第十九話 春

「長い間、お世話になりました。」


「うん。こちらこそだよ。試合のポスターとかあったら引き受けるから、いつでも言っておいで。」


俺は悩んだ結果の選択として、高校卒業からずっと勤め続けた店舗を退職する事にした。


不退転の決意を気取っている訳では無いが、ある種の覚悟を示したつもりだ。


店長からは正規雇用の話も持ちかけられていたので、少々心苦しい。


だがもう後には引けない、この選択を後悔しないよう精一杯やるだけ。


店舗の外観が望める場所まで来ると、感謝を込め今一度深く頭を下げた。


そして向かうのは『森の喫茶店』と言うお店。


実はこの一月色々な事を考えていたのだ。


先ずは会長に仕事を依頼し、宣伝ビラを作成。


お客と言う立場で接するのは、何だか妙に気恥しかった。


後は牛山さんに腕のいい大工を紹介してもらい、ガタが来ている部分を直してもらう事に。


咲からの提案でトイレなども作り替え、ウォシュレットにした。


だがこの年季の入った外観は気に入っているらしく、出来れば残してほしいとの事。


これには俺も同感、常連さん達も同じ思いを抱えていたのではないか。


当然現在の店主である竹本お婆さんには了承を取っており、ここはあんたたちの店になるんだから好きにしろと言ってくれた。


そんなある日の閉店後、竹本お婆さんは帰ってしまったが、咲と並んでカウンターに座りこれからの店舗運営を話し合う。


「グランドピアノ置きたいね。」


「え?本当に置くの?私が弾くにしても一々注文はいる度に演奏止める事になっちゃうよ?」


「その時は俺がコーヒー淹れるから大丈夫だよ。咲の演奏聞きたくて来る人も出るだろうし。」


昼過ぎからの二時間とか、時間を決めて引くのがいいかもしれない。


俺は三時過ぎくらいからジムに向かうので、それまでのサービスタイムと言った所か。


現在この店は定休日が週に一回水曜日で、朝九時開店、夜の七時閉店と営業時間はそれほど長くない。


だがこれはこの先も変わらないで行こうと思う。


「俺としてはね、赤字さえ出なければ良いって考えなんだ。」


自信があるかどうかなど関係なく、俺は決めた。


億単位の額を稼げる選手になると。


だからこの店に求めているのは、何というか癒しに近いもの。


お客さんだけではなく、俺もゆったりとした時間を過ごせる空間にしたい。


そう言う安らげる時間と空間、余裕があってこそ戦い続ける事が出来るのではないかと、そう思っている。


「昼だけの限定メニューとかも欲しいね。ほら、俺がいる間だけ出しますよって感じの。」


「それもいいね。アルバイトはどうする?亜香里ちゃんはやってみるって言ってくれてるけど。」


この店、結構夕方からのお客さんが多いらしい。


何でもその時間帯は、喫茶店と言うより定食屋と言う方が正しい光景になるとの事。


遠くないいつか、咲のお腹に俺の子が宿るという流れも十分に考えうる、その時どうするかも考えておくべきだろう。


「まあ、それは追々考えるとして、仕入れとかはお願いする事になるけど、咲も運転免許持ってたよね?」


「うん、ペーパードライバーだけどね…。」


「なるほど、じゃあちょっとずつ慣れておいた方が良いね。今日の帰りは咲が運転してよ。」


そうして短い帰り道、咲がハンドルを握り帰路に就く。


「何だ、結構上手いじゃん。これなら大丈夫そうだな。後で軽自動車買いに行こっか。」


咲は新車じゃなくても良いと言ったが、どうせ長く使うのだから、ここは俺の我が儘を通してもらい、次の定休日にディーラーへと向かう事にした。


金を出すのは当然俺、古臭いが男の役目だと思っている。



▽▽



そしてあくる日の水曜日、その日は午前中からディーラーへ。


最初から買う車を決めて向かったので、そう時間もかからず契約し場を後にする。


納車までそう掛からないらしく、来週には咲も自分の車で行き来する事が出来るだろう。


その帰りは丁度墓場の前を通るので、父に挨拶していく事に。


試合後には毎回来ているせいかそこまで汚れている訳では無いが、一応咲がウェットティッシュで綺麗に拭く。


俺は墓石の前でひざを折りしゃがむと、目をつぶり現状報告。


(父さん、信じられない事に世界戦やれるかもしれないよ。)


父は言っていた、俺のパンチは世界に通用すると…冗談交じりで。


自身は結局届かなかったわけだが、その無念は俺が晴らしてやる事としよう。


目を開け横を見ると、咲も同じように目を瞑り静かに手を合わせている。


自らの伴侶ではあるが、こうしてみると本当に美しいなと思い繁々眺めてしまった。


「ねえ咲、次の試合終わったら籍入れよっか。」


勝ったら、ではなく終わったら、必ず勝つという覚悟を込めての言葉だ。


「…うん。色々至らない所もあるとは思いますが、どうぞよろしくお願いします…なんちゃって。ふふっ。」


互いが自然に笑い合うと、軽く口づけを交わし墓前を後にする。


次にここへやってくるのはお盆だろうか、試合の日取りによっては結構きつい時期だ。


だがまあ、お盆には死者が帰ってくるというし、父の前で世界戦というのも中々おつなものかもしれない。




▽▽▽▽




喫茶店で俺も働く様になって約一か月、色々と慣れてきた頃。


注文していたグランドピアノが届いたが、入り口から入るのかという問題が発生。


慎重に慎重に業者さんと協力し、何とかギリギリ搬入成功。


置く場所はカウンターから見て右斜め前、お客さんにとってはバックグラウンドミュージックになる形だ。


このピアノ、中古の国産で値段は約百万円、搬入時は昼時でありお客さんも驚いていた。


そこから良く分からないが調律とかいうのをやってくれて、ようやく引ける状態に。


「咲、俺がカウンター立つからなんか引いてよ。」


そして少々照れながら腰掛けると、何度か鍵盤を叩き音を確認。


それだけでもやはり素人が引くのとは、姿勢から音から何もかもが違う。


お客さんの視線も釘付けになる中、咲が弾き始めたのは俺の入場テーマにもなっている飛翔。


俺がクラシック音楽で唯一聞き慣れた曲だが、間近で引いてもらうのは迫力が違う。


ピアニストにおけるプロという定義はよく分からないが、俺にとって彼女は間違いなく一流の奏者だ。


昼時のデパート裏に、グランドピアノの力強くも綺麗な旋律が響く。


その音色に導かれる様に何人かの通行人が店を覗き込み、更にその中の数人はお客として足を踏み入れてくれる、そんな流れ。


そして親子連れのお客さんが来店すると、今度はアニメの曲らしきものにシフト。


子供たちは大喜びだった。


そんな光景を見たお婆さんは、柔らかな笑みを浮かべながら呟く。


「これなら、もう引退してもいいかもしれないねぇ。」


「それじゃ俺が不安ですよ。もう少し教えてもらってからで良いですかね。」


気付けばカウンター席は埋まっており、伴侶の独演会を静かに聞ける状況ではなくなっていた。

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