く当たる気配がない。
だが、一つだけ光が見えてきた。
「…シッ!」
狙い澄ました左、クリーンヒットではないが軽く鼻先を掠め王者は嫌そうな空気を纏う。
フックもアッパーも当たらないが、ジャブだけは少しずつ捉え始めているのだ。
何故かと言われれば、恐らくは慣れ。
この王者の独特のリズムに対し、感覚があってきたのだろう。
「…シッ!」
パアンッと良い音が響いた。
手応えあり、クリーンヒットだ。
同時に王者の左も軽く貰っているが、こちらの方が力を込めて放っている。
そして俺の左は会長も認める特別製、無視など出来ようはずもない。
「…シュッ!」
流れを一気に手繰り寄せようと踏み込んで右を放つが、王者は仕切り直しと言わんばかりに絡めとりクリンチ。
これは大人しく受けておく、先ほどの様に強引に突き放し減点されてはたまらない。
そして今度は俺がプレッシャーを掛ける番、一発一発を小さく鋭く集中し放ちながらじわじわと追いかけロープ際へ押し込む。
だが完全に受けに回られると全く当たらなくなるのは流石。
このラウンドはどちらに付けるだろうか、そんな事を考えていると、
カンッカンッ
拍子木の音が聞こえたその時、背筋がぞくっとした。
王者が一気にギアを上げキュッキュッと左右にステップ。
視線が追い付かないほど早く、これには全身が警告を発してくる。
俺は感覚に従い王者の動きを目で追う事無く、とにかく距離を取りたいとステップバック。
「…っ!?」
その瞬間、先ほどまで俺の頭部があった場所に、風切り音を響かせた横殴りの強振が通過。
そして同時に、一瞬で手の届かない程の距離を取られてしまっている。
(…何だ今の…やべえな…)
ゴングを聞きながら思う。
再度至近距離であれをやられれば、次は無いかもしれないと。
▽
自陣へ戻る途中、呆けたようになっている牛山さんと及川さんが見えた。
確かに王者がロープ際で、ああいう動きを見せた事は今までもある。
だがモニターで見るのと直で見るのは余りにも違い過ぎた。
比喩表現ではなく、本当に消えたかと錯覚してしまったんだ。
それには動きのギャップも大きい。
そこまでの緩やかな動きとあの高速移動の速度差に、脳の処理が追い付かなかった。
椅子に腰かけると、俺は思わず苦笑いしてしまう。
「…悲観する必要は無いよ。左が当たるようになった。大きな戦果だ。」
それはその通り、あの王者の顔面にパンチを当てられたのだから。
だがこれからどうすればいいのだろうか。
あの程度の差し合いで勝てたからと言って、戦況を大きく動かす事は出来ない。
ズシンと心に何か重いものが圧し掛かってくる気がしたその時、会長が微笑みかけて来る。
「僕の言った通りだったろ?」
「…え?」
「君の左は世界に通用する最高の左だ。」
確かにいつかそんな事を言われた気がする。
すると、背後からも一言。
「ああそうだ。お前には分かんなかったかもしれねえが、奴さんの顔必死だったぜ。」
「うん。そうだよ。左が捉えた時凄くびっくりしてた。」
心強い言葉、俺は一度天井を見上げ照明を見やる。
そんなに眩しいとは感じなかった。
深呼吸をする、体力はまだまだ余裕。
次は体の状態を確認、激しい打ち合いなどしていないので当然ダメージも殆どない。
一体俺は何を悲観していたのだろうか。
まだまだ全然悲観するような状況じゃない。
次は第六ラウンド、多分ポイントは負けてるけどこれから巻き返せばいいだけだ。
俺は少し早めに立ち上がると、差し出して来るマウスピースを銜えた。
「最高の左、見せてきます。」
そして己の弱さにも現金さにも目を瞑り、ゴングと歓声が包む中その場所へと身を投じていった。
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