第三十話 どんな形でも
第四ラウンド、これまでとは打って変わり激しい展開になった。
激しいとは言っても足を止めて打ち合う訳では無く、両者が常に優位な位置を探りながらの打ち合い。
顔に痣を作りながらも芯は外し、歓声に乗せられるように間断なく際どいパンチが交差しあう。
「…フッ!…シッシュッ!」
(踏み込みが深くなってきた…足が当たりそうになる。)
こういう不安を持たせるのも作戦なのだろう。
左足の爪先付近まで踏み込んで来る為、毎回毎回ひやりとさせられる。
そして踏み込んできた時は、必ずと言っていいほど得意のボディストレートを置いていくのだ。
ならばそこを狙いたい所だが、前後の出入りが恐ろしく速い。
正に五輪金メダリストの面目躍如、細かい削りあいでは少々分が悪そうだ。
(どこかで一発狙いたいな…。)
これは良くない考え、今は辛抱強く対応し僅かな隙を探るのが俺と言うボクサーの本道。
だが異国のリングという重圧が無意識下で心を蝕んでいたか、段々大きな一発に意識が傾いていった。
当然そんな隙を見逃してくれるほど甘い相手ではない。
相手のリードブローに左を被せ、不用意にクロスカウンターを狙った瞬間、
「……シィッ!!…っ!?」
俺のパンチは首でいなされ頬を掠めるにとどまると、瞬間鋭い反撃が飛んでくる。
それは意識さえ切り離されかねない威力を秘めた、左のショートストレート。
「…ちっ!?」
際どいタイミングで放たれた一発を避けようと首でいなし躱すも、逃がさぬと今度は返しの右フック。
集中自体は歓声が聞こえないほど出来ており、反応も出来ていた。
だが、運が悪い事に足元を濡らした汗が俺の足を掬う。
▼
「……ワァンッ!トゥーッ!スリーッ!……」
パンチは当たっていない、髪を掠めはしたが確かに当たっていないのだ。
受け入れられない、俺が抗議しようと頭を上げた瞬間、陣営の声が響く。
「統一郎君っ!切り替えてっ!」
会長の声でハッとする。
声には激しい憤りが感じられ、会長も悔しいのだという事実が伝わってくるようだ。
抗議すれば結果は変わるか、いや変わらないだろう。
余計に心乱され、取り返しのつかないミスを誘発してしまうだけ。
俺はゆっくり深呼吸し、掻き消されそうなほどの歓声が響く場内で、カウントに耳を澄ませた。
(そうだ。今のは傍から見れば確かにダウンに見える。地元贔屓とかそう言うのじゃない。)
立ち上がり、一つ一つリズムを取り戻す様にトントンと跳ねてから再開。
(歓声が遠い…大丈夫、集中は途切れてない。)
問題は相手だ、これで少しでも舞い上がってくれるならいいが。
そう思い注意深く覗き込むと、冷たい瞳は相変わらず、何も変わってはいなかった。
再開直後、力の籠ったコンビネーションで攻め立ててくるが、どう見てもこれは誘い。
あからさまに積極性をアピールしているだけ。
その姿を見た観客は更にヒートアップするも、覗き込んでくる瞳は相変わらず寒気の走る様な冷静さ。
「……チィッ!!…っ…っ!」
(力任せに叩き込んでいるように見えて、常に本命を控えてやがる…。)
ならば俺もお返ししてやるべきだろう。
こっちも冷静なんだぞと、勝負はこれからなんだと見せつけてやらねば。
「……シィッ!!」
一発一発を丁寧にガードし、間隙を縫い放った最短距離を走る自慢の左ストレート。
浮足立っていると思っていたのだろうか、ガードの空いた右目付近にヒット。
そしてその一発が予想もしない事態を招く。
見れば、劉選手の右瞼がぱっくりと裂けていたのだ。
当人も気付いたようで、冷静に傷口を広げない為一旦下がる。
今が勝負と追撃に走るもレフェリーが割って入り、何かと思えばゴング。
