間章 日陰の王者

『エルヴィン、君自身に価値を高める意欲が無いのではどうにもならない。君との契約はここまでだよ。』


以前有名プロモーターから言われた言葉、今でもずっと心に残っている。


WBA世界ライト級王者、それが私の現在における肩書。


今の生活に不満は無く、幸いにも現状全てが満たされた生活を送れている。


マンハッタン郊外に一軒家を構え、妻と息子の三人暮らし。


私にとってボクシングは仕事であり、それ以上でも以下でもない。


最終学歴はミドルスクール(日本の中学校に当たる)まで、別に素行不良でも勉学に問題があった訳でも無い、家庭の事情というやつだ。


それでも優れた才能さえあれば道が開けるのが、この国の良い所。


幸いにして、私には非凡な才能があった。


ボクシングという一分野において。


それでも輝かしい成功を収めるまでには、それなりの時間が掛かってしまったのは否めない。


いや、現状を成功と言っていいものだろうか。


私のスタイルはとても彼らを…観客を満足させられるものでは無かった。


只の仕事としてこなすそれは淡々としており、熱狂とは真逆。


派手なものを好むアメリカ人にとって、これほど退屈な事もあるまい。


当然の如く会場には空席が目立つようになり、世界王者であるにもかかわらず、今では誰かの前座としてリングに上がる事が殆ど。


その現状を作る流れとして、ジェフリー・アーサーという同年代同階級に現れたスター選手の存在も大きい。


ルックスも良く試合もスリリングで派手な白人、片や欠伸の出そうな試合しか出来ない黒人。


人種を上げたのは別に思う所がある訳でなく、一つのファクターとして考えられると言う意味だ。


その待遇はファイトマネーと言う形で如実に表れている。


人づてに聞いた話でしかないが、恐らく百倍近くの差。


だが、私は何千万ドルものお金が欲しいとは思わない。


そんなに貰った所で一体何に使えと言うのだ?寄付でもしろと?御免だ…そう言うのは彼らに任せるよ。


今の収入でも家族三人満足な暮らしが出来ている。


私は只、大きな怪我も無くこの生活を守りたいだけ。


それ以上は望まない。





少し昔話をしよう、父の話だ。


私の一族は祖父の代でこちらに移り住んだアフリカ系移民だった。


祖父の記憶は殆ど無いが結構厄介な人種であったらしく、分かりやすく端的に言えば熱心な人権活動家。


その系譜を継いでという訳でもないだろうが、父も同様にそういう活動に熱心な姿をよく見て育った。


だが共に暮らす祖母は温厚な人で、私にとって一番心を開ける人物は彼女であったと思う。


家は裕福では無かったが、別段貧しいという訳でもない普通の家庭。


店をやっていたんだ、個人経営の小さな食料品店を。


立地の関係もあり基本的には黒人相手の商売、先に述べた活動の影響は無かっただろう。


だが母は違いそういう活動が嫌いであったらしく、度々父と口論になっていたのを覚えている。


父の行動も問題で、日を跨ぐような活動をしようものなら、店の商品を無料で同胞に配ったりもするのでその怒りも当然だ。


ここで一つ補足説明をしておこう。


活動家と言っても多岐に渡る事は知っているだろうか?


