第十話 大一番へ
試合から二日後の早朝、目覚めると横にある筈の姿が無い。
俺も結構早起きだが、咲はそれ以上に早起きで働き者だ。
そう思うのには理由があり、いつもではないのだが、試合後は今まで抑制されていたものが一気に噴き出してしまう。
その中には当然性欲も含まれ、昨夜は相当無理をさせてしまったきらいがある。
因みに一応遮音シートなるもの壁に施しており、亜香里には気を使っているつもりだ、どれだけ効き目があるかは知らないが。
そして俺も目覚めランニング用のスウェットに着替え部屋を出ると、台所で支度をする咲の姿。
「あ、お早う。」
エプロン姿の咲と朝の挨拶を交わし、居間で軽く柔軟をこなす。
台所は居間からも見えるのだが、時々咲が腰をトントンと叩く仕草をしているのを見て、少々申し訳なく思った。
それはそれとして外に出ると、十月も中旬になり早朝は少し肌寒いと感じるくらいで、いつも同じ時間に走っているせいか、出会う人たちも大体同じ。
運動部らしき学生に犬の散歩をするおじいさん、川辺を歩く仲の良い老夫婦に、夜勤明けだろうか眠そうに自転車を漕ぐ作業着のお兄さん。
様々な人間模様溢れる早朝の森平川沿い。
そして折り返し地点である神社の石段を駆け上がり境内へ着くと、咲の代わりに掃除をするお義母さんの姿。
「あ、うちの咲を手籠めにした統一郎君じゃないのぉ~。」
ニヤニヤ揶揄い交じりの言い草はいつもの事。
まあ、事実でもあるので俺は苦笑いで朝の挨拶をするだけだ。
「あ~あ、誰かさんのせいで私の仕事増えちゃったなぁ~。」
お義母さんは相変わらず締まりのない顔でそんな事を語る、つまり手伝えと言う意味。
「え?手伝ってくれるのぉ~?やっさしぃ~っ!」
こうして境内の一角を俺が掃除する事になるのも、最早恒例行事といっていいだろう。
そして手早く済ませ、何度か石段を往復したのち帰路に就くのだ。
周りの環境がどんなに変わろうとも、俺が出来る事もやるべき事もそうは変わらない。
日々の積み重ねこそが力なのだから。
▽
夕方、本日のお勤めを終えジムに赴けばこちらもいつも通りの光景。
会長と牛山さんが練習生を指導、プロとなった高校生三人組がそれぞれのメニューをこなし、佐藤さんと明君はまだ来ていない様だ。
こういう日は、階級の近い吉田君と古川君の相手を俺がして、佐藤さんが明君と奥山君の相手をするという流れになる。
とは言ってもスパーリングは毎日する訳では無く、大体週に三日から四日程度。
それ以外の日は会長がその分もみっちりしごいてくれる。
寧ろ、スパーリングがある日の方が俺としては楽なくらいだ。
そして練習終わり、
「統一郎君、向こうと話してね、日程は二月になりそう。希望の日付とかあるなら考慮するよ。」
そう言われ考える。
二月と言えば俺にとって転機となった日付がある月だ。
「…十三日が良いです。」
それは圧倒的不利をひっくり返し、日本王者となっためでたい日。
だが同時に、戦前の予想通り為す術もなく敗れ肩書を失った苦い日でもある。
「そっか…分かったよ。意外にもね、結構こっちの言い分が通りそうなんだ。」
言われ市ヶ谷選手を思い出す。
あの時随行していたのは契約プロモーターの代表であった様だが、制御するのに多少諦め気味の空気も感じた。
まあ、彼の売りは何をしでかすか分からない意外性なので、そこを枠に嵌めてしまったら確かに魅力も半減しそうだ。
しかしこちらに主導権を渡すというのは、どういう意味があるのか分からない。
結構な額のファイトマネーを要求している様なので、それで元が取れるならいいという考え方なのだろうか。
その辺りについては、牛山さんからも突っ込んで聞くなと言われているので、敢えて聞く事はしない。
「場所なんだけどね、泉岡の野球場を使わせてもらう事になるよ。」
野球とはあまり接点が無く、身近にありながらも言った事が無いので、少々外観を思い出してみる。
「確かドーム型の大きな球場でしたよね。」
「そうそうリングを設営すれば、二万人以上入るからね。」
これは凄い事だ。
国内選手の世界戦でも、そこまでの集客を見込める選手は限られる。
本来俺なんかには、その大きな会場を埋める集客力など当然無い。
市ヶ谷選手にぶら下がっているようで多少気兼ねするが、それでも全てを利用しなければ上は望めまい。
「計量会場もね、近くの豪華なホテルの広間を借り切ってやろうかと思う。」
会長の口ぶりからも、この一戦に賭ける意気込みが感じられる。
会長兼プロモーターとしては、やはり規模の大きな興行と言うのは胸が躍るのだろう。
当然のことながら、裏を返せば大きなリスクも抱えている筈。
しかしその瞳には、まるで現役当時を思わせる獰猛な輝きが見て取れ、俺もゾクリとするほどだ。
まるで気後れしていないその姿は、本当に頼もしい限りである。
▽▽▽
十月も下旬に差し掛かったある日、俺の姿は母校にあった。
何故かと問われれば、亜香里の三者面談だからと答える。
当たり前だがこれはイレギュラーな事態、当初は母が来る予定だった。
だが、急な仕事が入ったとかで駄目元で俺に連絡が来て、仕事を早引きさせてもらって今に至る。
電話越しに何度も謝る母は、本当に申し訳無さそうでこちらの方が気を使ってしまった程。
「渡瀬さんの進路なんですけど、本人は就職を希望されております。」
担任の女性教師にそう告げられるが、進路は本人が決める事、頼られない限り俺が口を出す話ではない。
隣の亜香里に視線を向けると、俯いてはいるがそこまで気負った感じは無い様に見えた。
「本人がそう言う希望をしているのであれば、その方向で自分も支えていこうと思っています。」
担任との話自体はいたって普通、学校での態度や素行、成績に至るまで特に問題ないとの事。
面談中ずっと本人は無言であり、終わって廊下に出て直ぐ、気を解す様に頭を撫でてやる。
「亜香里はさ、咲と一緒に働くのは嫌?」
「い、嫌じゃない…義姉さんが迷惑じゃなければ…だけど。」
迷惑どころか、向こうは早く一緒に働きたいと待ちわびてるよ。
だが、それは俺の口から告げる事ではない気がする。
家では本当に仲の良い姉妹の様な二人、直接本人の口から聞くべき言葉だろう。
「まあ、やりたい事が見つからなければ、選択肢の一つとして考えておいてよ。」
校舎を歩く道すがら俺がそう告げると、亜香里は何故か速足で歩きだす。
その顔は少し恥ずかしそうにも見えた。
何故かと思い周囲を見やると、大勢の視線。
俺も視線を向けると、ワッと歓声に近い声が上がった。
ああなるほど、例の試合が全国的な話題になっているので、比例して俺の扱いも大きくなっているという事か。
俺は速足で前を歩く亜香里を捕まえ、殆ど無理矢理に手を繋ぐと駐車場までの道のりをゆっくり歩くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます