第十九話 きついバイト
十一月も中旬になると、東北は冬の到来を肌で感じるほど冷える。
特に早朝はそれが顕著で、すっかり吐く息も白くなってきた。
そしていつものコースである神社の石段を三往復。
体力はもうすっかり元通り、いや、まだまだ余裕がある所を見るに以前より付いた実感さえある。
試合によるダメージも殆どなく、いつでも試合できると会長には伝えているがどうだろう。
地味で客受けしない地方ボクサー、その上勝ちにくいと来れば敬遠されるのも当然の流れ。
一つ良い材料があるとすれば、順調にランキングが上がっている事か。
次の発表がある時は、恐らく国内ライト級の四位になっていると予測できる。
それを餌にすれば相手も見つけやすいのではなかろうか。
これが高橋選手の様に、故障を覚悟するほどの強打持ちなら話は別だが、生憎俺は正反対。
一か八かの特攻なら、もしかしたらと思わせる脆さも感じるだろう。
だが俺は、今のスタイルに大きな手ごたえを感じていた。
それこそ誰が相手であろうと、そこそこの勝負が出来るのではと思えるほどには。
まあ、一番の難点は自主興行における展望が中々厳しいという事くらいか。
十一月の終わりごろ、会長からある大きな仕事を持ちかけられた。
「統一郎君さ、世界チャンピオンとスパーしてみない?」
「はい?俺と…世界王者が?どういうことです?」
「今度行われる世界タイトルマッチあるでしょ?その公開スパーの相手にどうかって話が来てるんだ。」
今度というのは確か御子柴選手の世界タイトルで、日取りは十二月三十一日大晦日だったはず。
なるほど、何となく話が見えてきた。
内容はどうあれ、結果的に勝利を収めている俺と手を合わせて、どんなものか探ろうという事。
「トレーナーが世界的に有名な人だからね。ここで印象付けとけば何か良い事あるかも。」
世の中とは、何がどう転んでチャンスが舞い込むか分からないものだ。
「あ、当然お金も出るよ。」
スパーリングパートナーは別にいるらしく、俺は一日だけ相手をする感じ。
試合一月前くらいには来日するらしく、公開スパーの予定は十二月五日の日曜日。
「場所はダイヤモンドジムね。」
来日する王者アレックス・モラン選手は、実は若い時分に一度日本への留学経験があり、練習生としてダイヤモンドジムに通っていた事があるらしい。
所持タイトルはWBAスーパー王者、WBO王者の二団体。
母国はベネズエラだが今はアメリカ国籍を取得し、無敗の王者として輝かしい栄光の道を歩んでいる。
「あ、という事はもしかして…」
「うん。そういう意味も含んでるんだと思うよ。」
現日本ライト級王者は同ジム所属の松田隆文選手、現在五度防衛を果たしている強豪であり、俺のデビュー戦の相手。
もしかしたらこの先当たるかもしれないから、間近で見ておきたいという内情も含んでいそうだ。
相性的な意味も考えると、多分ジム側がマッチメイクする事はない様な気もするが、世の中どうなるかなど分からない。
俺は取り敢えず了承し、その日に備える事にした。
十二月五日の朝、スパーリングなので付き添いは会長だけ。
高速道路を走り目的地へ到着したのは、十四時を過ぎた頃だった。
ダイヤモンドジムは、立派な外観の二階建て。
会長の後に続き恐る恐る中に入ると、報道陣の多さに驚いた。
中には松本さんの姿も見え、視線で挨拶を交わす。
リング上にはボクシング雑誌でしか見た事の無いアレックス選手が、淡々とシャドーをこなしている姿が見える。
「わざわざご足労願って申しわけない。」
向こうの会長は、うちの会長と同年代くらいでちょっと小太り。
そして俺を見つけると、笑顔で声を掛けてきた。
「お、うちの松田を痛い目に遭わせてくれた遠宮君じゃないか。はははっ、冗談だよ。」
結構な気さくな人のようで、俺も軽く挨拶したのち隅の方へ行きバンテージを巻いていく。
実はこのバンテージ、亜香里からの誕生日プレゼント。
何の変哲もない有名メーカー品、いつも俺が使っているものだが、何となく気持ちが引き締まる。
周囲を見やると、やはり結構視線を集めており少し緊張感が高まってきた
「どうも、ご無沙汰しております。」
何だか物々しい挨拶が聞こえ横を見ると、完全に頭を剃り上げた松田選手の姿。
「あ、ど、どうも。お邪魔してます。」
口を真一文字に結んだスキンヘッド、迫力で多少尻込みしてしまうのは仕方ないだろう。
「いずれまたリングで会う事もあるかもしれません。その時は…」
松田選手は軽く頭を下げた後、自分の練習に戻っていった。
乾いた笑みを浮かべながら俺も倣い体を解し温め、良い頃合いという時に声が掛かる。
「統一郎君、五ラウンド行きたいらしいんだけど…行ける?」
まあ別に構いませんと了承し、さっそくリングへ。
グローブは十二オンス、まあいつも通りといった所か。
ヘッドギアは前面が閉じていないタイプのもの、こっちの方が好きなので有難い。
視線の先にいるのは世界王者、しかも現在スーパーフェザー級で最強と言われている男。
カシャカシャと聞こえる報道陣のシャッター音が、否応なしにそれを実感させてくる。
そして考えるのは、何を求められていて何を見せればいいか。
(う~ん…考えた所で分かんないし、今の俺が出来るベストを尽くすしかないかな。)
ゴングが鳴り中央へ歩み挨拶を交わす。
(体格は雑誌に載ってた通りかな。)
百七十三センチのリーチ百八十二、二十五歳でオーソドックススタイルの技巧派、カウンターが上手くてイケメン。
雰囲気から察するに、削り合いになる様な激しいスパーを求めている感じじゃない。
(時差もあるだろうし、調整の一環って感じかな?)
左を軽く伸ばし牽制するが反応なし、続けて踏み込みのフェイントから続けざまに左のフェイント、小さく反応するも見切られている。
軽くバックステップすると何故か背にロープが。
(あれ?いつの間にか下がってた?)
数度のフェイントを挟み、右か左どちらかを抜けようと試みたその時、
「…っ…っ!?」
軽く伸ばした左を痛烈に払い落とされ、モーションの捉えづらい右ストレートが俺の鼻頭を叩く。
久し振りに嗅ぐ鉄さびの匂い、だが冷静な対応を忘れない。
「…フッ!…シッシッシッ!」
王者の左ボディフックに合わせ、俺もガードの上に左フックを引っ掛けながら体を入れ替えジャブを三発。
中央で向き合うと、王者と視線が重なる。
雰囲気が徐々にではあるが、戦う者のそれに変わっていくのを感じた。
(少しずつギアを上げていくタイプってことか…はぁ~これはきついバイトになりそうだ…。)
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