第十七話 終わらないでくれ

第七ラウンドが始まった。


足を踏みしめると、しっかりマットの感触が返ってくる。


俺の回復力も中々のものじゃないかと、高ぶった感情そのままに駆け出し叩きつける。


同時に市ヶ谷選手も振り回したので、互いの頬を掠める際どい交差を演出。


会場の歓声は止む事無く鳴り響き、それが俺達の気持ちをさらに乗せ終わらぬ打撃戦を生むという好循環。


正直、こんなに気持ちのいい試合は初めてだ。


こんなに気分が高揚し、いつまでも味わっていたいと思うこんな感覚は初めてだ。


終わりがやってくるという事実を、試合中に寂しいと感じた事等ある訳が無い。


会場の大歓声に包まれながら殴り合うという、只それだけの行為。


にもかかわらず、あっという間に時間が過ぎ去っていく。


先ほどのラウンドでは俺が効いてしまって、満足に打ち返せず申し訳なかったが今回は違った。


ゴングを聞き俺に背を向ける瞬間、市ヶ谷選手の顔はどこか満足そうだったんだ。



▽▽



第八ラウンド、何も変わらない、今を楽しむだけだ。


駆け出し右を叩きつけ合うと、同時に少しだけふらついた。


互いの体をグローブで押し合い空間を作り、さあやろうぜとリング中央向かい合う。


それでもガードだけはしっかりする。


そうでなければ直ぐに終わってしまうから、彼のパンチは連打でもらえば意識が飛んでしまうほど強く、この時間がそんなに早く終わってしまうなんて勿体ない…今俺はそう思っているし、きっと彼もそう思ってくれている筈。


と思ったのだが、向こうは相変わらずの感覚任せの防御、ガードなど考えず両腕を叩きつけて来る。


そしてこちらが合間を縫って真ん中を貫くというやり取り。


打ち合いだし殴り合いだが、喧嘩ではない。


いつの間にかしっかりと互いが培ったものを出し合う、これぞボクシングという試合になっている。


ラウンド中盤、際どいタイミングで放たれた両者のパンチが交差し、俺の右だけが顎に入ってしまった。


市ヶ谷選手の体が揺らぐ。


不思議な話だが、パンチを叩きつけながら、倒れないでくれと懇願している自分がいた。


そしてそれに応える様に口角を吊り上げた市ヶ谷選手は、泳ぐ体に檄を入れるかの様に自分の顔をバシッと叩くと力強い反撃。


今度は俺が揺らいでしまった。


ふらふらと体が泳ぎ、情けないぞと心の中でつぶやく。


そして胸の前でグローブを勢いよく合わせると、俺も檄を入れ直す。


そんな中、俺達にはゴングなど聞こえていなかったが、レフェリーが邪魔してくるので仕方なく自陣に戻った。



▽▽



迎えた第九ラウンド、待ちきれないと言わんばかりに駆け出し思いをぶつけ合う。


(…ボクシングってこんなに面白いものだったのか。)


互いにダメージも疲労もあるが、そんなものは感じないし知った事ではない。


会場の大歓声に突き動かされる様に、左右の腕で受け止め叩きつけるだけだ。


コンパクトな連打は得意な方、間隙を縫ってラッシュ。


その中の一発がまたも市ヶ谷選手の顎を貫いた。


がくりと膝をつくが、レフェリーがカウントを数える前に立ち上がり向かってこようとする。


それを受け俺も向かおうとするが、レフェリーが間に立ち塞がってまた邪魔をしてきた。


少しイラついたがこれがこの人の仕事、仕方のない事だ。


今の自分は正常ではない、分かっている、分かっているけど止められないし止まる気もない。


市ヶ谷選手だってまだまだ元気。


先ほどのダウンなどあってない様なものだ。


レフェリーが再開を許可した瞬間、またも歓声に乗せられぶつけ合う。


俺はスタミナには自信があるほうだが、こんなに休まず打ち続けても疲れを感じない事などあるのだろうか。


まあ、今はそんな事心底どうでも良いのだが。


とにかく目の前の漢に応えてあげたいし、同じく応えてほしい。


そんな気持ちで思い切り振り抜き交差した所でゴング、やはり聞こえてはいないが、レフェリーが間に入ってきたのでそうなんだろう。



▽▽



第十ラウンドに入り試合も終盤、もうすぐ終わってしまうという寂しさが涌きあがって来る。


もっと…もっと…この感覚を、舞台を味わっていたい。


向こうはどう思っているのだろうかと視線を向けると、足取りが重そう。


一体どうしたのだろうか。


故障という訳では無いだろうが、打ち合えるだろうか、心配だ。


そんな俺の心配をよそに、市ヶ谷選手はバンッとグローブを合わせ気合を入れると勢いよく駆け出してくる。


何だろうか、凄く嬉しい。


俺も応え進み出ると、同じタイミングで渾身の左を真っ直ぐ伸ばした。


そして返す刀で右フック、だが何の手応えも無く空を切ってしまう。


見やれば眼前にいる筈の人がそこにはいなくて、レフェリーが俺の胸をトンと押し下がらせる。


どうやら市ヶ谷選手がダウンしてしまった様だ。


でも大丈夫、彼はすぐに立ってくる。


(…ほらね、立ってきた。)


眼前には続行を示す様に舌をベロッと出し、ファイティングポーズを取る逞しい姿。


レフェリーが退くと、高揚感に突き動かされるようにして戦いへ身を投じる。


市ヶ谷選手は歯を食いしばった表情で右を振り切る動作。


俺もそれに応え、右を真っ直ぐ振り抜く。


リーチの差で俺のパンチが先に当たったが、気にせず突っ込んで更に左を振り抜いた。


今度は手応えあり、さあ今度はそっちの番だと受け止める構えを見せるが中々来ない。


どうしたと見やれば、ロープに背を預けうつむいたまま徐々に崩れていく彼の体。


(ああ…そうか…終わっちゃうんだ…)


市ヶ谷選手はもう立ち上がってこないと悟った瞬間、俺の胸の内を虚無感が満たしていく。


それから数秒、呆然としたまま佇んでいると、リング上には両陣営が入り乱れ、急に目線が高くなったなと思いきや、牛山さんが担いでくれていた。


見下ろすリングには意識の戻った市ヶ谷選手もおり、グローブを外し親指を立てこちらに向けて来る。


『良い試合だったよな。』そんな言葉が聞こえた気がした。


そして直接俺と語りあう事はせず、陣営を引き連れリングを後にしていく。


俺は牛山さんの背から飛び降りると、その逞しい背中に深々と一礼、見送った。


またいつか、あの人と出会えるだろうか、このリングの上で。


会場全てが一つになる、こんな感覚をまた味わいたい。


そうだ、もう一度彼に会おう、勝ち続けてチャンピオンになって…彼を指名しよう。


俺は、そう心に誓った。

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