場内の悲鳴、若しくは歓声で聞こえなかったらしい。
公開された採点はダウンの分こちらの劣勢、これは仕方のない事。
▽
「こういう事があるんだ…ボクシングはね。」
会長の言葉はまさにその通りだ。
あのダウンを引き摺っていたら、この事態を呼び込むことは出来なかった。
とは言え、先のダウンで判定勝ちは難しくなっただろう。
「…傷口…狙って行こう。」
あれは明確にパンチによってつけられた傷、傷口が大きく開けば俺のTKО勝利となる。
汚いだのなんだの、次のあるやつの言葉は軽い。
俺がタイトルを得る為には、この先を這い上がって行く為には、勝ち方なんか選んではいられないんだ。
「はいっ!」
覚悟を示す為、力強く返す。
ゴングが鳴るや否や、俺は駆け出す様にして対角線に向かっていった。
(危機感を与えろ。只傷口を狙うんじゃなく、あの冷静さを壊すんだ。)
左を突きさすように伸ばし攻撃に入ると、王者の瞳には獰猛な影が宿り始める。
「…っ…ぅっ!?」
強烈なショートストレートのワンツー。
小さいコンビネーションだが痛烈、腕がびりびりと痺れる程の威力、やはり地力ではあちらが上のようだ。
それでもこの勝機は逃せない、血は止まっている様だが傷は生々しく残り、少し衝撃を与えればまた出血を始めるだろう。
体を押し付ける様にして密着し、ガードの上からコツンコツンと細かいパンチを当てていく。
「…っ!?」
離れろと、強い意志を感じる左右のアッパー連撃。
だが俺は離れない、肩を押し付ける様にして動きを制し、ロープ際に押し込みつつ隙を見て左フック。
「…ブレイクッ!」
簡単に維持させてくれるわけもなく、首相撲に近い体勢を取られ背に腕を回された所で、レフェリーに引きはがされてしまった。
すると、相手のスタイルが一変する。
ガード重視の構えから、右腕をだらりと下げ視界を広く保つデトロイトスタイルへシフト。
そこから軌道の読みづらいフリッカージャブを乱れ打ってくる。
俺は差し合いには応じず、距離を詰める事に一念。
(傷口…開いて来てやがる。出血もひどくなってきてるな。)
向こう側のセコンドも慌ただしくなってきた。
「…っ…っ…チィッ!!」
(強引でもいい、距離を詰めてあの傷を広げれば勝てるんだっ!!)
こちらの狙いは誰が見ても明確、会場は俺への罵声や悲鳴が鳴り響き混沌としている。
まあ罵声と言っても、言葉が分からないので気楽なものだが。
(カウンターだけは気を付けないと…あのパンチなら一発で終わる可能性もある。)
金メダリストの肩書は伊達ではなく、こうして死に物狂いの攻撃に打って出られると、その能力の高さを否応なく実感させられてしまう。
俺は低い体勢からボディへ真っ直ぐ伸ばし、下から突き上げてくるパンチを誘う。
「…シュッ!!」
(…よし来たっ!!)
どうやら向こうも見た目ほど冷静ではないらしい、こういう判断ミスも出る。
俺はアッパーを横の動きで躱しつつ、大きく弧を描く軌道で左フックを叩きつけた。
狙ったのは当然右瞼付近。
ガードの上だが問題はない、一番重要なのは場所、どこに衝撃が伝わったかが一番重要。
遂に血が伝い、頬を赤く染め上げるまでになってきた。
眼にも入ったか、何度もグローブで拭う素振りを見せている。
必然的に右は傷口をかばう事を余儀なくされ、攻撃に使えるのは左一本。
いつの間にかスイッチしており、右目をかばう様に後方へ下げている。
だがこのチャンピオンの強みは右、それを完全に封じる形となった。
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