第三話 身近な才覚
六月二十五日、一年数か月ぶりとなる地元開催。
東洋タイトル初防衛戦、場所は当然泉岡アリーナ。
今回はかなり気合を入れてチケットを売った。
勤務先にも持ち込み、同僚の主婦の皆さんにも協力をお願いするほど。
色々な店を回りポスターを張り、テレビ番組で何度も告知させてもらい、そして今日という日を迎えた。
後援会の人達による激励会には多く集まってくれたが、それでも会場を埋められるか不安だったのだ。
だが不安をよそに、周囲の協力が大きくチケットは完売。
興行収入としては成功を約束されたが、本当の意味で成功と言えるのはやはり勝利してからだろう。
一度はどうしようもない相手に当たり頓挫しかけたが、またここまで這い上がってこれた。
そしてこの会場でやる以上は、勝利と同等に内容も求められる。
少し前の様に勝つ事だけを考えていては駄目。
勿論それが第一だが、次も見に来たいと思える試合をしなければならない。
つまり、求められるのはKО。
「…緊張してる?」
メインイベンター用個人控室には、及川さんが付き添ってくれている。
明君と佐藤さんは、隣の控室でアップを始めている頃だろう。
「ああ~…そうかもしれません。何ででしょうね?」
「久しぶりの地元だからかな?メインが始まる頃には会場も埋まるだろうしね。」
いつもこの会場でやる時は、同じ一室で佐藤さんもアップをしていたのだが、今回は及川さんと二人きり。
彼らのセコンドには、清水トレーナーが就く予定になっている。
ここまでいつも通りにしていたつもりだが、気を使わせるほど気負いが見えていただろうか。
「相手の情報…殆ど確認してないな。」
「ん?今見る?」
そう言って及川さんがタブレットを取り出そうとしたので、やんわりと首を横に振る。
時間的には後二十分ほどで第一試合が始まる頃か。
そんな時、扉をノックする音が聞こえ、二人同時にそちらを向く。
「…おっす…なんか空気重いな。」
「お、お邪魔します。」
「兄さん、は、入っても大丈夫かな?邪魔だったらすぐ行くけど。」
顔を見せたのは、叔父と春奈ちゃん、加え亜香里という少し変わった取り合わせ。
「この子らがよ、控室の前ずっとうろうろしてたから連れてきたんだよ。」
春奈ちゃんは忙しなく控室の中を見回し、へぇ~とかほぉ~とか呟いている。
「…あ、あの…頑張ってっ!それだけ…」
「わ、私からもっ!頑張ってくださいっ!」
女子高生二人組は、それだけ告げると直ぐに一室を後にした。
「じゃ、俺も行くか。頑張れよ統一郎。」
「あ、ちょっと待って叔父さん、あの話ってどうなってるの?」
あの話と言うのは、同僚のナースと籍を入れるとかなんとかいうやつ。
「お前…それ今聞くか…結構余裕だな。」
身内の顔を見たからだろうか、先ほどまであった重苦しい空気がどこか薄くなったような気がする。
隣の及川さんも、何気に耳を澄ましており興味がある事は明白だ。
「ああ…まあ、その…な、いずれお前にも紹介するわ。今はそれだけだ。」
年甲斐もなく照れているのか、叔父はそう告げると速足で立ち去っていく。
扉を開けた時に会場のざわめきが聞こえ、どうやらもう試合が始まっているらしい。
俺もそろそろ集中しなければならない頃合いだ。
因みに、咲とは試合後に会って話をする予定なので、わざわざこの場に来る事はない。
▽
試合までの一時、俺はアップがてら天上隅に設置されてあるモニターを眺めていた。
先ほど行われた八回戦、明君の試合だが、内容自体は悪くないものの引き分け。
序盤にリードを許したのが大きく響いた形だ。
終盤は完全に明君ペースだったが、引っ繰り返すまでには至らなかった。
しかしこれで折れる程彼は弱くないと知っている、きっと大丈夫。
そして今映し出されているのは、ますます冴え渡る盤石の立ち回り。
相手は同級九位の選手だというのに、まるで寄せ付けない。
自分の距離を守って戦うアウトボクサー、その御手本を示しているかのようだ。
考えて見れば、佐藤さんのボクシング歴は意外に浅い。
それらを鑑みれば、最初から伸びしろがあって当然だったのだろう。
間違いなく、国内タイトルなら今すぐ挑戦しても取れる程の才覚。
少し心がざわめく、どうやら俺は彼をライバルとして見始めているのかもしれない。
勿論試合が組まれるなどという事は無いが、ジムの看板選手の肩書だけは譲れないし、譲りたくない。
こういう気持ちを捨ててしまえば、もう世界戦など本当に遠い眺めるだけの夢になってしまうから。
そんな事を思いながら及川さんにミットを持ってもらい、少しずつ本番の空気を纏う。
ある程度温まった所で、もう一度モニターに目を向けると最終第八ラウンド、佐藤さんは自分から前に出る事はしないが、相手が出ざるを得ない状況を作り出すのが上手い。
相手選手はこの大きく開いたポイント差では起死回生の一発を狙うしかなく、疲労も重なりどうしても余計な力が入る。
それこそが狙いであり、その一瞬を逃す甘い人ではない。
放たれるのは今までにも何度か見た、完全に距離を見切っての右ストレート。
そこから腰砕けになった相手を一気に決めにはいかず、中間距離から冷静にガードの隙間を狙うのだ。
そして相手選手が堪らずロープにもたれ掛かった所をレフェリーが割って入りTKО。
▽
もうすぐ入場時間、その前にテレビでは俺の生い立ちなどのVTRが流される予定。
知っている人にとってはまたかよと思うかもしれないが、それほど長い尺でも無いので我慢してほしい。
陣営は既に揃っており、先ほどまでリング脇にいたので多少の熱気を纏っているように見えた。
閉ざされたこの一室と外の熱気がまじりあう、これはどういう感覚で例えればいいのだろう。
通路に出ると、練習生を含めた同門全員が整列し道を作ってくれていた。
両手を上げ応えながら進み、お馴染みのクラシック曲飛翔が流れる中リングへ向かう。
歓声に包まれながら花道を進み、松脂をシューズに染み込ませ舞台へ駆け上がると、四方に一礼。
次は挑戦者の入場。
今回は自分を突き詰めてきたので、それほど相手を意識してこなかった。
コーディー・キッドマン、国籍オーストラリア。
二十八戦二十勝八敗十一KО、OPBFランキングは四位。
身長は百六十六センチ、リーチ百六十五センチで右利き、どちらかと言えばファイタータイプ。
俺が知っているのはそれくらい、不味いと思ったら会長が何か言うだろうし、結局自分が仕上がっていれば誰が相手でも関係ない。
今回はそんな感じで、パンチをもらわない事を意識するよう言われているが、出来ればKОで勝ちたい。
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