信念若しくは思い込みで動く者、何となく付き合いで、暴動時の強奪を目的とする者、至上主義思想の持ち主、そして仕事としてこなす者など様々。


最後の奴は二番目に質が悪い、他国から金をもらって先導していたりもするからな。


父はどの部類かと言えば、一番厄介な部類の人間だった。


そう、信念で動くタイプの人間だ。


こういう人間は一切己を曲げず、時には同胞さえ敵に回す。


白人至上主義ならぬ、黒人至上主義に近い思想を持った過激派の集団がいるのだが、父はある時それらを敵に回してしまったのだ。


惨劇の日、店にやってきた客の一人が、いきなり散弾銃で私の両親を撃ち殺した。


『裏切り者に死を!』と、叫びながらバラバラになるまで撃ち続けたらしい。


母には本当に同情を禁じ得ない。


完全なる巻き添え、そもそも俺の一族は奴隷として連れて来られた訳でもなく、自らの意志でこの地にやってきたのだ。


人権活動家なんてやる道理は欠片もない。


私と祖母を追い立てたりしなかったのは、彼らにも温情があるからだろうか、それともただの気まぐれか。


しかし何となく、こんな時が何時か訪れるのではないかと心の奥底では予感していた。


突然の喪失に対し、必要以上に狼狽える事が無かったのもそのせいだろう。


店は当然閉める事となったが、取り敢えず生活できるだけの金を残してくれた両親には本当に感謝している。


それから私は祖母と二人暮らしとなり、時を置かず働きに出る事となった。


当然碌な仕事が無く、ビルの清掃員やピザの配達員などを転々とする事に。


そして数年後祖母が亡くなるのを機に家を手放すと、低所得者が多く住む茶色の集合住宅へと移り住んだのだ。


夜になれば発砲音が聞こえるのも珍しくない治安の悪い場所であったが、安い以上に求めるものは無い。





二十歳になるかならないかの頃、仕事帰りの薄暗い路地裏で一人の黒人女性とすれ違った。


一瞬目が合い互いが何かを思い出すような仕草をするも、その日はそれでおしまい。


だが次の日も彼女と同じ場所で出会った。


私は以前すれ違った時からずっと考えていたのだ、顔に何となく覚えがあるなと。


そして記憶を手繰り寄せ、思い出せたのは二人が丁度背中合わせになった瞬間。


同時に振り返り互いの名を大きな声で告げた。


彼女は同じミドルスクールに通っていた女性だったのだ。


こうして予期せぬ出会いがあると、話下手な私でも不思議なほど会話が弾む。


今何をしているのかと聞けば、彼女は少し言いづらそうにした後、コールガールと返した。


実の所、私はそう言う職業を快く思っていない。


しかし何度も会い話すたびに、心根の優しい彼女に惹かれていった。


何でも既に両親が他界し、家族を養うには体を売るしかないのだという。


まだ小さい弟と妹がいるらしく、彼らを学校に通わせてあげたいとも語った。


彼女の名はアンジェラ、のちに私の妻となる女性だ。


そうして何度も何度も彼女と話すたびに気付いてしまったんだ、私が自然と笑えていることに。


死んだように生きる毎日の中で、彼女は私の光だった。


『アンジェラ、君を愛している。俺も出来る限りの協力はするから、体を売るのを止めてくれないか…。』


何度目か逢瀬、私は彼女に思いを告げた。


数日後、彼女は近くのレストランでウエイトレスを始めるのだが、当然その稼ぎでは家族を養えない。


私も仕事を増やすが、それでも日々の生活がやっと。


毎夜毎夜ここから抜け出したいと呪詛のように呟いていた私は、何を思ったかボクシングジムへと足を運んだのだ。







当時を思い返せば、何が転機となるか分からないものだと本当に実感する。


つまらない人間だなどと言われても、私は今の生活を守りたい。


だが人生とはそう上手くは行かないものらしい。


ある日の寝室で、妻に言われたのだ。


「エルヴィン、あの子ね…苛めを受けているみたいなの。」


「…原因は分かっているのか?」


「…ええ……あなたを馬鹿にされて喧嘩になったのが原因みたい。怪我して帰ってきた事があったでしょ?あの時よ。」


言われ思い出す、私が今の王座に就いて以来、息子アランは一度も試合を見に来てくれた事が無いと。


息子が生を受け八年、勝つ事だけに拘った今の在り方は間違っていたのだろうか。


アンジェラの為、アランの為に戦い続けたこの日々は正しかったのだろうか。


今の私には分からない。

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