第二十話 良い経験になりました
一ラウンドは取り敢えず、そのまま互いの距離を守り合う形で終了。
鼻血はこの程度なら直ぐに止まるので、どうという事はない。
「どう?世界を肌で感じられるチャンスだよ。しっかり学習しておいで。」
一応会長が具合を覗き込みながら問い掛けて来る。
「はい。段々雰囲気変わって来たんで、次から本番ですかね。」
インターバルが終わり、報道陣のシャッター音も気にならなくなった二ラウンド目。
グローブを合わせ覗きこむと、明らかに空気が変わり始めている。
(こえぇ~…この人のコンビネーション滅茶苦茶早いんだよなぁ~。反応できるかな…。)
アレックス選手の代名詞と言えば、無駄のないコンビネーションと恐ろしく切れるパンチ。
流れの中でカウンターが取れる、正に超技巧派である。
俺は時計回りで動きながら左を突き様子見。
一発も当たってはいないが、少しやりづらそうに仰け反るシーンもあり通用している印象。
そして一発当たりそうだなと思った所に、
「…っぅ!?」
またモーションの良く見えない右ストレート。
これが避けられないんだ。
何というか例えるなら、気付いた時には既に鼻先に迫っている感じと言えばわかるだろうか。
いつの間にかグローブが大きく見えるという感じ。
構えは一定という訳では無く、時々左を下げたデトロイトスタイルを取る場合があり、打ち出すパンチの角度も変えて来る。
当然ながら恐ろしく速い。
ラウンドも半分を過ぎる頃には、淀みないコンビネーションで追い立てられる場面が増え、否応なくロープを背負ってしまう。
追い詰める動きもさすがの一言、俺のフェイントなど見切っていると言わんばかりの眼光だ。
それでもまだ動きを確認しながらというシーンも多く、取り敢えず最小限のダメージでこのラウンドも終了。
第三ラウンド、開始直後から明らかに動きが違う。
左二発から、しっかり撃ち抜くワンツー、俺の返しは見切られスウェーで鼻先を掠めるだけ。
そして伸ばしてくる左を、俺も同じように躱そうと試みるが、射程が掴めず被弾。
ガードは意外に低く距離も近い為、当たると勘違いしそうになるが、やはりそう簡単ではない様だ。
だが例え王者でも人、その個人特有のリズムというものは存在する。
(…大体三発目で合わせてくる事が多い印象だな。)
俺もコンビネーションで返しているのだが、流れを痛烈な一発で悉く断ち切られる。
だがラウンドが二分を過ぎる頃、ある程度そのリズムも掴めてきた。
「…シッシッ……フッ!」
左二発から右をフェイントにして、下から小さく突き上げる。
クリーンヒットではないが、仰け反る形で少し顔が跳ね上がった。
アッパーはここまで一発も打っていなかったので、うまく意表を突けたらしい。
しかし王者は冷静で、一度距離を取ってから仕切り直しを計り左を差し合った所でゴング。
第四ラウンド、ステップを刻む王者の姿がより実践に近い状態となった。
鋭い踏み込みから伸ばしてくる左を払った直後、右ボディストレートで腹を叩かれる。
横っ面を狙いフックを放つが、素早いスウェーと出入りに翻弄され掠りもしない。
(下半身が全くブレないな…いつでも動けるようになってる。)
アレックス選手の動きは、まさに精密な計算に裏打ちされたものだ。
一つの動きが全て次に繋がるものとなっており、正に淀みの無い清流を思わせる。
だが綺麗な形ばかりではなく、頭をこすりつける様にして迫ったかと思えば、荒々しく叩きつけたりもしてくるから厄介。
しかも常に隙間からこちらを覗き、一つ一つの動きを把握して動いている。
「…シィッ!!」
ずっとロープ際を移動する展開、打開したいと強めの左を放った。
アレックス選手はそれを額で受けると、肩で押す様にして俺の体を固定、左右から腹を突き上げて来る。
(…なんかっ…タイミング掴みにくいんだけどっ!)
どう表現するのが正しいのだろうか、肩から先が鞭のようにしなり突き刺さってくる印象。
中間距離では鋭い刃の様な感じだったのが一変する。
ガードは下がっているので打てば当たる筈だが、肩の押し引きで動きを制され上手く放てない。
「…ヂィッ!!」
それでも強引に突き上げると、軽やかなバックステップで躱され遠くから眺める冷たい目。
(…脇腹痛ってぇ~…強打って言う感じじゃないんだけどな…。)
そして仕切り直した所で四ラウンドも終わり。
公開スパーリングも終わりが近くなった五ラウンド目。
アレックス選手は最初から全開だ。
足さばきは非常に小さく細かく、強弱を織り交ぜたコンビネーションが休む暇なく突き刺さってくる。
だが俺だって良いとこなく終わる訳にはいかない。
爪先を擦る様な僅かな重心移動で、絶えず左を伸ばし弾幕を張る。
これぞ俺の真骨頂、これで俺は勝ち上がってきたんだ。
一瞬王者の顔に驚きが浮かんだのを見逃さなかった。
だが、ここから未熟さを露呈する形になる。
通用している事に気を良くした俺は、いつもはしない深追いをしてしまったのだ。
王者は弾幕から逃れようと、ガードを上げたまま左右のステップワークで回り込もうとする。
(…逃がさないっ!)
体勢低くウィービングを繰り返し窺う王者に、打ち下ろしの右を放った直後、
「…っ!?」
低い体勢から伸ばされたのは、またもあのモーションが見えない右ストレート。
もらう直前になってから初めて気づく無様を晒してしまった。
当然これ以上は無いタイミングでカウンターとなり、綺麗に顎を叩かれる。
一瞬腰が落ちダウンしかけたが、公開スパーリングでダウンするのはあまりにも格好悪いと踏ん張った。
だがそれを見逃すほど甘い相手でないのは先刻承知。
何とかガードを上げ凌ごうと試みるも、左右の腕をしならせ叩きつけて来る。
一発打たれる度に声が出そうになるほど痛いが、このままでは終われない。
ロープに体を預けた体勢で放つのは、小さな小さな左。
構えから只伸ばすだけの左である。
神経を張り詰め、流れを断ち切るタイミングを見極め、それを相手の鼻先に置く。
破裂音の様な王者のパンチの間に響く、軽いパシッパシッという心細い音。
だが引いたのは王者。
(…ちっ!流石にそう上手くは行かないか…。)
俺の狙いとは、もらってもどうという事はないと印象付けての奇襲。
ここぞという所に狙いを絞り、強い左を相打ち狙いで放ち一矢報いるつもりだったのだ。
しかしそれも叶わず、中間距離で探り合う左を伸ばし合った所で終了。
「アリガト、グッドファイター。」
アレックス選手は俺の肩を抱き、記者団に称えてくれた。
顔だけじゃなく、全てに於いてイケメンとはこれいかに。
正直に言えば、俺も一ファンの一人になってしまった。
差し出してきた手を両手で握り、何度も何度も感謝の意を伝えると、良い経験が出来た事に大きな感謝を示す。
そんな姿を眺める会長もどこか満足気だった。
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