第五話 ここにいてよ
七月初旬の日曜日、ジムは休みの為フィットネスジムへ向かうと、そこには見知った顔が数人。
「はぁ…はぁ…あれ…兄さん?」
ランニングマシンを使っていたのは亜香里。
春奈ちゃんが会員である事を知ってから、俺が殆ど無理矢理の形で入会させたのだ。
その横には春奈ちゃんが軽快に同じマシンで汗を流している。
しかしこちらは余裕そう、雰囲気とは違って運動神経は良いらしい。
少し離れた場所に目を向けると、本格的な構えでサンドバックを叩く叔父もいる。
亜香里たちはともかく、叔父までが重なるのは非常に稀、というか初めての事だ。
そうなると、少し悪戯心が涌き挙がって来る。
「叔父さん、そんなに頭つけて打ってるだけじゃ駄目だよ。しっかり中間距離から打つ練習もしないと。さあ来いっ!」
バテバテな叔父の前に立ち、サンドバックを支える。
どうやらしっかり時間を決めてやっているらしく、文句を言わず荒々しい呼吸のまま叩き始めた。
今このフィットネスジムにはトレーナーが二人常駐している。
及川さんの友人らしいが、格闘技ではなく陸上競技の選手だったとの事。
やはりしゅっとしたスタイルで、四十過ぎとは思えない若々しさだ。
ビーっと叔父の横からブザーが鳴り、ラウンドの終了を告げる。
「はぁ…はぁ…終わりだ…今日は…終わり…。」
叔父はフラフラとした歩みでシャワー室へ向かっていき、俺がお疲れさんと声を掛けると、軽く腕を上げ応えてくれた。
「お兄さんっ!私にも教えてくださいっ!」
声のした方を見ると、ボクシンググローブを嵌めた女子高生二人組。
だがここは俺のジムではない、勝手な事をしても良いのだろうかと及川さんへ視線を向ける。
すると、指で輪っかを作りOKのサイン。
「やっぱりさ、しっかり強いパンチを打つには重心が大事なんだ。だからね…」
そう言いながら春奈ちゃんの腰に手を当てると、横から冷ややかな視線が突き刺さる。
「…兄さん。咲さんに言いつけますよ…。」
別に下心でやっている訳では無いのだが、言いつけられては敵わないと極力ボディタッチは避ける方向に。
その後、二人に軽く指導してから俺も自分のトレーニングを開始した。
▽
七月下旬、咲の休みに合わせて俺も有休をとらせてもらった。
そして向かうのは海。
一応亜香里たちも誘ったのだが、お邪魔になりたくないからと断られてしまった。
駐車場に車を停めると、ビーチパラソルを脇に抱え砂浜へと向かう。
「じゃあ、俺設置してるから咲は着替えてくるといいよ。」
設置自体はそう時間もかからず終わり振り返ると、着替え終わった咲もやって来る。
裸体を何度も見ているのに、太陽の下で眺めるその姿は何故かいつもより美しく見えた。
「そんなにじろじろ見られると流石に恥ずかしいよ…もう。」
こういうタイプの水着は何と言うのだろう、布地の多いビキニ。
下はミニスカートの様になっており、捲ってみたい衝動に駆られた自分には少々呆れてしまう。
それはそうと、咲をパラソルの元に置き俺も着替えてから日光浴としけこんだ。
そうして海に来たのに、海水に浸ることなく浜辺で並んで潮の満ち引きを眺めるだけ。
俺はこれでも十分に楽しいのだが、咲はどうだろうと視線を向ける。
「…ん?何か飲み物でも買ってこようか?」
別に催促していた訳では無いのだが、咲をその場に置き俺が買いに出る。
こういう場合、戻ってきた時に彼女がナンパされているというのが定番だが、そんな事も特に起こらず買ってきたドリンクを手渡した。
だがやはり隣の女性は美人、前を通り過ぎる人がちょくちょく視線を向けている。
俺がそのことを咲に伝えると、
「え?それ…明らかに勘違いしてると思うよ?」
照れて謙遜しているのかと思い、俺は否定の言葉を述べる。
