第二十八話 静寂

試合会場は、二万人近い観客を収容できる大きな施設。


当然と言っては何だが、控室も非常に広く立派だ。


大きな鏡が部屋の全体を映し出し、まるでその向こうにも空間が広がっていると錯覚させる。


まあ、広かろうが狭かろうがやる事は特に変わらないので別にいいのだが。


異国でのタイトルマッチなんだと感じるのはそこではなく、今の環境。


会長がバンテージを巻いてくれているのだが、その横では何か不正が無いか目を光らせている向こう陣営の人がおり、ちょっと前には初めての経験となるドーピング検査も通過。


因みにこちら側からも、顔面での迫力を考慮し牛山さんを送った。


俺に張り付いている人は普通の面立ちなので、顔面戦力では正に圧勝。


特に問題も無くバンテージを巻き終えると、そこからの流れはいつも通り。


係員がチェックし印をつけ、用意されたグローブを嵌める。


パンパンと感触を確かめると、確かに幾分かいつもより薄い気もするが言う程でもない。


そして軽くシャドーからミット打ち、一つ息を吐きガウンを深めに被る。


不思議と緊張はしていない、やるべき事が明確だからだろうか。


近くでは、牛山さんと及川さんが楽しそうに笑みを浮かべ談笑している。


俺はこういう空気が好きだ、陣営全員が怖い顔で固まっていると俺まで固くなってしまうから。





「統一郎君、行くよ。」


目を瞑り俯いていたので、係員の呼びかけに気付かなかったらしい。


小さく返事を返し、三人の後に続いて歩く。


綺麗な通路、いつもはいる応援団はいない、会場に姿を見せると派手な照明が俺の姿を照らす。


こちらの指定した曲である、飛翔がしっかり響いている事に少し有難さを感じた。


会場の空気は劉選手が先に入場していた為、既に温まっており準備万端と言った感じ。


そして引き立て役がリングに上がった所で、一旦小休止といった空気に収まる。


リングアナの紹介は中国語では無く英語。


(これは現地の言葉で良い様な気もするな。集まってくれたお客さんにも伝わるし。)


これから試合だというのに、冷静過ぎる自分が少し可笑しかった。


王者側には割れんばかりの歓声、こちらはまばらな拍手だが、これには正直慣れがある。


昔は中央に出向く度こんな感じだった、特に代わり映えはしない。


「…おい坊主、呼ばれてんぞ。」


変な事を考えていたので、レフェリーの呼びかけに気付かなかった。


劉選手に向き合うと、あの冷たい瞳が俺を捉える。


段々…段々と、歓声が遠くなっていくのを感じ、先ほどまでの余計な思考は彼方へ消え去った。


レフェリーの声も遠くなり、一度眼前の瞳を俺も覗き込む。


鉄面皮が一瞬、動いたのを見逃さなかった。


彼が俺の瞳に何を思ったか、それは分からないが、多少の興味は引けただろうか。


自陣へ引き上げるまでの短い間、相手の情報に関して最後の確認。


(サウスポーだが、左ストレートより注意は変則的な右。ボディフックからアッパーへの切り返しが早い。)


試合数も少なく相手との実力差もあったため、実はそれほど情報が多くない。


そう、東洋タイトルを取った試合さえ、はっきり言って完封、楽勝と言っていい内容だった。


(ガードは基本的に下げない。ボディワークやブロックで対処するよりパーリングで弾く事の多い印象。)





照らされ広い会場にぽっかりと浮かび上がるリング、ゴングを聞き振り返ると、鉄面皮もゆったり歩んでいる。


パシンッ、開始を告げる音が響き小さく下がったのは俺。


相手はその場で静かに構え、ガードの隙間からこちらを覗き込んでいる。


(先に手を出す印象は無いな。)


さてどんなものかと、様子を窺うため左を伸ばすフェイント。


相手は小さく右の手首だけで反応、伸ばしてきても叩き落せるぞという意思表示か。


「…シッ!」

(…やってみろ。)


気合の入った一発。


表情からは読み取れないが、リズムが早まった所を見るに多少は上方修正してくれた様だ。


いや、元々俺など研究すらしていなかったのかもしれない。


「…シッシッシィ!」

(…少し押してみるか。)


得意のコンビネーション、ジャブ二発から左ストレートのトリプル。


相手はすっと距離を取り、冷静に受けに回る。


俺は更に追い距離を詰め、左を伸ばしていった。


「横の動きっ!!」


響いたのは及川さんの声、確かに直線的に追うのは不味い。


「…っ…」


僅かな動揺を悟ってか、飛んできたのは針の穴を通す様な右リードブロー、鼻の頭を軽く叩かれただけだがこちらの動きを制するには充分。


(一ラウンドだ…もう少し手を出させたいな。俺ばかり情報を与えてる。)


その為に必要なのはやはり危機感。


「…シィッ!…シュッ!!」


珍しく左のボディフックから入ると、強く右を伸ばしていく。


「…ちっ!」


相手の反応もさすが、ボディはガード、右に被せてきたのは左ストレート。


だがまだ様子見と言う段階は抜けておらず、いつでも回避行動に移れる程度の強さ、撃ち抜くという表現は正しくない。


(少し焦ってもらわなきゃ始まらないな。ここは強引に…)


俺はショルダーブロック、肩でパンチを受けながら強引に踏み込み、重心を下げ左右のボディフックで纏める。


(…下がったな。)


相手がトンっとバックステップした場所は既にロープ際、ここを詰めれば流石に手を出さざるをえまい。


表情は相変わらずの鉄面皮、この行動が正しいのか不安にさせて来る。


一瞬のにらみ合い、意を決し踏み込もうとした瞬間だった。


(…そっちから来んのかよっ!!)


丁度俺がマットを蹴り出した直後、相手も踏み込むと同時に下から突き上げてきたのだ。


それが思いもよらないほどの強打、多少の計算違いがあった事は認めるべきだろう。


バランスを立て直す意味で今度は俺がバックステップ、大きく距離を取り相手の出方を窺う番。


(…俺が下がった分だけ出る…か。少し距離を取ったほうが…いや、今はそれよりも情報が欲しいな。)


現に開戦前はそこまでの強打者でないという予想だったが、実際はかなり重いパンチを放てることも分かった。


そう言った計算違いをそのままに後半勝負となれば、どこかで致命的なダメージを負いかねない。


しかし何となくわかり始めてもいる、この選手は特に穴が無く全部の能力が高いタイプ。


加え気を抜く気配もなく、陳腐な表現だが本当に機械のような印象。


「…シッシッ…シッシッシッ…」

(でも手を出さなきゃ始まらねえしな…。)


苦しい時に頼るのはやはりジャブ。


相手は一二発までは応じてくれるが、本格的な差し合いには応じてこない。


(…ボディストレート…伸びてくるな…。)


再三やってくるのがこれ、引き手に合わせたボディストレート。


そして静かな立ち上がりのまま、第一ラウンドを終えた。

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