最終章 夢の舞台
第一話 現実的な未来
暦は四月に入り、桜も芽吹く春の装い。
亜香里も進級し二年生に、所謂就職組と言うコースでクラスは運よく春奈ちゃんと同じになった。
兄としてこれには本当に安堵したものだ。
そんなある日の週末、ある場所へ足を向けると、カランカランと来客を告げる涼しげな音が響く。
表の看板には『森の喫茶店』と書かれており、俺の目的は看板娘。
「あっ、統一郎君。いらっしゃい。」
コーヒーマシンの前に立つ咲が、ぱっとにこやかな笑みを浮かべ迎えてくれた。
この店に制服は無く、私服のジーンズの上にエプロンをつけるという出で立ち。
その隣には店主である竹本おばあさんがおり、厳しくは無いがしっかり教えてくれている様だ。
俺は会釈しつつカウンター席に座ると、いつものと一言。
通う様になって二か月くらいしか経っていないのだが、こういうのに少々憧れがある。
因みにいつものとはエメマン、何を頼んでもミルクと砂糖を入れるのであまり変わらないが、気分は違う。
咲の仕事ぶりはどうかと言えば、コーヒーマシンも豆の粉砕機も自動なので、実はやること自体少ないようだ。
こだわりを持ってやるのも捨てがたいが、手動でやったからと言って必ず旨くなるものでもないだろう。
「統一郎君、私も隣でお昼ご飯良い?」
咲は俺のコーヒー片手に隣へ腰を下ろすと、今か今かと賄いを待つ。
この賄いはおばあさんが作ってくれるのが恒例、毎日の楽しみだと語っていた。
「はい、お待ちどうさん。」
そう言ってカウンターの向こうから差し出されたのはオムライス、どうやら隣のお客さんの注文。
「あ、俺は焼肉定食頂けますか。」
人がおいしそうに食べているのを見ると、どうしても腹が空く。
この喫茶店のメニューは少ないが、頼めば結構何でも作ってくれるのが常連の間では有名。
売り上げもコーヒーに次いで多いのが、メニューにはない定食という不思議な喫茶店だ。
亜香里と春奈ちゃんを連れてきた時には、自家製の牡丹餅を出してくれたのも印象深い。
こういった時間を満喫するのが今の週末の楽しみでもある。
次戦は久しぶりの自主興行、泉岡アリーナで東洋タイトルの初防衛戦を行う予定。
その興行では、佐藤さんも下位ではあるが初めてランカーと当たるので、日々の練習にも熱が入っている。
先月の試合にも勝利し、十戦十勝で突入する本格的な上位戦線、実は俺も楽しみ。
明君も先週試合をこなし勝利したばかりだが、この興行にも出たいと言っている様だ。
そして練習生三人組も、そろそろライセンス取得に向け動き出す時期。
彼らのデビュー戦は地元でさせてあげたいという思いもある為、今この肩書を失う訳にはいかない。
結局のところ、地方の弱小ジムでやる以上負けても次がある試合など俺には無いという事だ。
いつも通り勝ち続けて、その先を掴み取るしかないだろう。
▽
食事をとった後はフィットネスジムで体を動かし、ロードワークをしてから今一度喫茶店へ。
食事をしに来たのではなく、咲を迎えに来たのだ。
実はこの後、大事な用事を控えている。
「じゃ、じゃあ、行こうか。」
「ふふっ、緊張しなくても大丈夫だよ。」
咲を助手席に乗せ、向かうのは森平神社。
明日未家の自宅は本殿の影にあり、裏側から車で上がって行けるようになっている。
因みにこちらは私道であり、参拝客が勝手に使ってはいけないが、俺は当然許可を得ているので構わない。
そして駐車場に車を停め、緊張した面持ちで明日未家へ向かう。
境内自体が広い土地なので大体は予想ついていたが、家もやはり立派。
景観を壊さない為か和風の平屋だが、俺が住んでいる平屋とは何もかもが違いすぎる。
流石に鯉が泳ぐ池などは無いが、豪邸と呼んで差し支えあるまい。
「おかあさ~ん、統一郎君連れて来たよ~。」
ガラガラと立派な引き戸を開けると、奥から女性の声が聞こえ美人なお母さんが顔を出す。
