第二十五話 急転
一月二日、帰省した田中と阿部君、友人二人と会い近況を語りあった。
案の定咲との事を聞かれ、隠す必要もないので正直に話すと、田中も普通に祝福してくれた所に成長を感じてしまう。
そして三が日も終われば、春までの数か月彼女ともお別れ。
俺は布団の中での会話を思い出し、練習後会長に尋ねてみた。
「…喫茶店?う~ん…あ、そうだ、丁度いいお店があるよ。」
駄目元だったのだが、会長には心当たりがあるらしく期待が膨らむ。
「森平市の中心街にあるんだけどね。おばあちゃんが一人でやってるお店なんだ。」
そうして話していると、牛山さんも知っているようで会話に混ざってきた。
「ああ、竹本の婆さんのとこか。来年くらいで閉めるとか言ってたな。」
高齢で継ぐ者もいないということもあり、お店自体は近年閉める事を余儀なくされるらしい。
「あそこのコーヒー美味しいからね。僕も好きなんだ。近いし教わるならあそこが良いよ。」
「あ、教わるのは俺じゃなくて、その…彼女がと言いますか…。」
「何だよ坊主、別にそんなの恥ずかしがる年でもねえだろう。」
そうなのだが、何故だろうかここで話すのは妙な気恥しさがある。
「ああなるほど、神社の子か。それなら三月か四月からって事になるのかな?」
「そう…ですね。先方の場所教えて頂ければ、今度伺いたいなと思うんですけど…」
「分かったよ。僕の方からも連絡入れておくよ。」
正月気分も落ち着いた頃、仕事の休みに合わせて会長に聞いたお店へ伺ってみる事にした。
言われたお店は結構近くにあり、車でなら十五分もかからない距離。
「ああここか。言われれば確かに何度も見てるな。」
そこは大きなデパートの陰になっており、あまり人目には触れ無さそうな場所。
店名は【森の喫茶店】地名と掛けているのだろうか。
古ぼけた木造の三角屋根が良い雰囲気を醸し出している。
カランッカランッと木製の両開きを開けると、来客を告げる音が響き、カウンターから店主であるおばあさんがこちらを覗く。
高齢と聞いていたが、背中も曲がっておらず意外にしゃんとしており元気な印象。
喫茶店なのに割烹着と言うのが中々おつだ。
「あっ、統一郎ちゃんじゃないのぉ~。」
こういう時、地元で知名度があると言うのは非常に助かる。
笑顔で会釈を返しつつ進みながら、店内を見回し内装を確認。
カウンター席が五つ、テーブル席が三つ、鼻をつくのはコーヒーの香ばしい香り。
隅に設置されたテレビは、小型だが意外に新しそう。
「どうも、余りコーヒー詳しくないので、お勧めいただけますか?」
俺は店主の竹本さん正面に座ると、取り敢えず注文。
客は俺以外に三人、お爺さんがカウンター席に座り、テーブル席に座るのは若い女性二人組。
穏やかな空気漂う空間、竹本さんはコーヒーを淹れながら語り掛けて来る。
「神社のとこの娘さんっていうと、咲ちゃんでしょ?うちで働きたいって?」
「あ、まだ本人には聞いてないんですけど、断りはしないかと。」
「あんまりお給料出してやれないよ?大丈夫かしら…。」
「あ、そこは俺が稼ぐんで大丈夫です。」
「あらまっ、おめでたいこと~。」
気付けば意外に大胆な事を言っている自分。
静かなバッググラウンドミュージックが響く落ち着く空間、口が滑るのはそのせいだろうか。
隣に座るお爺さんも、口を挟む事は無いが小さく笑っていた。
「そう言えば会長から聞いたんですけど、このお店閉めるんですか?」
「そうなのよ…私ももう七十六だからねぇ~流石に隠居しようかと思うのよぉ~。」
見た感じ、このお店は自宅というわけではなさそう。
店内を見渡し思う、勿体ないと。
それから意外に会話も弾み、この店舗が竹本おばあさんの所有である事を確認。
「相談なんですが…俺が賃貸と言う形で借り受け、続ける事は出来ませんかね?」
「こんなボロボロのお店を?私としては嬉しいけど…若い子には何だか申し訳ないねぇ…。」
外観だけを見ても歴史を感じ、恐らく通い続けている常連だっているだろう。
まあ、確かにある程度のリフォームは必要になるだろうが、それでも一から用意するよりはずっと楽だ。
「…うん、統一郎ちゃん達が良ければそう言う形にしてもらえるかしら?メニューとかは変えてくれていいからねぇ。」
そうは言っても、常連にはお気に入りのメニューがある筈、出来れば再現してあげたいものだ。
隣のお爺さんが美味しそうに食べているナポリタンがまさにそれっぽい。
「はい、エメマン。ミルクと砂糖、置いておくねぇ。慣れてないなら入れて飲んでねぇ。食べられるならパンケーキも作るけど、どうしましょ?」」
まだ試合も決まっていないので良いかと、それも注文。
こういう食事もたまには悪くない。
俺は一旦外に出ると、繋がるか分からなかったが咲に連絡。
【統一郎君?どうしたの?】
「ああいや、咲は森の喫茶店っていうお店知ってる?」
【…えっと…ああっ!竹本おばあちゃんのとこ?】
「そうそう、帰ってきたらさそこで働いてくれないかなぁって。」
【うん。分かった。何度も行ってるお店だから、ちょっと気恥ずかしさはあるけどね。】
言われれば確かに自転車で気軽に来れる距離、学校からも近いのでそう言う事もあるだろう。
後日会長にこの事を伝えると、その時になったら賃貸契約書を作成してくれるとの事。
会長、宅地建物取引士の資格も持っているらしい。
何と言うか、掘り下げればどんどん知らない顔が出てくるのは流石の一言。
色々あった一月も終わりに差し掛かる頃、俺に大きな転機が訪れる。
それは会長から伝えられた次戦の内容。
「うん。ライト級の東洋王者である
リュウ・ハオユー選手は元オリンピック金メダリスト、現在中国ボクシング界で最も注目されている選手だ。
確か三十は越えている筈、プロ戦績は六戦六勝四KО無敗。
俺の東洋ランキングは最新のもので五位、防衛線の相手として不自然ではないが、世界に向けての調整試合と言った感じか。
当然こちらが向こうに出向くのであって、敵地での一戦となるようだ。
そして聞いていた牛山さんが、要らない一言を付け加える。
「まあ、向こうじゃ日本人殴り倒せば、もっと人気が出るだろうしな。へへっ。」
正直そう言うのをスポーツに持ち込んでほしくないのだが、人間がやる以上そんな理想論は通じまい。
しかし、例えどんな背景があったとしてもチャンスはチャンス。
俺の答えは決まっている。
「受けましょう。どうせ待っていても、タイトルマッチのチャンスなんて来ませんし。」
俺の言葉に、会長は多少渋り顔。
「通訳通しての話なんだけど、正確な日取りがまだ分からないんだよね…流石に来週とかは無いだろうけど…。」
恐らくは試合予定の選手に何か問題があって、代役を探しているといった所。
普通に準備期間を設けてもらえるとは思わない方が良いだろう。
追加情報としては、掛かる諸経費は向こう持ちだが、ファイトマネー自体は非常に安い。
それでもチャンスである事には違いなく、俺は取り敢えず、何時でも行けるよう準備を整えておくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます