第十七話 一つ一つ

十月一日、今日は亜香里の誕生日。


俺が用意したプレゼントは、バッグと見せかけた猫ハウス。


実は以前スイと一緒に出掛けたいと言っていたのを覚えていたのだ。


見た感じ亜香里は喜んでくれており、春奈ちゃんと一緒に外へお散歩に行く事も増えた。


兄としては嬉しい限り、日々の練習にも身が入るというものである。






十月中旬、心配事が減れば減量も上手くいき、良い流れが出来ていると感じる。


ほぼ計画通りの落ち幅、試合まで後二週間と少しだが問題は無さそうだ。


一つ一つ確実に取りこぼさずいければ、必ずビッグタイトルへの道も開けると信じたい。







十一月四日木曜日早朝、俺と佐藤さんは試合の為、一路帝都まで向かう。


一緒に遠征するのは、いつかの備前選手との一戦以来。


そして昼前に到着すると駐車場に車を置き、付き添いは会長と及川さん。


厳密にいえば、計量会場であるコミッショナーの事務所で付き添っていたのは及川さんで、会長は主催の面々と何やら話をしていた。


もう次の事を考えてくれているのだろうか。


計量自体は二人供が一発でパス。


会長達の話し合いを眺めていると、声を掛けてきたのはやはり松本さん。


「やあ、今日も顔色は良さそうだね。結構厳しめの日程で試合組んでるけど…どっちの意向?」


「ああ~俺ですね。俺が早く試合やりたいってわがまま言ってるんで。」


「なるほどね。でもやっぱり上位陣からは敬遠されてると。」


その辺の内情は分からないが、余り相手を選べる状況ではないだろう。


「そっちの佐藤君はどう?明日勝てばランキング入りするかもしれないね?」


当人はあまり意識していないのか、少し首を傾げている。


「どう…ですかね。まあ、自分のペースでやっていきますよ。」


それについては同感だ。


身の丈に合わない事はせず、出来る事を積み重ね勝ちに繋げる、それが本道だ。


そうこうしている内に、どうやら会長の話も終わったらしい。


すると気付かなかったが、向こう陣営のトレーナーに知った顔がいる。


「あれってもしかして備前選手じゃないですか?」


「気付いてなかったかい?まあ、髭も綺麗に剃ってるからね、何でも自分のジムを持つ前に勉強してるとか。」


眺めていると、会長と共に備前選手もこちらへとやって来る。


「どうも遠宮君。この間の試合見たよ。」


備前さんはまるで世間話をする様なトーン、少し動揺してしまった。


「あれは凄いね。あそこまでの完成度はあまり国内じゃ見られないよ。何て言うか、勝利だけに拘る執念を感じたな。」


俺が知っている備前さんは、大体がモニター越し。


何か全然イメージと違う。


「あはは…あまり面白い試合できないんで…ちょっと申し訳なくて…。」


「いや、あれで良いんだ。そんなの気にするのはもっと上に行ってからでいい。まあ遠宮君の場合、環境がそれを許さなかったっていうのもあるだろうけど。」


憧れていた選手からお墨付きをもらえると、何だか勇気が沸いて来る。


「まあでも、明日やるのはうちで期待されてる若手だ…そう簡単には行かねえかもな。」


俺を覗き込む様に眺め、ニヤリと笑う備前さん。


チラリとその背後を見やると、優しそうな顔をした、まだ年若い青年がぺこりと頭を下げる。


俺の相手、鶴岡大二つるおかだいじ選手だ。


サウスポースタイルで長身、非常に綺麗なボクシングをする印象、それほど難しい相手ではないと思ったがどうだろう。


因みにメインはウエルター級の日本タイトル戦。


そして軽く手を上げ戻っていく備前さんを眺めていた俺に、会長が一言。


「あれ、只のはったりだから気にしなくてもいいよ。」


実は俺も何となくそんな気はしていたが、そう言う心理戦も含めてボクシングという事か。