「あっ!もう~っ、やぁ~っと来てくれたわねっ!」
腰に手を当て、冗談交じりに仁王立ちするお義母さん。
咲が帰ってきたのはついこの間だが、結構前から朝のトレーニングで石段を駆け上がる度、お茶の誘いを受けるのが日課になっていた。
俺はその度、咲と一緒に伺いますとお茶を濁していたのだ。
その場で会釈し苦笑していると、咲に腕を引かれ奥の居間へと通される。
やはり居間も立派、この部屋だけでも二十畳ほどあり、襖で仕切られている向こうにもまだ部屋があるのだろう。
「おっ、来たなチャンピオンっ!」
座布団に座りながらテーブルに頬杖をついていたお義父さんが、笑顔で迎えてくれる。
咲の両親は美男美女だが気取った感じが一切なく、どちらかと言えば雰囲気だけ牛山さんに近い。
「父ちゃんっ!統一郎君来てくれたよっ!ちょっとこっち来なって。」
大きな声で呼びかけると襖が開かれ、やってきたのは宮司の拓三さん。
軽いノリの夫婦とは違い、こちらは年相応の風格を匂わせる佇まい。
「すまんね。無理を通すような形で来てもらって。」
確かに多少強引な所はあるが、こちらとしても別に迷惑という訳では無い。
一家はこれで全部、お婆さんは十年程前に亡くなったとの事。
そしてパタパタとお盆に茶を乗せやってきたお義母さんは、開口一番告げる。
「今日泊まってくでしょ。客間にもう用意してあるから。あ、でも咲の部屋に泊まる?どうせ…ねぇ?」
視線を向けた先はお義父さん。
「まあな。俺達はなるべく早く寝るようにするから、気にしなくていいからな。はっはっはっ!」
俺はどういう態度を取って良いのか分からず、出来るのは苦笑いくらい。
「もうっ!統一郎君困ってるでしょっ!…ごめんね?」
そんなやり取りをしている間も、拓三さんは我関せずとテレビを眺めている。
「ごめんごめん、さあっ!ご飯にしましょうっ!統一郎君食べちゃいけないものとかは?」
「あ、特にないですね。まだ減量も始めてませんし。」
「おお~っ、減量だってよ。おい、聞いたか?リアルだよなぁ~。」
そんな会話が続く中テーブルに並ぶ料理は、まるで旅館に出てくるような光景。
驚いている俺の耳元で咲が小さく囁いた。
「…私も見た事無いくらい豪勢…お母さんすっごく張り切ってる…ふふっ。」
まあそれはそうだろう、俺もそれなりに料理をするから分かるが、いつもこんなの用意してたら大変なんてものじゃない。
どうぞどうぞと言われ箸を伸ばせば、味も言う事無し。
そして和やかな雰囲気の食卓で交わされるのは、軽いのか重いのか分からない内容。
「統一郎君は、うちに婿に来るのかい?こっちとしてはどっちでもいいよ?」
あっけらかんとした感じに言われたが、大事な事なので考える。
遠宮家は既に持ち家なども無く、別に名を遺す事にもそこまで拘りはないが無くなるのは寂しい。
だが実は叔父に結婚の話が持ち上がっており、相手は同僚のナースでかなり進んでいる話の様だ。
名を遺すという意味なら、これで大丈夫と一安心。
「…神社って俺でも継げるんですかね?」
そう語ると、拓三さんが驚いた様子でこちらを見やるが、口を開いたのはお義父さん。
「ははっ、チャンピオンが神主の神社とか、何か凄いな。お祓いとか強そうだ。」
少し酔っぱらい始めたお義父さんを無視し、代わりに拓三さんが真面目に答えてくれた。
「…大学…は現実的では無いな。養成所に通うのが普通だと思うが、楽な道を歩んでいる訳でも無し今は今の事だけ考えなさい。」
言われ確かに、先ずは一つを為す、これが出来ずに次もあるものか。
その後は、これまた立派なヒノキ風呂を堪能し、客間に敷いてある布団で休む事に。
そして風呂上がりの咲もやってきて、欲情した俺は何度もハッスルしてしまい、翌朝向けられたお義母さんのニヤニヤ顔は暫く忘れられそうにない。
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