「あのね統一郎君…さっきから見られてるのは、私じゃなくて…統一郎君だよ?」
「え?………何で?」
俺は自分の姿に変な所は無いかと確認するが、一物がはみ出ているなどという事も勿論ない。
「何ていうかね…顔も知られてると思うし、それ抜きにしても…体が凄いから…。」
それを聞いて、何となく思い当たる節があった。
モニター越しで見るのと直に見るのでは、人の印象は全く違う。
モニター越しだと細く見えるのに…とかそう言う驚きも多分に含まれているのだろう。
「正直ね、私もこうやって太陽の下で見る事って無いから、ちょっとまじまじ見ちゃう。」
じっと見られると流石に恥ずかしく、照れ隠しも兼ねて大胸筋をぴくぴくさせた。
それには咲も大喜び、指でつついたり挙句には鷲掴みにしたり。
そんな風に騒いでいるとますます周りの視線が集中し、二人ともが多少の羞恥を感じ顔を赤らめてしまう。
もしかしたら、これが俗にいうバカップルと言う奴なのではなかろうか。
そんな奴等はけしからんと思っていたが、いつの間にか自分自身がそうなっていたとは、気を付けなければなるまい。
「咲はさ、海に来た事ってある?」
「う~ん、子供の頃に何度かあるだけかな。」
俺はこれで二度目だ。
葵さんと来て以来…彼女は今どこで何をしているのだろうか、不意にそんな事を思ってしまった。
隣に咲がいるのにそんな事を考えるのは失礼なのだが、自然と浮かんでしまったものは仕方がない。
「…統一郎君、折角だし海に入ろっか。」
咲は俺の返答を待つ事無く腕を引くと、波に足を晒し笑い声を響かせる。
俺も倣い波に足を付け、攫われる砂の感触を楽しんだ。
よく創作物などである、水を掛け合いキャッキャウフフは流石に恥ずかしくて出来なかったが、それでも十分に楽しい。
何故だろうか、隣で笑う彼女を見ていると、時の流れを否応なく感じてしまう。
もどかしい時間を過ごした学生時代、離れ過ごした数年間。
移り変わる様に大切な人が出来、その人は遠くに行ってしまった。
二度、胸が張り裂けんばかりの別れを経験し、今がある。
そんな事を思っていると、急に何か恐れに近い感情が涌き挙がってきてしまった。
すると、不意に咲が口づけを交わしてくれる。
表情は少し切なげで、柔らかい笑みをたたえた美しい女性の顔。
「…ずっといてよ。どこにもいかないで…。」
そう告げたのは俺。
考えて出てきた言葉ではなく、気付いたら出てしまっていた。
失うのはもう嫌だと、奥底から感情が溢れ出ている。
それから俺達は手を繋ぎ、パラソルの元へと戻っていった。
目の前に親子連れのビーチボールが転がってきて、咲が笑顔を浮かべ子供に投げ返す。
するとお母さんだろう若い女性は、ペコリと頭を下げ礼を返してくれた。
「いいよね…ああいうの。」
「そうだね…私達にもいつか…欲しいね。」
その為には必要なものが沢山ある。
「俺さ、必ず世界チャンピオンになるから、そしたら…籍入れよっか。」
「私は別に今でも良いんだけどなぁ~。」
そんな嬉しい事を言ってくれるが現実は厳しい。
特にボクサーなどというものは、世間から見れば世界チャンピオンになれたかどうか、線引きはそれくらいしかないのが実情。
収入にしても然り、他の競技よりもその一線が隔てる差は格段に大きい。
そして今の俺は、世界チャンピオンになりたいのと同じくらい、彼女の幸せも願っている。
どこかで線引きすべきなのかもしれない、もしこの先その道が閉ざされたと感じた時は。
だが今はまだそれを考える時ではない、只ひたすらに勝利を重ねるべき時だ。
今日も練習は休めない。
俺達は早めに帰り支度を済ませ、後ろ髪を惹かれながらも海を後にした。
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