第二十三話 微毒
「焦って自分から手を出さない様に、十二ラウンドフルに使って組み立てよう。」
俺はトントンと軽くステップを踏みながら頷く。
エルヴィン選手の防衛戦は全て同じ流れ、挑戦者側が自滅しているというイメージが強い。
だがそうなるのも分かる気がする。
彼の卓越した技量は、対する者をじわじわと真綿で締めつける様に、一つ一つ確実にやれることを潰していくのだ。
そして焦った挑戦者側が無理な攻撃を繰り返し、合間合間にパンチを当てられ効かされる。
そこからは一方的、距離の長い左を的確に突かれ休む暇もなく最後まで削られ判定、そんな展開が殆どだ。
▽
いよいよ運命のゴングが鳴り、一つ大きく息を吐いてから前に進み出る。
どちらも奇襲戦法など取りようがないスタイルの為、挨拶にグローブを合わせた後は互いに距離を取り左を伸ばし探り合った。
(特に威圧感は感じないな…)
パシンパシンとグローブが当たり合う音だけが響く大人しい展開。
強い選手は向き合えばわかると言うが、あまりそう言った感じは受けない。
「…シッシッシッ…シッ!」
軽い左三発から、フェイントを混ぜて強めの左。
だが伸ばした拳を上から叩かれ、何の事は無いと言わんばかりに捌かれてしまう。
(様子見に徹してくれるなら、このラウンドはもらっておいた方が良いな。)
後半勝負となれば勝てる公算は限りなく低い。
ならば貰えるものはもらっておくべきと、こちらから積極的に打って出る事にした。
とは言え反撃を受けないよう、踏み込み過ぎずしっかり死角からのパンチにも警戒しながらだ。
「…シッシッ…シィッ!」
左、左、右、体になじむ得意のコンビネーション。
その間にフェイントを挟んだのだが、意外にも結構大きく反応してくれたのは好材料。
少なくとも、こちらの動きを見切っているとかそういう反応ではない。
だがその瞳は常に俺を覗き込み、全身にねっとりと纏わり付いてくるようで少し神経を圧迫される。
(…でも本当に大人しいな。戦力分析って事なんだろうけど…)
願わくば三ラウンドあたりまでこのまま様子見してくれると、こちらとしては非常にありがたい。
そして二分が経過しても静かな展開が続くが、退屈だと思っているのは観客だけ。
目の前の俺は確かに感じていた、少しずつ一つ一つの動作が俺の呼吸に合ってきている事を。
「…シッ!」
王者の邪魔な左を払い、お返しとばかりにすぐさま強めの左。
そこからコンビネーションへと繋げたいのだが、僅かなフェイントだけでこちらの動きを制してくる。
今やられたのは視線と肩だけを使ったフェイント、外から見る分には恐らくわかるまい。
にも拘らず、まるで鼻先に鋭いカウンターを伸ばされたかの様な光景を幻視する。
そこからは特に動きのないまま、明確にどちらのラウンドとも言えない形でゴングを聞いてしまった。
▽
「どう?」
「やりにくいですね。フェイントが小さいんですよ。外から見てると分からないくらい。」
次の行動における予備動作も兼ねているのだろう、本当に無駄がない。
「パンチは?強い?」
「まだ分かんないですね。取り敢えずこのまま行っていいですか?」
「うん。でも少し上ばかりに偏り過ぎてるから、次から下も混ぜていこうか。」
会長と頷き合い、第二ラウンドのリングへと進み出る。
このまま進むと他の選手たちの二の舞、ちょっと揺さぶってみたいなと思い、一気に距離を詰めて真っ直ぐ右を打ち抜いてみた。
「…っ!?」
瞬間、顔が固い何かにぶつかったような感触。
それは打たれたのではなく、感覚的には自分からぶつかりに行ったような感じ。
(パンチが硬い…でも、撃ち抜くんじゃなくて、本当に置いていってるだけって感じだ。)
力を込めて撃ち抜けば足を止めざるを得ない、故に置いていくだけ。
動きもまた独特だ、キュッと鋭くステップを刻むのではなく、何というかぬらりぬらりと滑らかに動く。
ボクサーと言うよりは武術の達人といった雰囲気。
(無闇に突っ込むのは無謀だな…分かってたけど。)
仕切り直しに軽くステップを踏みリズムを作ると、もう一度距離を保って左の差し合いに望む。
しかし今までの経験には無いほど手応えが希薄だ。
リーチは向こうの方があり当然懐もあちらが深いのだが、それは別段珍しい事ではない。
そういう状況でも、リードブローの差し合いは今まで何度も勝って来ている。
そして今も一方的に負けている訳では無い、無いのだが…どうにもすっきりしない。
「…シッシッ…」
王者は体勢を小さく折りたたんで、上半身を沈ませながら左を伸ばして来る。
結構相打ちになる場面もあり、通用していないという事は決してないのだ。
にも拘らず、何故か心の内側に焦りの感情が涌き挙がってきてしまう。
低い場所から覗き込まれる度に、王者の望む行動へ無意識に誘導されているかのよう。
俺は無性に強振したくなる己の意志に逆らう為、一度大きくバックステップ、仕切り直しを計った。
(…なんだこれ…段々リングが狭く感じてきた…)
あの瞳に覗き込まれる度に奥底から湧き上がる不安。
それに駆り立てられ、無性に力任せのパンチを叩きつけたくなってしまうのだ。
「…シッシッシィッ!シィッ!」
ジャブ二発から右ストレート、そこで止めておけばいいのに踏み込んで更に右ストレート。
「…っ!?」
またも硬い障害物に当たり顔面が弾かれ、見れば王者の体は視線の下。
(…この距離ならっ!)
この距離なら当たると踏み、もう一発下に打ち下ろそうとした瞬間、王者はぬるりと滑り込む様に俺の腰にしがみつく。
力は感じず、本当にいつの間にかそこにいたという感じ。
レフェリーがすぐに駆けつけクリンチをコール、そして引き剥がす。
「…シュッ!!」
離れ際の一瞬に狙いを定め、俺は踏み込んで力のこもった左ストレート。
だが王者は全く慌てる事無く、大きく仰け反りながら掴む様にして捌き、引き手に合わせ左を鼻先に軽く当ててから距離を取った。
もうすぐ第二ラウンドが終わる。
このラウンドのポイントをどちらに付けるかと言われれば、間違いなく向こう。
(…慌てるな…皆こうやって神経をすり減らしてやられていくんだ。)
俺はその場でトントンとリズムを刻み、精一杯平静を装った。
だがその瞬間、鋭い痛みが鼻先に走る。
「…っ!?」
(…くっ…このっ!?」
王者が距離感の掴みにくい独特の動きから、鋭く左を伸ばし撃ち抜いてきたのだ。
ツーンと鼻先が痺れるような感覚に襲われる、パンチは硬く間違いなく倒せる拳。
「…焦らないっ!!」
頭に血が上りそうになった俺の鼓膜に、会長の声が響く。
気付けば俺は大きく右腕を引き、思い切り振り抜こうとしている所だった。
(…そうだ…冷静に…冷静に。)
静かな呼吸を繰り返し王者を見やると、安全な距離を確保し、マットの上を流れるような足運びで俺を眺め見ている。
そこからは鼻にジンジンとしびれる痛みを感じながらも、王者を捉える視線にだけは強い意志を乗せ、そのまま第二ラウンド終了のゴングを聞いた。
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