第二十六話 再度海の向こうへ

「二月の十一日だって…流石にきついね。」


一月二十八日、会長から伝えられた試合日程は予想よりもはるかに直近。


思わず会長も眉をひそめている。


だがもしもこの話を辞退して、次にチャンスが巡ってくるのは一体いつになるだろうか。


会長がどれだけ尽力しようとも、ジムの興行力などというものは一朝一夕で身に付けられるものでもあるまい。


何より、俺にばかり手が掛かり過ぎれば他の選手にも影響が及ぶのは必定。


そんな危惧も内心持っていた。


そして性急とは言っても十日以上あり、やれない事も無い。


「いえ…何も問題はありません。今は早くお客さんを呼べる肩書が欲しいです。」


必ず勝つとまでは言えないが、試合映像を見る限り俺との相性は悪くない。


後は敵地と言う環境の中、どこまで力を発揮できるかだ。


「…分かったよ。連絡しとく。」


以前清水トレーナーに言われた言葉がずっと胸に残っている。


このジムは俺が伸びないと活気が出ない、そう言われた言葉が。


ならば、いつまでも足踏みしている訳にはいかない。


多少強引でも、結果を出さなければならないのだ。


勤務先は人員の補充も出来たので、今は安定しており多少の無理なら利く状態。


そういう諸々の事情も鑑み、正に今しかないという感じ。


(きっとこれに勝てば、また自主興行で人が呼べる。このジムの選手たちも近場のリングに立てる。)


減量時の長時間移動は本当に疲労するし、遠方では応援の声も少ない。


だからこそ同門の選手たちを思えば、やはり地元開催が望ましい。


そして今、このジムで興行が成り立つほど人を呼べるのは俺だけ、俺がやらなければならないんだ。









二月九日、前日計量の一日前、俺は二度目となる飛行機の機内にいた。


今回の面子には牛山さんも加わっており、いつものメンバーだとやはり安心する。


今回は計画的に落とす事が出来なかった為、少々減量疲れが表に出る形。


それには当然季節柄もあり、夏であればもう少し楽に落とせたであろう。


それでもスーパーフェザー級時代よりはましで、水分だけはそれなりに取れているのが救いか。


出発前の体重は六十二,五。


そこから数時間車に揺られ今に至るので、計量までには代謝だけでリミットまで持っていけそうだ。


日本を出発したのが昼前、フライトは四時間もかからないらしいので、目的地上海までの到着時刻も結構早いらしい。





空港に到着しロビーに向かうと、通訳らしき人がお出迎え。


意外な事に、何人かは俺の取材に来ている人がいる様だが、流石に今の状態で取材に答える気にはなれない。


相手の劉選手は、世界王者間違い無しと言われているらしく、今の時点でもそれなりの人気者。


ロビーを歩いていると、所々大きな液晶モニターや展示物があり、何か国際的な催しでもあるのだろうが、今の状態では他に目を向ける余裕がないので、とにかく人のいない場所に早く行きたいというのが第一。


そうして歩いていると、空港前に笑みを浮かべ迎えてくれる人がおり、聞けばどうやら通訳ではなくテレビ局の人。


何でも向こう陣営が用意してくれたホテルまで連れて行ってくれるらしい。


こっちのテレビ局は日本と何か違いがあるのだろうか、一党独裁体制の影響で情報管理されるという話は聞くが…まあ俺には関係ない話か。


そんな折、牛山さんが後ろに下がって来たかと思えば、小さく囁いた。


「…坊主…後で俺とお前だけ、別のホテルに移動するからな。」


思考能力も落ちている為、取り敢えず頷く。


空港から外に出ると、やはりこちらも冬らしい気温、減量時は特にきつい。


雪が全くないのはいつもの事なのか今年が特別なのか、そこは少し気になる所。


驚いたのは空港を出た場所に並んでいたタクシーの行列、あれは一体どこまで続いているのだろうか、最後尾が見えなかった。


街並みは流石に大都会と言った光景だが、看板以外では特に異国感は感じない。


正直な事を言えば、俺のような田舎者には帝都も上海も大した違いを実感できないのだ。


恐らく道を歩けばそれも違うのだろうが、人ごみに混ざるなど今は想像するだけでも嫌だと思ってしまう。


流れる景色を眺めながら目を見張るのは、やはりビルの高さ、これは全体的に日本より上だろう。


そして案内されたホテルは、それなりに高級そう、移動するという話だがこのままでも特に問題は無さそうだ。


俺たちの部屋は十四階、それぞれが隣り合った一人部屋。


同性くらいは纏めても良かったと思うが、善意として受け取るべきだろう。


飲み水などは持ち込んでいる為、買いに出る必要もなくそのままベッドにダイブ。


明日の計量まで食事はせずに、このまま耐える事になる。


カーテンを引き街並みを眺めると、やはりビルの高さは凄いが異国感は感じない。


もしかしたら百年後の世界は、同じような街並みばかりが世界にあふれているのだろうか。





数時間後、外は日が沈みかけ、ボケっと外を眺めていると扉を叩くノックの音が響く。


「坊主、外に出るぞ…早くしろ。荷物は置いたままでいい。」


扉の前には、小さなバッグを持った牛山さんが立っていた。


どうやら本当に他のホテルへ移動する事になるらしい。


「念のためだ。後で後悔するよりは、無駄だったって笑い話になった方が良いだろ。」


そう言いながら帽子を投げ渡され、言う通りエレベーターから外へと向かう。


因みにフロントにキーを預ける必要は無いとの事。


そして溜息をつきながら付いて歩き十五分ほど、たどり着いたのは如何にもと言った感じのビジネスホテル。


これならさっきまでいた部屋で休みたかった。


来る前に予約済みらしくチェックインはスムーズで、二人部屋だがとにかく狭い。


クローゼットも見えず、ホテルにあって当たり前と思っていた備品もない。


しかも牛山さんもここで休むらしく、狭さに拍車が掛かっている。


まあ、空調は意外にしっかりしているので眠る分には問題なさそうだが。


持ってきた水を一口飲みこむと、横になり静かに瞳を閉じる。


横にはどこから出したのか、ウイスキーのボトルを一人傾ける牛山さん。


「酔って騒いだりしないでくださいよ…。」


「へっ!こんなちっちぇえウイスキーのボトルで酔っ払えるかよ。」


胡坐を掻いて酒を煽る姿は、まさに昔ながらの頑固おやじ。


そしてなんだかんだ言っても多少は酔いが回ったらしく、饒舌に自らの半生を語り始めた。


「なあ坊主…おらぁよ、お前には本当に感謝してんだぜ?」


「何ですか突然…。」


「只のしがねえスポーツ用品店の親父をよ、こんなとこにまで連れてきてくれた…あんがとよ。」


泣き上戸という訳では無かろうが、そんな事を言われるとしんみりしてしまう。


「…まだまだ…これからですよ。」


満足気な笑みを浮かべる牛山さんに対し、俺はそう返した。


その言葉通り、まだまだこれからなのだから。

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