第二十一話 今という時間
八月十四日、計量はホテルの一室を借り切って行われる。
調印式はその後、隣の大広間で開かれる予定。
王者側は二週間ほど前に来日しており、一つ南の県にあるうちより大きなジムで調整していた様だ。
確か家族は少し遅れ、昨日来日しているとかなんとか。
そしてこちらの陣営が計量会場へ辿り着くと、向こう陣営はまだスウェットを着た状態。
サングラスなどは掛けておらず、別段不必要な装飾品も身に着けていない、一言で言ってしまえば地味な恰好である。
周囲を囲む人たちも大柄なガードマンではなく、本当にジムの関係者だけの様だ。
しかし黒々とした肌に理性的な瞳、視線が合わさるとそれだけで格の違いを感じてしまった。
それでも呑まれるという事は無く、平静を装いカメラのフラッシュも気に留めず計量台へ。
一発で通過すると、多少の脱水症状を回復するべく経口補水液を口に含む。
王者も問題なく一発で通過、近くで見ると意外に背が高い。
公表では身長百七十四センチ、リーチ百八十センチとあるが、もう少しあってもおかしくない雰囲気。
俺と王者を報道陣が囲みだした所で、係員が割って入り隣の大広間へと促してくれる。
席につくのは会長と両陣営の通訳だけ、及川さんや牛山さん、清水トレーナーも記者たちの後ろから眺める格好。
同じく同門選手たちも興味深そうに眺めていた。
両者を分かつ丁度中間にチャンピオンベルトが置かれ、両者の前には試合で使う日本製のグローブ。
そして俺が渡された紙にサインしてから、記者たちの質問に答える形だが、ありふれた無難な質問が続き、特にこれと言って盛り上がる事も無い流れ。
俺とこの王者らしいと言えばらしいが、大舞台なので盛り上げたい気持ちもあり、少し大きな口を叩いてみる事にした。
「エルヴィン選手は非常に堅実なスタイルが魅力ですが、明日は大いに乱れてもらおうと思ってます。」
おおっと記者たちから声が上がり、王者(通訳)の返答を待つ。
「今までと同じ。仕事をこなし帰る、それだけだ…とおっしゃってます。」
まあ、挑発に乗ってくるような選手でないのは最初から分かっていた。
その表情は只一点だけを見つめ、微動だにせず。
この雰囲気はあの人に通ずるものがある、高橋晴斗選手に。
ただ違う点は生まれ持った性能、あっちは狙わずとも当たり前にKО出来る怪物、こちらは緻密な計算と立ち回りで勝利を掴む印象。
その後も再三盛り上げようと試みるが空振り、微妙な空気のまま調印式は終わった。
▽
皆で車に戻ると、やはり話題は先ほどのやり取り。
因みにこちらの車両は、保護者三人と佐藤さん、そして明君。
当然同門選手たちも同じ興行に出る為、清水トレーナーの運転する車でワイワイやっているだろう。
何でも俺と一緒だと緊張するかもと、会長が気を使った結果らしい。
因みに高校生三人組は、今年受験勉強があるので相談しながらゆっくりやっていくとか、新人王戦は来年出る予定。
これは英断だと思う、まだ体が出来ていない上に忙しい高校三年生、決して無理をする時期ではないだろう。
三人共が地元の大学志望と言うのも大きい。
清水トレーナーの見ているプロ二人は五月にも試合をこなしているが、今回も出る予定のようだ。
その時の試合は快勝だったらしく、波に乗っている内にとか言っていた
「不思議な感じの人でしたね、チャンピオン。」
佐藤さんの受けた印象は、恐らく全員共通のもの。
明君もやはり同じ事を思っていたらしく、付け加える。
「何かあんまり動かない…ですよね。減量がきついからでしょうか…マネキンみたいでした…」
続き及川さんが、荷物から取り出したおにぎりを俺達に手渡しながら語る。
「確か『ヴィジョン』っていう異名だっけ。どういう意味なんだろうね。」
英語は詳しくないが、何となくあの王者には合っている気がした。
全てを見通しているかのような紙一重のディフェンス、未来が見えているかのように当たるパンチ。
それが不遇の最強王者、エルヴィン・コーク。
正規王者でありながら、一部ではスーパー王者よりも強いと言われる男。
だが、彼が今以上に輝く事を望まない関係者は多い。
理由を一言でいえば、金にならないから。
故にプロモーターからも敬遠され、統一戦など組めるはずも無し、他の選手の前座でようやくリングに立てるという状況も多いと聞く。
コアなボクシングマニアからは評価されるが、それだけでは職業ボクサーとして成り立たない。
支える者達もまた生活があるのだから、選手には客を呼ぶ努力が必要だ。
(あの人はその辺りをどう考えているのだろうか、一度語りあってみたいな。)
▽
家に帰り着いた時刻はもう夕方、しかしまだ日が落ちるには早い。
お盆期間中は喫茶店もお休み、咲は実家にいた筈だが戻ってきている様だ。
「咲、俺ちょっと墓参り行ってくるから。」
「分かった。ご飯仕度済ませておくね。」
こういう所、本当に良く出来た伴侶だと思う。
一人になりたい時、言葉に出さなくても察してくれるのだ。
一方俺はちゃんと察してやれてるだろうかと不安になるが、あの幸せそうな笑顔を見れば安心してしまう。
軽いジョギング程度の速度で走り墓に着くと、特に何も言わずしゃがみ目を瞑った。
お盆という事もあり、夕暮れでも墓参りの家族連れが多く見え、子供たちの笑い声も聞こえる。
「父さん…祖母ちゃんも、見ててくれよな。俺やるから。」
長居する気はない。
どうせ試合が終わった後も来るのだから。
その時どんな気持ちを抱え、どんな顔をしているのかはまだ分からないが、きっと笑っている筈だ。
隣には咲が、出来れば亜香里とスイも連れてくるとしよう。
▽
家に帰り着くと、良い匂いが鼻を突く。
匂いに誘われ足早に居間に向かう、すると咲と亜香里が俺を待ってくれており、テーブルに料理を並べている真っ最中。
別に豪勢な食事ではない、うどんにおにぎり、自家製のフルーツジュースに特製ケーキと団子。
一つとて出来合いのものは無く、全て咲と亜香里が手ずから作った料理だ。
これがどんな高額なコース料理よりも美味いんだ。
「「「いただきます。」」」
横ではスイも高級猫缶へまっしぐら。
俺達の会話はくだらなくて笑える他愛のない話題ばかり、明日の事については咲も亜香里も特に何も言わない。
気を使っているのだろう。
そういう小さな気遣いが俺を奮い立たせ、明日への活力をもたらしてくれる。
食事を終えると、虫の合唱を聞きながら暫しゆったりとした時間、いつもはすぐに部屋へ向かう亜香里も今日は居間にいてくれるようだ。
ふと思う、上手く行き過ぎている人生だと。
しかし、どこかで落とし穴が…などという事は考えない。
支える人たちがいて、俺が死に物狂いで駆け抜け作られた今という時間。
ならば俺は、それに応える事だけを考えれば良いんだ。
「二人供…明日は見に来るよね?」
二人は顔を見合わせ笑顔で頷き、まるで示し合わせたようにスイもミャアと鳴いた。
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