十一月五日金曜日夕刻、試合会場、青コーナー側控室。


佐藤さんとコーナーを合わせてという意味で、今回も青コーナー。


正直俺としては、こっちのほうが何か落ち着く。


今日は第六試合第七試合と、二人が立て続けにリングへと向かう流れ。


もうすぐ出番の佐藤さんは、既にグローブを嵌め最終確認とばかりに、隣で軽快なシャドー。


今回からガウンを纏うようになった。


俺の後援会は、何となくジム全体の後援会になりつつあって、相談の上こういう粋な計らいもしてくれる。


色は紫を基調にしており、刺繍は背にジム名、前面には白い梅の花が鮮やかに咲き乱れており美しい。


かくいう俺もそんなに余裕はなく、既にバンテージチェックも終わりゆっくりと準備を始めていた。


そして余分な人員がいない為、少し早めにグローブを嵌めスタンバイ。


程なくして陣営は控室を後にし、俺だけが残される久し振りの展開となった。


控室にいるのは先ほど試合を終え戻ってきた他の陣営と俺だけ。


その選手はどうやら負けたらしく、椅子に座ったまま項垂れている。


こういう姿を見てしまうと、心が痛むのは何故だろうか。


だが同時に実感する、勝利者はそれだけのものを背負っているのだと。


(ああ…駄目だ。あんまりよくない精神状態だな。何か冷静になりすぎてる。)


闘争心を盛り上げようとシャドーを繰り返すが、中々気持ちが上がってこない。


はぁ~っと大きくため息をついた所で、通路が少し賑やかになった。


どうやら帰ってきたらしい。


「あ…お帰りな…鼻血出したんですか?」


まともにパンチを食う事の少ない佐藤さんには珍しく、結構な出血量。


説明をしてくれたのは牛山さんだった。


「相手小柄な選手でな。グイグイ突っ込んでくるから頭が当たっちまったんだよ。まあ、試合は勝ったから及第点だろ。」


カウンターを取ろうと踏み込んだ瞬間だろうか、だがアクシデントがあってもカバーできるのが本物。


まじまじ眺めると、鼻血以外は特に目立った外傷はない、しかし及川さんは渋い顔。


「軟骨逝っちゃってるってさ。この間の遠宮君と同じ。」


暫くはスパーをお休みしなければならなそうだ。


何はともあれ次は俺の番、ほどなくして係員が呼びに来る。


佐藤さんは俺と拳を合わせてから、シャワー室へ向かった。


花道にはこの間と同程度、二十人くらいの後援会の方々。


あの試合を見てもなお来てくれることには、感謝しかない。










「…赤コーナー、十一戦九勝二引き分け無敗、うち二つがナックアウト、公式計量は………帝都拳闘会所属ぅ~日本ライト級十一位ぃ~…つるおかぁ~だいじぃ~。」


相手選手が紹介されると、会場に暖かな歓声が起こる。


「だいちゃぁ~んっ!がんばってぇ~っ!」


恐らく家族だろう、両親らしき人とお祖母ちゃんに加え、姉か妹か若い女性二人が声援を送る姿は中々に微笑ましい。


「…青コーナー、十七戦十五勝一敗一分け八KО、公式計量は……」


俺は紹介アナウンスを聞きながら、きょろきょろと観客席を眺めていた。


(おかしいな…全然気持ちが上がってこない。)


とは言え、不思議なほど周りは見えていた。


リング中央で向き合うと、相手の情報を頭の中で今一度確認。


年齢は二十で身長百七十八、リーチは百八十二、距離を取り真っ直ぐ打ち出す典型的なストレートパンチャー。


無敗だが、結構ギリギリの勝負を競り勝ってきた粘り強いタイプ。


自陣へ戻ると、会長からもらった指示は端的なもの。


「正面には立たない方が良いね。それだけ。後は好きにしていいよ。」


俺は頷き、ゴングが響く中ゆっくりと進んで行った。

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